ミュシャ


その絵を肉眼で初めて見たのは、MoMA(NY近代美術館)だったろうか。
アバンギャルドな展示の中で、ふと通りを折れるとそこに、その絵が飾られていた。1メートル以上の縦に大きな絵というものが印象的だった。日本画(正確にいうところの水墨画)などは縦に長いけれど、海外で長いものは、そんなに見かけない気がするのだ。
そして、その絵に描かれた1人の女性。もちろん名前も知らないし、想像さえつかないのだけれど(日本語でいうならば、ミュウといった感じの)、その女性の目が、とても凛としていて。それは、すべてを見通すような目、というと平凡に過ぎるけれど、どちらかというと世の中の悪の部分までも見通しながらもそれを寛容(ないし寛太)するような眼差しがそこにはあり、どうも目があってしまった私は、そこに立ち尽くすことになった。
時間にして5分もなかったかもしれない。ただ、「衝撃」というものが強くて、思考回路が少し停止して、右脳だけで、何かを理解しようと試みて。そして、言語化できない不思議なクオリアとでも呼んで差し支えない恍惚感とともに、その絵がすとんと腹におちて。つまりは、昔から知っていたような記憶がねつ造されて私の脳に刻み込まれた。
だから、実はその絵は過去にみていてのかもしれないし、初めてだったのかもしれない。でも、いずれにせよ、私の脳は「ミュシャ」という記憶がつくられ、そして、揺るぎない硬度をもって居座ることになった。アールヌーボとヌーベルバーグさえ混同しそうな頭でも、その曲線美の美しさは説明を必要としない強度で頭を揺さぶった。
「嗚呼、アートの力とはこういふものか」
と嘆きとも感嘆とも判別しがたい思いで絵を視線で追ったことを覚えている。その絵を見ただけで誰の絵かわかる、ということは簡単に見えてそういうものでもないのかもしれない。後期印象派だって、ユニークな人々は数多くいるけれど、誰しも区分できる人というのは、10指で足りるのではないだろうか。ピカソであればゲルニカはわかっても青の時代やフォービズムの作品はピンとこない人はいるだろうし、ゴッホだって糸杉やひまわり等のモチーフは有名でも、ゴッホのリンゴとセザンヌのリンゴの区分なんかわかる人には当たり前でも、そうでない人にとっては似たようなもんじゃなかろうか。ドガとロートレックとルノワールの「踊り子」の違いとかとか(そりゃ比べれば全然違うけど単品で見て、誰の絵?って言われたら)。言い過ぎだったからごめんなさいですが(この辺の感覚値って人によって全然異なるのでたとえが正しいのかまったくわからない)。でもミュシャはやっぱりミュシャで。いや、でもミュシャを特別扱いするのはよろしからぬので、このパラグラフ全部訂正。
いずれにせよ、ミュシャは1人の高校生の心をわしづかみにしたとさ。それだけのお話。
ミュシャの絵はこちら

ミュシャ」への2件のフィードバック

  1. pちゃん

    うん。なんかわかるなあ。その感覚。デジャブとはまたちゃうのんかなあ。
    美術館てめっちゃたくさん絵があるけど、印象に残るのんは1枚。
    それが今の自分自身を反映してるようでおもしろいわ。
    いずれにせよミュシャのその女性に出会えたことは幸せやな!

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  2. 原田

    おお、コメントありがとうございます。
    確かに「好きな絵」というのはある意味、自分を表すわけで、そういう意味では「まだ見ぬだれか」を探すように人は絵を見るのかもしれないですね!詩的な見方をすれば。

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