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20年間、歌を聴かなかった人は歌を理解できるのだろうか?

Checkpadでブログのネタというリストを1つ作っていて。ブログに書きたいことを思いつきでメモっている。
その中でこんな一文があった、「20年間、歌を聴かなかった人は歌を理解できるのだろうか?」と。
これは自分で思いついて書いたのか、どっかからの引用なのかわからない。いつ書いたかさえも覚えていない。
でも、土曜日の朝もやけの中、なんだか気になる一文だった。
20年間、歌を聴かなかった人は歌を理解できるのだろうか?
なんだか枡野浩一の詩みたいだ。
どうなんだろう。有名な話では、外国人は「虫の音」を理解できないとのこと。いわゆるこおろぎとかの虫の音(むしのね)と呼ばれるものね。
なぜなら、そんな風に聞くことを習ってきていない、あるいは聴いて育っていないから。彼らにとってはノイズにしか聞こえない。
それを応用するならば、きっと20年間歌を聴かない人は歌を声にしか聞こえないのかもしれない。
ロックを殆ど聴かない人がロックを理解できないように。あるいはヘビメタだってジャズだってクラシックだって構わないけれど。そういう音楽ってのは慣れることによって理解できる。伊坂さんの「砂漠」でもそういうフレーズがあった。
ではこれを応用しよう。
20年間、恋をしなかった人は恋を理解できるのだろうか。
これは非常に難しいテーゼである。
恋はすべからく普遍的で平等たるものなのか、あるいは相対的なもので自分の鏡となりうるのか。そんなもの論証できないが、ただ人間の生物としての偉大さを考えれば、恋=生殖活動と考えるならば、前者なのかもしれない。
ではでは、さらにこれを応用しよう。
20年間、死ななかった人は死ねるのだろうか?
これはジョークでもなんでもない。これの意味するところは「20年間、死というものを意識しないで生きてきた人が、いざ死ぬときに、その死をちゃんと受け入れられるのか?」ということである。
春樹大先生曰く、「死とは生の対なるものではなく、生に含有されているものなのだ(うろおぼえ)」である。つまり死は行きながらこそ、それをちょっとづつ身にしみこませていくのである。良かれ悪しかれ。
しかし、その死について考えなかった人は自分の最後をそれはそれとして認識できるのか。もっともこの問いを考えるには、そもそも死を身近に考えていたところで、死ぬときはやはり死を理解できないのと同じことで、どちらにせよ結果は同じ、という問題もあるのだが。
興味ぶかいジョークとして、このようなアイロニーがある。
「この世の中で、死は存在しない。なぜなら死んだ人の話を聴いたことがないからだ」というものがある。
これは真である。臨死体験とかはあるが、それはあくまでもも「死の一歩前にいっただけ」であって、死とは「帰ってこれないこと」である。つまり、死んだ人は存在しないのは、定義上、必然なのである(死と「帰ってくる」はいわば背反関係にある)。
そう考えると、死を理解するのはそもそも不可能で、せいぜい体験できるのはキルケゴール先生のいう死の香りがする絶望くらいである。
そう考えると死について考えるのは、いささか厄介な話になってくる。なぜならその効用が見えないからである。効用が見えないものは、諸刃の剣である。いつしか自分にその「無化」された行為が帰ってくる。つまり、「私は一体何をしていたというのか」という自省がその一端だ。
では考える必要ないかというと、それはいわゆる価値観の問題なので、答えはでない。しかし、考えるということはその行為を自分で取り込むということである。いわゆる最近、明らかになった「モノマネ細胞(通称)」の存在をみよ。たとえば、ピアノを弾いている人を見ると自分がピアノを弾いている状況と同じになるように(脳波などが)、考えること、見ること、想像することは、すなわち行為を疑似体験するということである。そう考えると、やはり、考えたところでそこにたどり着かないとしても、少しは近づけるのではないか(これは仮説である)。
そうすると、逆に考えれば死を考えすぎることは、死んでいくのと同義。それは固体の維持という人間の本能から考えて避けたいところ。じゃあ、どうすればいいかというと、どうもしなくていいわけで20年間夢を見なかった人でも電気羊の夢は見る、多分。

個人的に好きな動画をいくつか

先日、ちょっと動画を調べる機会があって。で、わたくしめの最愛の広告であるApple、ThinkDifferentのかのCMを見つけた。
 
 CF クレイジーな人々へ (いけいけどんどん)
いままで外国版(本家版)はあっても日本語の奴がどうしても見つからなかったので欣喜雀躍エビぞりぎみに喜んだわけでR。いやー、このときほどYouTubeに感謝したことはないよ。
ということで、ついでなので個人的に気になる動画を自分用のメモとしてまとめてみた。たまにみかえしちゃうんですもの。では以下より。今回は主に泣ける動画系。
■テンションを上げたい時に:Appleの伝説のCM

こちらがかの伝説のCM。見たもののアドレナリンを爆発させ日本を混乱の渦に陥れたと言う(嘘)。でも衝撃だったなぁ、見たときは。でも、改めて日本語版を見ると本家版の方が良いかも、なんて思ったりして。LAでお世話になったパンチョさんはこの声をWindowsのたちあげの音声ファイルにしてはったような。
■人生に疲れたときに:あるダンサーの一生

これもYouTuberの中ではデフォルトに有名な動画ではないかしらん。違うかったらごめん。でも、しばしばそこらで紹介されているのを見かける。ただ踊っているだけの動画。たしか、家入さんがこの動画に関して「涙がでる」とブログで書いて張ったが、強く同感。ハハという笑いから、えもしれぬ慟哭が襲ってくるのだ。
なんか「がんばって生きよう」と強く思わせてくれる一品。疲れたときに見ると元気がでる。
■号泣したい時に。:世界一強いパパ

これは参った。涙腺叩きつけられた。とはいえ、この動画がピンとこない方もいらっしゃるかと思うけど。個人的にこういう寡黙なハードボイルドに弱い。いや違うな、何なんだろう。この動画が伝えるのは。これも形容しがたい感情が刺激されるのかも。音楽も素敵。
■親子愛関連:ありがとう

これも泣ける動画として有名なCM。明治安田生命。小田さん素敵。このCMを見た人は7割の確率で、この唄を口ずさむ(原田調べ)。上のパパさんと同じ系譜か。
■恋愛したくなる系:君を待つ

たまたま見つけた動画。ミュージッククリップなんだけど、動画素敵。なんか恋愛っていいよね、というかなんというか。ボーイズビーというか。アニエスベーというかなんというか。唄に関しての評価はいちおう差し控えさせて頂きます。
■スポーツ好きな人へ:ジョーダン

だーいぶ前にサニーかの日記で知った動画。上を見てから下を見るとベストとのこと。えせバスケットマンだった原田としては思うところ多し。そういえば2年くらい前にスラムダンク全巻を大人買いして一気に読んだけど、今でも余裕で泣けた。すげえ。

■クールっていう形容詞を学びたいときに:ミリオネア

これは、はてぶとかで有名になっていた動画。改めて。アメリカ(イギリス?未確認)版のクイズミリオネアの1シーン。かっこよすぎる。映画みたい。と、ありがちな感想。
というわけでメモでした。

西尾維新の「戯言シリーズ」を今更ながらに全部読んだ

いや、申し訳ない。西尾維新フリークとしてお恥ずかしい限りなのだけれど、戯言シリーズをやっと通読した。今まで、断片的に読んでいて歯抜けがあったのだけど、今回、やっと全部読みきった。

CF
2006年、原田の眉間を刺激した小説12冊 (いけいけどんどん)

しかし、メモを全部実家においてきてしまったので引用できず。無念。

で、この西尾氏は「ゼロの波の新人」の1人と言われているだとか。もう2人はこのブログでも何度か紹介した舞城王太郎氏、そして佐藤友哉氏。個人的には佐藤友哉氏の本はいまいち肌に合わない。全員、メフィスト賞受賞だっけ?違ったらごめん。いわゆるミステリの若手。2000年以降にデビューした人たち(で合ってる?)。

高木氏いわく「物語中に重要な人物がすぐに死ぬのが凄い」と2年くらい前に言っていたのが改めて実感。「え、なんでこの人しぬん?」というようなシーンが多発。ある意味、文学に挑戦しているという意味では、メタ文学。

主人公成長物語としては、ドラゴンボールの系譜に入れてもいいのかもしれないけど、まったく違うのは、その容赦なさ。ざくざく死ぬ。えげつないくらいに人が死ぬ。それは爽快でもあり、同時に、なんだかすごい違和感を残すという点では、新しいインパクトがある。

で、西尾氏自身が言っているように森氏の影響が垣間見える気もする。天才大好きなところとか。あと、ジョジョの影響がいたるところに散見できる。登場人物の形容詞に「ディープパープルみたいな人」という言葉は小説で始めて見た。あと、「幻影旅団」の名前とかも、にやりとされる。うまいよなぁ。この辺のサブカルじゃないけど、なんつーか、カルチャーごった煮?「わかるよ」みたいな。どうでもいいけど、富樫氏のレベルEでも、筒井康隆氏のオマージュが含まれていたのが懐かしい。ちなみにジョジョの荒木氏も筒井氏が好きとなんかで公言していた。

こう考えると、宮部みゆき氏の偉大なる箴言「僕らは時代の子だよ」という言葉に首を垂れるしかない。いつだって我々は、知らない間に、巷に溢れる文化に埋もれていきているんだ。それこそガンダムだったり、ドラゴンボールだったり、ドラゴンクエストだったり、ロードオブザリングだったり、宮崎駿だったり。

今更僕が言うまでもないけど、ミステリ好きの人は必読ではないだろうか。今後ますますファンは増えるのかしら。もうピークは過ぎたのかなぁ。個人的に「りすか」はイマイチ肌に合わないのだけど。

これを新しい文学の潮流と呼べるのかしら?それは専門家に任せたいところだけど個人的には気になる。というか文学はどこまできているのかしら?浅学なものでわからないや。近代文学史はあれだよね。戦後でひとくくりにしちゃっているよね。国語辞典とかは。で、60年代で思想系はひととおり終わったんだっけ?その後にはもう荒野になっちゃったところにW村上だった?ああ、大江健三郎インパクトがその前後にあったんだっけ。ふーむ。わかんないのに言うのはやめよう。赤っ恥をかく。

ああ、個人的に「エンターテイメント小説」の王とあがめる「伊坂幸太郎」氏「石田衣良」氏にならぶ「エンターテイメント」を提供してくれてはるのが西尾さんということも付け加えたい。全力、おもっきりの主観としては。どういうことかというと、もう受けるターゲットをここぞというまで狙い済まして、そして、どまんなかに狙い通りのものをぶち込める人々です。特に伊坂氏と西尾氏に共通するのは、あきれるくらいの伏線。シリーズを超えてのね。それはなんつーか、もう小説とかの括りを超えた芸ではないかと、そう思うわけでありますよ。

ともあれ、パンチの効いた小説を読んでみたい方はいかがでしょうか(注:嫌いな人は大嫌いだと思う。特に読めないと思う。ジョジョ好き、メフィスト好き、ゲーム好きの人ならきにいりはるかも)。

ちなみにシリーズ一冊目はこれ。
クビキリサイクル―青色サヴァンと戯言遣い