月別アーカイブ: 2013年7月

風立ちぬ

機会があり、ジブリの新作、風立ちぬを見た。

この映画は、なんとも感想を言いたくなる、ないし、かきたくなる映画だ、と思った

良い映画はそれだけで独立して存在するが、ただ、同時に人とのコミュニケーションを促進する映画も、また良い映画である

前者は、たとえば、ショーシャンクやエターナルサンシャインであろうし、後者はたとえばユージュアルサスペクツやパルプフィクションであろう。

往々にして、後者の映画は、人の想像によって完成される作品である。そこには謎があったり、あるいは解釈が求められる

人はそこに意味を持たせたがる。それゆえに、その映画はまさにメディアの文字通り、媒体となって人の口を渡り歩く

この映画も、他のジブリ作品と同じく多くの隠喩や伏線がはぐらされていたという点では同じだけれども、それ以上に「どこに着眼するか」という点が、多く用意されている映画であったように思う

それは恋かもしれないし、飛行機かもしれない。あるいは、そもそもこの映画の試みかもしれないし、ないしは、サブキャラの存在感かもしれない。あるいは重ねられた歴史かもしれないし、ないしは声優かもしれない。それゆえに、ネット上でも数々の侃々諤々の議論が見受けられるのであろう、と思う

いろいろなとっかかりがあり、見ているうちは、それがなんとなく喉に引っかかったサバの骨のごとく違和感として残るのだけれど、それゆえに、映画の後では、これに関して誰かと話をしたくなる、というような

僕の場合は言葉だった。この映画に使われているいくつかの言葉の意味がとても引っかかり、それが後にも残った。

なぜ、そこでその言葉を使ったのか、ないし、「風立ちぬ、いざ生きめやも」という堀辰雄によって素晴らしい日本語に訳された「Le vent se lève, il faut tenter de vivr」の意味合いであったり(蛇足ながら、ヴァレリー自身(テスト氏)に私が学生時代になじめなかった作家なので、そういう意味では、ヴァレリー自体が、喉に刺さった骨である)

そういう点でこの映画は、良い映画だな、と思った

夏がくると見るDVD

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梅雨が明けたそうで。

つまりは夏がきた、ということだ。夏は梅雨明けに始まり、台風が来るころに終わる。

夏がくると、見るDVDがある

サザンの「Inside Outside U・M・I」というDVDで。↓

サザンオールスターズ - Inside Outside U・M・I [DVD]
ビクターエンタテインメント (2003-08-30)
売り上げランキング: 6,099

サザンの曲と夏の映像が合わさったDVDで。曲は好みがあるからともかくとして映像が良い。

波際でサーフィンに戯れる人々や湘南の風景、ないしは一夏の夢物語的な映像が詰まっている。

その中の1曲「あなただけを~Summer Heartbreak~」は、1995年のドラマ「いつかまた逢える」の主題歌でもあり、あの中学生の頃の夏をどうしても想起させ、ああ、夏がきたねえ、と感慨に耽る

そして、20歳を越えてしまった私はこの映像を少しのお酒とともに飲む。弱いので少しだけ

たとえばシャルトリューズ。薬草系のリキュールで、Wikipediaによると「リキュールの女王」とも呼ばれているのだとか。色合いも緑でどうも夏にふさわしい。

花火や海にはいかない夏があったとしても、この夏を迎える個人的な儀式は、ずっと数年来続いている。もはや、一種の宗教のように。たとえば夏待ち教とでもいうような

ということで今年もきた夏を愛でる夜です

何も起こらない小説「国道沿いのファミレス」

ああ、この本は間違いなく面白いな、と確信を持って手に取る本が年に数冊ある

そのうちの一冊が「国道沿いのファミレス」だった。

この勘はどこから来るのかよくわからない。一つはタイトルの妙味だと思う。タイトルが刺さる本は間違いなく中身も刺さる

過去にタイトル買いをしてヒットした本としては「僕のなかの壊れていない部分(白石一文)」「夜の果てまで(盛田隆二)」「水曜の朝、午前三時(蓮見圭一)」「永遠の1/2(佐藤正午)」などが思い返される。

しかしタイトルだけでなく、出版社、装丁、帯なども加味されて、その勘は動いているような気がしないでもないけれど、いずれにせよ、そういう勘に引かれて、この本を手に取った

結果、久しぶりに面白い小説を読んだ(正確にいえば前回面白いと思った本よりも4冊のピンとこない本を得て当たりを引いた)

とはいえ、これは、好きな人と嫌いな人にわかれるだろうな、と思う。いわゆる「村上春樹的」なものが好きな人が。より詳細にいえば「本多 孝好」や「中村 航」が好きな人には、刺さる本だと思われる

何も取り立てて大きな出来事が起こらない日常。ただし、その描写とメタファーやアナロジーがぐっとくる、といったような

当方、読書をする時は、好きな一文をラインをひいていて(そういう意味でKindleのなぞるUIは、ペンで線をひくよりも少し時間がかかってストレス)

で、今調べると10ページほどにラインが引かれていたのだけど、どの箇所も、その1文だけひっぱると非常に語弊があるような一文ばかりで。

ということで、久しぶりに本の紹介まででした

国道沿いのファミレス (集英社文庫)
畑野 智美
集英社 (2013-05-17)
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初めて日焼け止めを塗った日

今日、初めて日焼け止めを塗った

正確にいえば、海やリゾートにいった時は塗ったことはある。しかし、日常で日焼け止めを塗るのは初めてだ

30を越えると色々気にしないといけないことが増える、と日焼け止めをシャワーで洗い流しながら独りごちる

「年を取ると若い時より考えなければいけないことは減るけれど、しなくてはいけないことは増える」というフレーズを思いついた。シャワーを浴びながら

それが正解かどうかよりも、思考実験としてその仮説を検証する

若いうちは可能性がたくさんある。ゆえに、いろいろなことに悩む。しかし、その選択肢は自由だから、すべき義務は少ない、というロジックを立てれば、上記の仮説は成り立つかもしれない。

具体的にいえば、高校生の僕は日焼けなんて気にしていなかった。自分がシミを考える日がくるなんて露だに考えなかったし、そもそもシミなんて怖くもなかった。太陽が大好きだった

その時の彼にすれば、日焼けをしても無敵の自分がいれば、日焼けを恐れない自分もいて、あるいは、日焼けを考えない自分というポジションを取ることができた

しかし今や、日焼けを気にしないと数年後にはシミを反省することはありありと想像できる。ゆえに、僕は他の自分を想像しない

同時に、その道を歩むという選択肢を選んだ以上、すべきことは明解である

いわば、大江健三郎氏が、「問題が特定できれば、解はでるのです」と看破した如く、課題がきまれば、その問題はすでに役目をほぼ終えている。

人生とは問題や課題を見つけることが非常に重要なのである

仕事やキャリアパスでも同じ話を聞いたことがある。若い内は自分のキャリアパスは無限にある。ただ、年を取るとそのキャリアパスは限定されてくる

たとえば起業家が公務員になるケースは珍しいし、弁護士がプログラマーに転身することはあまりない

で、そうやって人は人生のキャリアパスが狭まっていく。しかし、これは悲しい話ではない。ある点までそれが狭まっていけば、その先は逆に選択肢は増えていく

つまりその自分が限定されたキャリアの中で出来ることは、また別のレイヤーで増えていくのだ

たとえば、弁護士でも企業弁護士か国の弁護士か、あるいは独立かどこかの事務所で戦うか、あるいは民事の中でも専門性はでてくる。

つまり、あるポジションが固まるまでは、見えなかったそのポジションにおける縦の選択肢は、そこに立ち止まることで開けてくるようになる

いわば砂時計をイメージしてみればわかりやすい。最初は底からスタートする。横幅は広い。しかし、中間地点まで成長すると、砂時計のくびれで横幅は狭くなる。しかし、そこを越えれば、また横幅は広くなっていく

そう考えると、日焼け止めを塗る自分も、いつか、日焼け止めを塗らない選択肢を選ぶ時がくるのかしら、と思う。あるいは、それは結局、どの日焼け止めを選ぶか、という無限の悩みの中であがき続けるのかしら、とも思う

なんてしょうもないことをシャワーを浴びながら考えた。シャワーで落ちる日焼け止めは素敵だな、と思いながら