知らぬ間に週末が終わって。気づけば、今日は何も言葉を発しない一日だった。
ほぅ、と自分につぶやいた。自分への対話はアンカウンタブルとして。スタバの店員さんへの一方向での発生やメッセンジャーでの対話はあったとしても、対話はしていないことに気づいた。
そういう日は世の中には溢れているのかな、と考えた。あることもあるだろう。一人暮らしで、個人で仕事などをしているとそういうケースはあるかもしれない。個人的には社会人になってからは、土日で仕事がある日も少なくないし、何かしらがあって、あまりないような気がしたけど、気のせいかもしれない。とりあえず世界の数値を肌感覚よりもファクトをとろうと思って、メッセにいた何人かに聞いてみた。とはいえN数は3。
2人くらいは
たまにあるかも
な感じのご返信。もう1人の方は
ない・・・・
さみしがりやだから。。
という回答。
ふむ。さすがにサンプル数3ではなんとも言えない。
ただ、メッセンジャーやメール、ショートメッセージのような会話を必要としないメディアができたお陰で、声を出してコミュニケーションを取る機会はかなり少なくなったことは間違いないように思う。こうして会話をしなければ人は言葉をしゃべられなくなるんじゃないか、なんてことを思ったりするけど、まぁそれは別の話。
それよりも回答にあった「寂しいからない」という言葉が、ほうほう、と思った。
対話は人の寂しさを紛らわせる効用がある、ということが読み取れて。確かに、肌感覚的には、それは理解しえるけれども、ただ、なぜ対話によって寂しさが紛らわされるのかは一考に価する。
それは言葉を交わす行為自体に価値があるのか、話を聞くことに価値があるのか、あるいは話をすること自体にあるのか、となるとなんとも言えない。ただ、後者2つはメッセンジャーで代替もできるので、強いインパクトはないのかもしれない。ロジックとしては弱いけれど。
そう考えると、「生」の声を交わすということが重要だとするならば、それはそれで非常に興味ぶかい。
つまり、視覚は聴覚を代替しない、ということになって、耳に何かを入れるという行為自体が、何かしらの価値を持つと考えられる。しかしは聞くだけならばラジオでもテレビでもできる。ただ対話の相手が1人か多数かでの区分も必要でテレビでは代替されないと考えると、その場合、対話が独自性を持つのは「個人に話しかけられる言葉」か「話すということと連動した行為の聞くこと」という2点に集約される。で、これを論証するには、「話をする」だけで寂しさは解決されるのか?という点を考えればいい。人は悩みを話すことによって解決されるという話も聞くし、2ちゃんねるの人気はそのようなところにある。ただ、話を吐露するだけで寂しさが紛れるならば、それは独り言をしゃべっていればいいということになる。しかしそれでは寂しさは解決されない。
つまりは対話の魅力というのは、「話すことと聞くこと」が連動していることに価値があり、場合によっては「個人に話しかけられる言葉・ないし・個人に話をする言葉」に価値があるというように思える。ただ、これは寂しいという人の価値観に依ることも多いのでなんともいえないけど、まぁなんだっていいや。
で、結論として、なんというか会話って実は破廉恥な行為ではないかと思った。理由は推し量ること宜し。
※結局、最後に電話によって会話をしない日broken