月別アーカイブ: 2007年3月

携帯とかSNSのとかで恋愛のやり方が色々変わってくるのではないか説

いやー、SNSとかケータイのせいで、我々の恋愛ってものは色々変わってくるのではないかと思うわけですよ。はい。

それに関して。

ちょい前のネタでこのようなものがあったのです。知らない間に「元彼女に扮した元元彼女が自分のリンクと繋がっていた」という謎な話なのだけど。

ミクシィの相談事例。知らない間に元彼女が自分のマイミクに登録されてるんですが・・・*ホームページを作る人のネタ帳

これはまぁネタだろうが本当の話だろうがどうでもよくて。

それよか、携帯に勝手に転送設定することが可能という話に度肝を抜かれて。そんな設定可能かどうかしらんけど(今調べたけど、よくわからんかった)、そんなの出来たらヤバイっすよね。知らない間に、自分に届いたメールが他のところに転送されるわけでしょ。自動で全部。つまり、今回の事件では、もともと彼女に全部届いていたわけで。しかも、当人は気付かない。

で、携帯で出来なくてもいいんだよ。PCで出来るから。つまりさ、もし恋人のPCをいらう機会がある人なら、簡単にこの細工をすることができる。たとえばGmailなんて、全てのメールを自動的に転送できるし、Greasemonkeyを使えば、見えないうちにBCCに特定のメールアドレスも設定可能。さらには、サンダーバードも転送設定が可能なわけです。他のメーラーやWebメールでも有る程度、設定はできるはず。で、やろうと思えば、それをフリーメールに飛ばすことができるわけですよね。簡単に。そうすると、万が一転送設定がばれても知らないふりをできる、と(いやたぶん、知らんふりは難しいけど。。。)。細かい細工をするならそれらしいドメインをとって公開アドレスを非公開にして、で、 info@gmail-helo.com  みたいな転送メールを設定しておくと。じゃあ、それを見た人は「なんだデフォルトの設定?」とか思う(いや、おもわんな多分。嘘でした)。ただ、PCに疎い人だったら、転送設定とかよくわからないだろうし。しかも、Greasemonkeyならば、普通に使っている分には気付かないわけで。

つまりメールを根こそぎ、ウォッチできるわけです。さらにさらに。さらには、それでパスワードを見ることもできるわけですよ。普通のサイトだとパスワード忘れた場合は「再設定」となるから、どんなパスワードを設定されているかわからないけど、馬鹿なサイトだと、いきなりパスワードが再送されるわけです(なんてリスキーと驚愕するのだけれど)。そうすれば、そのパスワードを他のサイトに使っている可能性も高い。そうすればですね、そもそも転送設定をかけなくても、自分でアカウントにログインできるようになるわけです。

とか書いたけど、この辺のことならブルートフォースアタックとかのハッキングツールとか、トロイ関係のスパイウェア使えば簡単にできそうだけど。まぁいいや。

で、そこで思ったのが、SNSってよく考えたら、非常にデンジャラッスなサイトではないかと。

あのさ、今まで「恋人の元恋人」って、アクセスできなかったわけじゃないですか。
いわゆるHIVの広告じゃないけど「恋人の元恋人の元恋人を知っていますか?」みたいな。

つまり、恋人の元彼/元彼女を知るには、恋人から聞く必要があった。もっともそもそも知り合いの可能性もあるけど、学生とかでない限り、あんまり多いケースではないと思う。

だからさ、いわゆる不倫ドラマであるような「携帯みたらアンタの名前があったのよ、アンタって何者」みたいな脅しは、あくまでも携帯や手帳のデータを盗み出してこそ出来る業だったわけです。

しかしですね、今や昔。SNSさえあれば、恋人の元恋人を見つけるなんて造作もないことなんです。まぁ、繋がっていない人もいるし、そもそもアクティブに使っていない人なら、繋がっていないケースも多々あるけど。

でもさ、普通のケースとして「恋人」と繋がることはあるわけじゃないですか。みなさんはどうか知らないけれど、一般的に、想像していってるのだけど。日記みたいし。で、分かれる、と。でも分かれたときに、リンクを切るかきらないかはケースバイだけど、まぁ切らないケースもあるとする。

そうすると、必然的に次の恋人が出来て、SNSで繋がった時に、そこには「前の恋人」「現在の恋人」がリンクないに必然的に存在することなりますよね、そうですね。

で、ここで、こういうケースはどれくらい起こっているのだろうと身近な友人のケースを色々想像してみた。

意外と恋人は繋がってない人も多いかも。まぁいいや。

で、こうなった場合、どうなるか?

つまり、現在の恋人は昔の恋人に簡単にアクセスできるようになったわけですねー。もっともこの場合、「前の恋人が誰か」という推測が必要だけど、まぁ女性の鋭い勘をもってくれば、わかるのではないでしょうか。しらんけど。

で、そうするとどうなるか。

あー、間違えた。恋人同士だったら面白くないのか。たとえば、不倫相手が「奥さん」にアクセスするのも非常に容易になるわけですよ。しかもその場合なんて、紹介文を見ればほぼわかるわけで。でも夫婦で繋がっているケースなんて少なさそうだな。まぁ、でも今後の展開としてはありうるのだ。

そうすると、もうあれですよね。あれ。

ふーん。

ワイルドサイドを歩け

最近読んだ本より。

ワイルド・サイドを歩け (kazlog.jp/book)

この中でなかなか気になる一文を見かけました。

つまり選択肢をともなわない行動では、人間、決して前には進めないわけよ。時間に解釈を委ねるんなら泣き寝入りすればいいだけど、積極的に物事を解決していきたいわけね。
だからぁ、最悪の選択肢もほかの選択肢と同じように扱いたいの。とどのつまり、それができなきゃさ、もう悩むなってことよ。

どうでしょうか。

最近、若干、ブログが哲学チックになってきてそっちに寄り過ぎるのは避けたい昨今ですが、まぁ、その辺りの話しになrのかしら。

んと、ここで言われているのは「自分で選択肢を決めることの意味」だとわたくしめは理解したわけです。

でも、実は人間の人生ってば、選択肢ってそんなになくて。あるように見えても、実は、それはなりゆきで選んだものだったり、はなから決まっていた選択肢だったりして。

個人的に好きな言葉にLet it be(あるがまま)ってのがありますが、これもいい意味では「即天去私」なのだけれど、あるいは、まぁミドルネガティブな意味での「ポジティブ思考」なのだけれど。

それってば、実は選択することをマイルドにヘッジした行為である。つまり「どの選択肢をとっても効果は同じ」と考える。ないし、「どの選択肢であっても、結果的にはOKと考える」という「非常にずるい」考え方なわけです。

で、上記で言われているのは、もっと選択することの大切さ。恐らくこれはハイデガーの言うところのゾルゲと関係しているような気もしないでもないけど、下手なこと言うと危険なので言わない。

で、問題はその選択肢がまやかしのものであっても、効果があるのかってのが個人的に気になるところで。

つまり、この選択肢を選び取ることの大切さは「実質的に選択肢を選び取る」から有意なのか「選択肢を選んだという本人の存在」が有意なのか、という点の違いである。

哲学にたとえば禁忌だがあえていうならば。そうねー、ある囚人が死刑宣告されて。で電気イスと絞首刑を選ばされて。で、ここでの看守の目的とは相手を殺すことだから、いずれの選択肢だって問題ない。しかし、囚人によっては、どちらかを選ぶことはできる。で、これは実質的には何も選んだことにはなっていない。結果論から見ればどちらでも死ぬのだから同じである。しかし、それでもどちらかを選ぶことが大切のか、という問題である。

あるいは、である。あるいは、もう1つ、偽者の選択肢の存在を。たとえば、男が女に告白したとする。で、女は「車を買ってくれたら考える」という。男はがんばって車を買う。しかし女は「考えたけどごめんなさい」という。男はこれを見ると、「がんばって挑戦した」という選択肢を得ている。しかし、女は最初から付き合う気はなかったとする。そうすると男が頑張ろうと頑張ろうまいと、結果は同じである。さきほどの例えと違うのは、さきほどの選択肢は選択肢そのままの価値である背景も等価である。しかし、この例えでいうのは選択肢に見えるBは実はAだった、というまやかしである。つまり背景が異なるわけである。

しかし、この2つのどちらでも当人からすれば選択肢を勝ち取ったという認識になる。これが大切なのか、あるいは「本当に差異が生まれる選択肢」が大切なのか。その選択肢としては、たとえば「大学院にいくか就職するか」のような選択肢でもいいや。まぁ、2つの選択肢が同じではなく、かつ結果的に別々の未来が存在している場合。もっとも、実はこれだって程度論や、主観か客観かに視座を置くことによって「ナンセンスな選択肢」になるのだけど。極論すれば、いずれせによ「50年後は死ぬ」というマジックロジックを使えば「結果は同じ」ということになr。まぁ、しかしそんな間違った達観を使うと話がややこしくなるので保留。ここはあくまでも「程度」を重視すべきである。理由は、実験というのは、一部を切り取ってそれを演繹化できるかどうかに価値があるのであって、その実験がフレームが小さいというだけで拒否されるものではないからである。

で、なぜこの違いが大切かというと、一般的な教育論などもこのロジックを使っている時があるからである。

つまり、最初から答えが決まっている場合でも生徒に考えさせる。「どっちがいいと思う?」と聞く。で、結果はどちらも同じになる。あるいは、先生が決めている結果に誘導する。しかし、生徒にとっては自分が決めたように感じる。それがたとえば教育のモチベーションや自己動機付けの意義に関わってくる問題だから価値があるのである。ここでの意味は「まやかしの選択肢でも価値がある」という見方である。

まぁ、それはそうなんだろう、と思う。なぜなら結局、人間ってのは意味づけに価値を置いているのであり、一般的な心理学も、万物の認識によって生まれる差異の学問である。そのため、環境要因や変数、あるいは効用はまったく別問題として扱う必要がある。

では、そこで出てくる疑問が、「まやかしの選択肢」と「実質的な選択肢」に差異はあるのかどうか、という点である。これが違うならば、人にアドバイスをする時の言葉も代わってくる。まぁいいや。これは傍流だ。

んと最初の引用に戻るならば、選択肢が存在する場合に避けたい選択肢も同等の重みをもって扱う必要がある、とある。これは個人的にはリスクを見極めることだと認識しているのだけれど。つまり、「こっちを選びたい!」というポジティブな選択肢のプラスの側面だけを見て物事を決めるのではなく避けたい選択肢のネガティブな価値とちゃんと相対的に比較して、結果を導き出すことの大切さである。

こうすると何が嬉しいかというと、選択をする、という行為をおもみづける事が可能になってくる。ということでやっぱりリスクの見積もりは大切だ、という結論が個人的には出てくるわけである。

ということで、ゴムはちゃんとしましょう(疲れたので超投げやりな結論)

からっからになっちゃうまで

定期的に走るようにしておる。

いまや走らないと気持ち悪くなるほどだ。。これも人間様の習慣というものの力だらう。人間だれしも10年近く同じことを続けていれば、そこに慣性の法則が働き出す。のだらう。

しかしながら、さりとて毎日走ることは叶わない。週に1回、花の金曜日の夜と引き換えに走るやうにしている。どんなに時間が遅くならうとも。土曜の夜は何かしらシャヌムニになっているようだし、日曜の夜はテンシヲンがあがらない。そこで金曜日に我が身を走ることにささげるようにしてひる。

最近はラストスパァトに凝っている。以前、りょうが言っていた方法を真似たものだ。最後の数百メートルをへとへとになるくらいの全力で走る。あたかもフォレストガンプのあのシーンのように。あたかも走れメロスの生き様のように。なんて陳腐な比喩!

息が上がるなんてものではない。肺が焼きつくようになってくる。いわゆるオウバァヒイトと呼ばれるものか。呼吸がゼイゼイからヒィヒィと穴の開いたジャンバラのような腑抜けた音を奏でる。酸素が足りず頭がくらくらする。しかし、すこぶる爽快なことこのうえない。足はガクガクで倒れそうになる。そこで、無理やり体を傾斜され前足を出させる。日本の本能はゆるぎない。嗚呼ゆるがない。

何も考えられない。普段、走っていると心に映り行くよしなしごとをそこはかとなく思い出すことになっていく。むすんでは消え、消えては結ぶ川面の泡沫のやうに。しかし、全力での疾走においてはそれも叶わない。頭が真っ白、むしろフリィズしてしまう。

最後にラストスパアトに個人的おすすめの曲でも(YouTube張ると著作権違反を助長しているようでなんか嫌なんだけどどうしたものか)。

A Question of Honour by Sarah Brightman
2分後あたりからの盛り上がり方がテンシオンをぐいぐい引き上げる。

Kids Return 久石さん

すごいジム

久々に「すごい」シリーズ(適当)です。

春なので、うつけ者たちが街にふらふら繰り出す季節ですね。しかも「今年こそは」ってなもんでジムに通いだす季節です。多分。ということで、今回はすごいジム。

 ・すごい彼氏をつくる方法 1
 ・すごい彼氏をつくる方法 2
 ・すごい彼氏をつくる方法 3 
 ・すごい就職活動 1
 ・すごい就職活動 2
 ・すごい就職活動 3
 ・すごいデート 1 
 ・すごいデート 2
 ・すごいデート 3
 ・すごいラブホテル 1
 ・すごいラブホテル 2
 ・すごいディズニーランド
 ・すごい温泉
 ・すごい恋愛

■ジムを決める

ジムを決めましょう。回りの声ではティップネスとコナミが強し。まぁ、場所によって違うんだろうね。系列もいっぱいあるし。大体1万円前後?で、毎月払う系。で、高いところだと2万円くらい。プチリッチなジムね。そのへんは、タオルや服が無料で借りれたりする。おねーちゃんの可愛さもちょっとだけアップ。で、さらに高級なところ。ここは入会金がべらぼうに高い。100万を超えるところも。もうなんつーか、いわゆる裸の社交場。いわば、公衆乱交場。リメンバーブダペストのゲイ温泉。ヒルズのアレの場合は、SNSよろしく紹介制だという話。虎ノ門、白金、六本木、あとどこにあったかな。昔、かなり調べた覚えがある。他にはホテルのジムを定期的に貸しているところもあったはず。パークホテルとかやってた気がするがどうか。てか、かってに闖入している人もいるという噂。そういえば、メキシコはカンクンで、ヒルトンのプールに勝手に泳いでいくというウツケが流行っていた。、出他、他。ああ、あとは市民プールとかなんか、そういう役所がやっているジムも御座いますね。で、全体的に時間は早いところで7時。で、夜は遅いところで22時。土日も基本的にやってるけど、オープンが遅いところが多い。まじめに書いてしまった。つまんない。

■場所を決める

ジムは近いところが一番。これ鉄則。値段とか時間じゃなくて場所。これは信じたまえ。遠いところのジムなんて絶対にいかない。ということで、少々高くても近くのにしましょう。つまり自宅に近いか、職場、学校に近いか。ただ、着替えとかもっておく場合は自宅に近いほうがいいかもね。ただ、ロッカーを貸し出ししてくれているところもあるので、その場合は、預けておくと吉。で、以外とやっかいなのが通勤、通学途中にあるジム。これ以外と駅を降りていかないだけどどうだろうか?行くのかな。まぁいいや。よきに計らえ。

■ジムの時間

まず、目をさまします。つまり寒い冬は目が覚めないのでジムはいけません。春になったらジムに通いましょう。あ、しまった。自分が朝型派だからジムは朝いくものと思った。違う。いつジムに行くかを決めましょう。暇な人は空いている時間にいきましょう。経験則では15時ごろが空いている気がする。あと、10時から12時くらい。でも基本的に空いている時間はオバサンがいらっしゃいます。いい言葉で言えば有閑マダム。悪くいえば、肉体と時間を持て余した傾国の中年いろんな意味で。混んでいるのは朝7時と夜18時以降。つまりサラリーマンが出勤前にいくか、出勤後にいくか。僕は、その混んでいるのがいやで、前、職場のランチタイムにジムをいっていた記憶もある。徹夜明けとかにはシャワーがちょうど気持ちよかった。あるいていけるし。ともあれ。そうそう、日常に組み込むのがベスト。たとえば土曜日の午前とか、毎日帰宅時間とか、とりあえず周期は何でもいいから一定にするのがベスト。インストラクターの人いわく最低週に1回でも、なんとか筋肉はキープできるとか。まぁケースバイだろうけど。僕の場合は、基本的にいつでも確保できる時間、つまり土曜日の朝にいってましたですね。最近はそれさえままならなくて、先月くらいに結局やめてしまった。

■ジムで何をするか

ジムで何をするかというとマッチョなおやじの肉急を眺めるよろし。すごいよ。40overのおっさんがムッキムキ。冗談かと思うほど筋肉隆々。ものすんごい。ガッツんがっつんバーベルあげてるよ。で、まぁそれを眺めておくのが第一点。意外と、女性は見かけない。いやいるんだけど、なんつーんですか。シャルウイダンスよろしく華やかなヒヤシンスは見かけない気がしますがどうでしょうか。でもスタジオいっていると別なんだろうね。あ、仕組み。ジムは基本的に3つに分かれます(決めうち)。1つはマシーン。つまりギッタンバッコンするやつね、ダッチワイフとか。で、2つ目はスタジオ。いわゆるストレッチとかヨガとかホットヨガとか、灼熱のヨガとか、夜のヨガとか、爬虫類のヨガとか、すっとこヨガとか、のたけうちまくるヨガとか、ストーンヨガとか。そんなのがやってる。ボクササイズとか人気だね。最近は格闘技系が人気という噂。おじさまがたもたまにいる。若い人はあんまり見ない。でもこれはジムによるだろうね。で、もう1つがプールです。こうしてジムは3つに分かれるあるよ。トレッドミル、つまりランニングマシーンがジムの権化でもあるけど、一口にランニングマシーンといっても色々ありましね。エアロバイクから、普通のしゅこしゅこ走る奴から、べろんべろん走るやつから、なんかシーソーみたいなの使う奴から。だから、これとマシーンは別に分けてもいいんだけど、まぁ、一般的にはマシーンだよね。

■ジムで何をするか2

個人的な体験としては、走りを1時間弱。走りながら本とか読んでました。楽チン。あと、トレッドミルにイヤホンがあって音楽が聴けた。テレビとかもかかってた。便利。でも、これもジムによるだろうからわかんないや。でもipodはデフォルトでしょう。つまり音楽か本かが必要ではないかという説。走りながら本はきついな。シーソーと本の相性はいいよ。シーソーってなんて説明したらいいんだろう?1人浮遊術訓練器?まぁそんなかんじ。で、マシーンを30分。初心者がつまずくのがここ。「マシーンってどうしたら良いかわからなーい」と、バージンよろしくてらいがあるわけだ。で、まぁ基本はインストラクターに教えてもらうのがベスト。あれはやり方を間違っていると痛い目に合うので。あと重さとかの感覚とか。で、これもジムによるけどジムによっては「ここ鍛えたい」とリクエストかますと、ちゃんとマシーンのメニューを組んでくれて超便利。あとは、マシーンにしたがって、トヨタおろしくカンバン方式で体を鍛えるのみですよ。大体○キログラム×○回×○セットが基本。あと、バーベルっていうの?あれが曲者。ブッシュは、あれ100キロもちあげられるんでしょ?あれすごいんだよ実は。やったことある人はわかると思うけど。自分の体重を持ち上げるのもかなりキツイ。僕は50キロで挫折。腕がプルプルする。手を離したら、首にギロチンチョップになってアベシってなるやつね。創造つくかしら。

■プール

プールよいよね。世界がプールで出来ていたらいいのに。で、ジムによってはプール混んでてしょんぼり。1レーンに3人とか、って、あれか。流しそうめんみたいになっている。25メートルプールでさえも都内には少ないという噂。げんなり。

■ジムの効用

ジムの効用は体を鍛えるためじゃありません。まず人脈を作るためにあります。サウナで、一物を出しているおっさんと語り合えば、もう裸の付き合いですよ。特に六本木や恵比寿の外人さんがおるところのジムなんて、あれですよ。サウナで9桁円の交渉が始まるというもっぱらの噂。あと、ジムの目的に恋愛はいかんね。あんなのぱっとしない。だってさー、いくら「汗が素敵」っつっても、死にそうな顔してワークアウトしているわけですよ。あんなんに浪漫がおこってたまるものか。

あかん。つまんないものになってしまった。残念。ごめんなさい。

駅ですれ違った紳士に見える世の中の道理

今日、ふらふらと駅を歩いておりました。
アニメならば、「とぼとぼ」という効果音が付くような。理由はねむすぎてです。ですから、「ふらふら」のほうがやはり適切のようで御座います。
そして電車に乗りました。徒然と考え事をしている間に電車は目的地につきます。目的地につかない電車はなく、電車のない駅もありません。でも、駅のない町はあるし、目的地に着かない人生だってありますけれど。
駅におりました。夜の23時を回っていたでしょうか。世間の人々は少々くたびれた時間帯です。しかも月曜日。だれだってテンションが下がり気味です。タカ派だってひよっちゃう時間帯。言うならば。
そこで、ある紳士が。そう。まさに紳士と形容せざるを得ないような御仁。
ハットにちょびひげ。そしてアランミクリの眼鏡(想像)。濃紺のスーツ、ストライプ入り。これでステッキさえあれば、と思ったものです。もっともこれは後で思い返したことなのですが。
そこで、彼は電車に飛び乗ろうとしました。私は電車から降りましたゆえに、彼は逆のほうから向かってきた、とお考え下さいませ。
世の中にある「タイミング」という魔が存在しまして、彼は急がないと電車に乗られない状況です。「電車しまりまーす」と駅長さんがおっしゃっている頃合だとお考えくださいませい。ドアが「プシュウゥ」と擬音語を上げる頃合です。
そこで、彼は何か所用があったのか、少し駆け足になりました。紳士なので走ることはしません。しかし、急いで電車に向かいました。うまくいけば間に合う。そんなタイミングです。
そこで事件が起こりました。
突然、柱から飛び出してきた男の方がいました。その方に紳士の方はぶつかりそうになりました。軽くぶつかったのかも知れません。
しかし、それでも、そのまま電車に飛び乗れば乗れるタイミングでした。だって、あと1メートルの距離だったのですから。
しかし彼はそうしませんでした。そのぶつかった人に向き直り、ちゃんと顔を見て「すいませんでした」と延べました。急がず、抑揚の効いた声で(ここは若干、原田の遠めからの創作が入ってますが)。ともあれ、確かに彼はいちいち体を逆に向けて、その男の人に謝りました。両足をそろえて。
彼は悪くなかったのです。いや、よしんば折半としましょう。急に出てきた男の人も悪かったのです。
しかし案の定、電車がいってしまいました。彼が走りながら謝っていれば間に合ったでしょう。でも、彼はまず謝ることを選んでしまいました。眼前でしまるドアを見て、彼は、少し目線を落とし、ふぅとため息をつきました。そしてハットを少し触りました。
それだけのことです。
でも、私は、そこに何か人生を感じ取らずには居られませんでした。「人生ってば、やっぱりそうなんだよなぁ」と。
急ぐのもよし、金を稼ぐことや、キャリアアップや、あるいは目的に向かって邁進することはよいことです。でも、それによって、ぶつかった相手に謝ることができないのは、とても悲しいよな、と思ってしまったのです。彼は、恋人の元に急いでいたのか、あるいは、トイレに行きたかったのか理由はわかりません。
でも、人への礼を失してまで急ぐほどの用事は、彼にはなかったのでしょう。彼にとっては、何かしら、小さな守るべきものがあって、それを大切にして生きていくことが大切だったのだろうか、と私は想像します。想像するしかないのですが、でも、彼の所作から、そう想像してしまったので御座います。
人生何するもよし。失うもよし。笑うもよし。泣くもよし。しかし、紳士の所作を忘れないで起きたいなぁ、と思うのです。いくらえせであろうとも。
今夜の出来事はまさしくそのことをじんわり思い返させてくれた出来事でした。
#川上弘美風を目指したけど、どこかで間違った文体になってしまった。誰の文体だろう、これ。急に出てきた。

いつの頃からか電車の中で

ちょっとした電車のお話。

私は生涯、電車通勤をしたことがなかった。小学校と中学校は歩いて。高校と大学と社会人の初期は自転車で。

最近はよく電車に乗る。

電車に乗ると、本を読む以外の選択肢がなかった。以前、本好きの友人と話していたのだけれど、「もし本を持たずに電車に乗ってしまったら、キオスクで何でもいいから活字買うよね」と言われて、強く同意した覚えがある。

別段、活字中毒というわけでなく、単純に、手ぶらで電車に乗れないのだろうと思う。自分の場合は。貧乏性だ。さらに、間違って携帯電話でも手慰みにいじろうならば、自己嫌悪することしきり。

以前誰かと(覚えているけど)、それで論争をしたこともある気がする。「電車の中で携帯電話をいじるのはやめてくれ」と。

いまや電車の中で、携帯電話を触っていない人がいれば、その人はDSを触っていて。何かしら非常に物悲しくなってくる。誰かはそのシーンを「美しくない」と一刀両断していた。しかりしかり。

電車の中で誰もがipodを聞きながら電話に親指をすべらせている光景は誰が見たって(この場合の誰が見たってという論拠は主観なので、実は、これはeverybody is nobodyのレトリックだがともあれ煽りの文脈ではそれは一時的には有効)、美しくない。

ともあれ、「時間を効率的に使っているんだよ」と反論されてぐうの音もでなかった覚えもあるけれど(効率性至上主義を公言している身としては)。でも、時には、効率性よりも美意識の方が上位概念、だろっ(決め台詞風)。

で、何をするかというと、本を読む。
本は電車の中で読むものだ、というくらい、電車の中のほかの過ごし方を知らなかった。

しかし、ここ最近、電車の中で本を読んでいない。もってはいるのだけど。

代わりに、電車の中の人々や風景を眺めることが多くなった。ぼんやりと物憂げな考え事をしたままに。そして、ふと思った。

世界は、みなに対して平等の世界。だけれども、それをどう見るかは個人個人によって違うのだ、と。

つまり、電車の中の風景。中に乗っている人たちにとっては、まったく同じ風景が見えているわけです。寸分の違いもない。もちろんセクハラしている人とかいれば、まぁ、その思惑の分だけ電車内はカルカチュアライズ(あれ、なんか違う)されているけど。

でも、その同じ風景を見ていても、感じ取る思いってのは人それぞれ違って。

もっとも、これは当たり前の話だし、今更言うものでもないけれども、まぁ待って。

その感じ取る思いの違いは一つは歴史(経験)の違い。たとえば、林檎が落ちたのを見たからって誰しもが重力の発見に気付かないように、それに気付くには、それ相応の知識量がいる。それを時に人は経験や歴史と呼ぶのだけれど。

そしてもう1つは志向性。つまり、何を考えているかで、その人が見える世界は変わってくる。たとえば、明日のプレゼンテーションの企画案を考えている人にとっては電車内で見た傘がきっかけで新しい企画を思い浮かぶかも知れない。あるいは、受験生だったら、電車の中の大学生を見て、見果てぬ夢を追うのかも知れない。

ともあれ、外界を見て、私たちが違う世界を見るのはざっくり言って(あくまでもざっくり言ってという前提つき)上記の2点による違いが大きいのだと思われる。

これは、故人が「人間は見たいものを見る」という1文で指摘した認知心理学の根幹を成すものだけれども。

でも、時に、何気ない風景が、ある人にとっては歴史を変えるほどの事実をアフォーダンスしている。「ほら、ここにいるよ」と呼びかけている。あたかも、ジプリの世界にざわめくフェアリーテイルのごとく。

いわゆるこれは、コリンウィルソンの言う「アウトサイダー」が見る世界にも繋がるかも知れない。確か、彼が喝破したのは「アウトサイダーとは、見えない世界が見える人々のことだ」と言っていた。

この本は、なかなかおすすめですよ。昔はやった本だけど色あせないと思う。もっとも8年くらい前に読んだきりだから今読むと詰まらないのかも。でも、今まで覚えているくらいだからやっぱり面白かったのだろう。

アウトサイダー
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ともあれ、そのように、「みなと同じ風景を見ているのに違うものを見てしまう人々」がいる。

私のもっとも愛する誌から引用するならば下記に該当する。

クレイジーな人々へ (いけいけどんどん)

四角い穴に丸い杭を打ち込むように

物事をまるで違う目で見る人たち

彼らは、四角い穴に丸い杭を打ち込むのだ。世界がまったく別のものに見えている。

そんなことを電車に乗りながら考えていた。そして、僕が見ているこの風景も時に人にとっては冥府へのいざないとなり、あるいは天国への架け橋になるのでせう、と。メタファーでもなく、1つの眼前たる事実として。

で、ここまでは、まぁ当たり前といえば当たり前のことを考えていたんだけど、何が言いたいかというと、そんな時に本は読めなくなってしまった、という話。

なんとなく。

本はプッシュをしてくれるけど、やはり人にとってはプルが大切なんじゃないかなぁと(ここは比ゆ的な意味でのプッシュ/プル、テクニカな意味ではない)。そう思った。

本で得る知識も大切だし、時に携帯電話で繋がるコミュニケーションは大切だろう。あるいは電車の刹那の会話も有意義なこともあるだろう。でも、時に、電車の空間に浮かぶ泡沫たる思いを慰めるのも一興なんじゃないかな、と。

いつの頃からか電車の中でそう思い始めた。

ちょっとした疎外感の略称。言わば暫定的

なんだかとてもとても深く深く潜っていた。長い眠りだった。

夢を記憶していたのは今年に入って初めてのことだった。とても嫌な夢だった。地引網に引っかかって足が取れなくて、とろうとしてさらに腕が絡まって。そんなあり地獄のような。結局、毛布に絡まった足が暖房の熱気に晒され汗ばんでいた。夢と現実はそうそう大差ない。

自分を蝶と勘違いした傲慢な男は孟子だったな荘氏だったか。いずれにせよ、人生は長いなんていうのは一つの形容詞であって、なんら事実でもないし、新しい発見でもない。寧ろ、厳密に言うならば人生とは時間の積み重ねであり、それは即ち、今、目の前にしている1分1分が積み重なったものでしかなくて。だから、この空虚かあるいは混雑した1分が引き伸ばされたんものが即ち人生と。勿論、量は質を転化させるのだから、一概には言えないけれど原則としてはそうなるのだ。原理主義はクラップだけど、でもやっぱり原則は大切だ。憲法なき刑法はない。前文のない憲法はあるけれど、多分。

いつか友達の友達の話を聞いた。その彼は一度聞いた物事を忘れない。まるでGoogle先生がリアルで歩いているような人間だ。何か過去にあった雑学は全て奇麗に記憶されている。すてきな脳だな、と思った。そんな脳が自分は持っていたらどうするだろう、と思った。けど、やはり持っていないわけで考えるだけ無駄と思って口笛を吹いた。春の小川はさらさら。その友達も小学校で最初に習ったひらがなを覚えていた。「つ」だそうだ。ふーん、と思った。

曰く記憶力が良くない、という人の話を聞いた。7割のことを忘れてしまう。その人は幸せなのだろうか、不幸せなのだろうか。多分、前者なのかしら?と思った。傍目から見れば、ということだけれども。

シーシュポスの神話が好きだ。

シシュポス – Wikipedia

シシュポスは罰として、タルタロスで巨大な岩を山頂まで上げるよう命じられた。岩はゼウスが姿を変えたときのものと同じ大きさといわれる。シシュポスがあと少しで山頂に届くというところまで岩を上げたところで、岩はその重みで底まで転がり落ちてしまうのである。これが永遠に繰り返されている。

つまり山の上に岩を転がして持ち上げるように命じられたシジフォス。でも、頂上に上ったところで岩の置く場所はない。また転がって落ちていってしまう。エンドレスなアップサイドダウン。インサイドアウト。

カミュはこれを是としたのかあるいはどう解釈したのか。また読み直さなきゃな、と思った。実家の本棚、多分、遠藤周作の横に直してある。遠藤・周作。

晩御飯に豆腐を2丁食べて見た。思いつきの挑戦だった。そのお陰で、今、猛烈な腹痛におそわれている。肥満化した豆腐腹。鈍痛。豆腐の仕返し。醤油くらいかけてあげればよかった。でも、ただ真っ白な豆腐をただ真っ白なボールにぶちまけたときの気持ちよさを誰が止められるだろうか。醤油なんてお呼びじゃない。多分。

駅でとても印象的な人を見て。かっこいいとか、奇麗とかそんなんじゃなくて。何かしらを超越した容貌。まるで初めて太陽の塔を見た時のような。確か、大江戸線の六本木ですれ違ったんだと思う。あの黒い円柱のすぐ横で。思わず息を呑んで。確か、その時、丁度ipodでは、Daydream Believerがかかっていて。

The six o’clock alarm would never ring.
But it rings and I rise,

でも、現実には何も変わらなくて。流砂に流れ行く朝6時過ぎの慟哭とでもいうような。そして、また結局、長い長い六本木の大江戸線を上っていくことになりのだけれど。クラップ。say Crap!

豆腐の怒りが収まらない。oh daddy

そして気付いた。あと半年で夏だ。夏だったよ、諸氏。思わず飲めないビールを冷蔵庫から出してきて口につける。そして、夏のDVD。今年の夏はどんな夏だろうか。夏は年ごとに顔を変える。時に易しく、時に切なく。まるで、人が「夏」ということを聞いて、思い出す単語が異なるように。蚊取り線香や花火や、麦わら帽子や。サザンの唄で思い出した。一番好きな歌「素敵な夢を叶えましょう」。エピソードはこうだ。昔、少し携わっていた夜のお仕事。そのお店で先輩がこれを歌った。ちょうどアルバム「さくら」が出たところだった。難波の夜明け、朝4時に聞こえる寂しげな歌声。なんだかとても印象深くで。夏の終わりだった。その歌詞にこういうものがある。

南十字に戯れる星空に願いを

ジンバブエで初めて見た南十字星を思い出した。本当に十字、だった。ジンバブエの怒号と狂騒が入り混じってまさに、願いを祈りたくなるような星だった。日本からずっとずっと遠いアフリカの大地はとても熱く。

それを人は夢と呼ぶんだぜ、maybe。

【お知らせ】学生さんとかを激烈募集中の巻

突然ですが。龍吾と「あることしよう!」ということになったのですが、せっかくならば沢山の人でやった方が面白いので、突然ですが学生さんを激烈募集です、尋常じゃなく。学生さんじゃなくても良いのですがやはり時間ある学生さんの方が良いかなと思う次第。無尽蔵に募集していますので、ご興味のある方は原田までメールくれると嬉しいです。花びら回転出血大入り大サービスです。メールアドレスは、 info@kazuhide.com です。物で釣るという方法も駆使しようと今、思いつきましたのでメールくれた人には拙著「SNSほげほげ」あげます。「自腹で買った」奴が3冊ほどあるので3冊分くらいは。これでメールこなかったら寂しいので、誰か付き合いでメール下さい。オトナへの階段です。興味本位でちょこっと参加するだけでもありです。あ、何をするかは一切書いてないのは、特に他意はないのですがメールくれたらお伝えしますです。でメールみて詰まんなさそうなら辞めちゃいましょう。Comeonjoinusです。物凄いゆるゆるですいません。よろ

家入さんの「こんな僕でも社長になれた」を読んだ

いやー。2回泣いた。しかも電車の中で。さらには電車乗り過ごした。赤羽橋で降りなくちゃいけないのに、大門まで行ってしまった。

ご存知ペパボの大社長、家入さんの本。

わたくしめ、こういった立志伝を読むのはとても好きなのだけれど、その中でも、本書は非常に独特の雰囲気を持った一冊でした。そもそもビジネスの項と前半の項の割合からして独特。

ではいつもどおり、少々引用させて頂いてご紹介。

絵本を読んでもらっていた幼きころの家入さん。しかし、毎回同じなので飽きてきた。そこで・・・

より新しい面白さを求めて、今度は同じ絵本を後ろからさかさまに読んでもらうのだ。

の下りには素直に感動した。この発想すごい、とか。

これはきっと人類が正常位にあきてバックをはじめたのと同じ原理だな(動物的にはバックが基本で正常位がイレギュラーだとしても)。そうして文化は発達していくのだ、多分。

そんなわけで、気がついた時には僕は電車に飛び乗っていた。とにかく遠くへ行けば何とかなると思ったのだ。

ここは共感した。僕も高校生にもなってしていた気がする。授業に嫌気がさすと大阪城にいって寝てた。。そういえば山田詠美の「僕は勉強ができない」の最後らへんにもこういうシーンなかったっけ。電車に揺られて遠くまでいくの。なんか、そういうのには、何かしらのイデアがあるのかも知れない。

そう思い立った瞬間の僕には、実行する以外の選択肢はなかったのだ。

先日読んだ水曜の朝、午前三時で引用されていたキルケゴールのセリフを思い出した。

人間は選択した瞬間に飛躍する。

これですよ。はらくくった時に人間は生まれ変わるのですよ。多分。

考えれば考えるほど絶望的な状況だった。下手すれば巻き添えを食ってペパボまで倒産、なんてことになりかねない事態。
(・・・落ち着け、落ち着かなくちゃ)
僕は一旦深呼吸をして、椅子に深く座りなおした。

このシーンがとても好きだった。

人生、いきてたらこういうシーンってばよく直面して。まさに口がからからになる、というような。そんなことを追体験してしまったシーンでした。

ゲシュタルト崩壊しない範囲で自分の記憶を思い返すならば、うーん、、、、アメリカで事故った時とか?

もう血の味が口に充満するわけですよね。ピンポンじゃないけど「鉄の味」って奴。あーやだやだ。精神衛生上にそんな記憶を思い出すのは良くない。

どんな困難にも真っ向から立ち向かうことがよしとされる世の中でとにかくひたすら、逃げ続けることに全力を注いできた。

この逃亡で思い出したのはフロムでも、ハリソンフォードでもなくこちら。

椿ひらいて墓がある | 上等な逃亡

「逃げる」っつーことは良いことだ。

私は、逃避または逃亡を多くの場合良しとする。

~中略~

すべてを引き受ける覚悟を決めてさあ逃げよう。

逃げて逃げて。。逃げまくった先には青い空。

とりあえず熱いコーヒーでも飲んで、

明日の朝の目覚ましでもかけようか。

この文章読んだ時、かなり衝撃を受けた覚えがあり。なんつー超越した哲学だと。何があったんだと。壮。それを思い出しました。こういった価値観、つまり、一般的に「マイノリティ」とする価値観を自分のものにするには、相当のプロセスを経る必要があるのではないか疑惑があり、そもそも、本質的にマイノリティの価値観があった人でも、世間体というものからそれとの違和感を感じて、それがコンプレックス(精神の複雑性)をうんでいるという前提があり、それにより時にはアイロニックになったり、自我の崩壊にも直面するわけで、そのため、それを持っているだけでもそのような副作用があるのに、あまつさえそれを自分のものにするには、適切なプロセスを踏まないと自我と社会との軋轢を生んで齟齬が生み、その違和感がいつしかホメオスタシスを破壊するのではないかと思うわけで、その適切なプロセスとはまぁ経験であったり、あるいは超越した意志やあるいは宗教なのだろうけど、ともあれこんなことを僭越ながら僕が邪推しても何も生まないわけで、、こうマイノリティの価値観を是とできるということはかっこよいなぁ、と思う次第。

というように、色んなことを考えてしまった一冊でした。