月別アーカイブ: 2007年6月

美しい文章

綺麗な文章に憧れがある。
どうしても自分のライティングは思いつくままに書いてしまうので論理的な意味でも、修辞的な意味でも、伏線的な意味でも、まったく美しくない。ただ美しさについて語ることは許してほしい。
美しい文章とはどういうものか?いろいろな種類はあると思う。
UIの部分でいれば、見出しやインデントやリストや改行を適切に使っているという美しさがある。
論理的なところで言えば、誰かを例示するまでもなく、ゆるぎなく美しいなピラミッド構成を作り出す魔術師たちがいる。
修辞的なところで言えば、個人的には塩野七生さんや開高健さん、芥川氏などが好きだ(反論はかなりあるだろうけれども主観で言えば)。
小説としての構成で言うならばやはり伊坂 幸太郎氏やポールオースターなんかは美しいと思う(これも極度の主観による偏見あり)。
文章のリズムなら村上龍や町田康なんかは素晴しい。
ともあれ。
ブログでも名前は敢えて挙げないけれど「なんて美しい文章を書くんだ」といつもうっとりする人がいる(有名な人ではなく友人で)。
さりとて、無理に今、美しさを分類してみたが、本来、このような美しさは分類不可能なものである。アンカウンタブルであり、ゲシュタルト形態のようなものである。
陳腐な比喩を使うならば、バラの美しさを客観的に記すことができないのと同じことだ。その色をRGBで説明して、鮮度や明度を記して、あるいは別の何かの引用して記したところで、そのバラの美しさは、写真1枚にかなうことはない。決して。
だからこそ、美しい文章が尊いものであり、そしてはかないことの理由なのだ。
よくできた文章や技巧が凝らされた文章は、ある程度の努力で身に付けることができる。それこそ「模倣」を続けていれば、いつしか近いものが生まれることになる。
しかし、美しい文章というのは上記のように文章化できないものであるゆえに、そう簡単に習得することはできない。
そして、同時に定理化が不可能ゆえに永続することもできない。いつしか美しい文章を書いていた人が、何かのピントがずれて、美しい文章をかけなくなったとしても、やはり、彼/彼女は美しかったころを取り戻すことはできない。なにがずれたのかわからないからだ。
よく使われるアイロニーを利用するならば、「何かが変わったのは明白だ。ただしよく変わったのか悪く変わったのかはわからない。」ようなことになる。
そして、厳密な意味での「美しい文章」も存在しえない。なぜなら、美しさというのはそれ自体が独立して存在しえるものではないからだ。
美しいという形容詞は、第三者による主観によって初めて付与されるラベルなのだ。そのため、「美しさ」というのは、必ず、常に誰かに寄りかかった形容詞である定め。
バラは名前がバラでなくとも美しいが、バラを見る者がいなければ美しくはないのだ。
そう考えると、誰しもが評価しえる美しさというものは原理的に存在しえないことになる(あるいは、反証可能性のレイヤーにおいては、近似値の完全な美しさを出すことは可能だが、それは仮説でしかない)。
しかしさりとてポイントは別のところにある。それは、美しさが存在しなくとも、美しさを目指すプロセスは存在しうるということだ。
よく言われる言葉に「完璧を目指すな。そんなものないから」という批難がある。しかし、それはある意味正しく、ある意味間違っている。
完璧は存在しえないのは事実かも知れない(それの判断は留保)。しかし、完璧にいたる道筋(正確にはいたるではなく、目指す)は存在しえる。
そのプロセスことが重要なのだ。それを証明するのが故人たちの遺業であり、その結果生まれたのが科学の進歩なのだ。
13次元の宇宙なんて存在しえないかもしれない。しかし、それを明らかにしようとする試みは決してナンセンスではない。あるいは話を少しずらした比喩を使うならば、神が存在するかどうかは問題ではなく、信じるか信じないかが問題なのだ。
そう考えると、美しさというものは手に届かないゆえに、逆にそのプロセスを深遠化し、広大化させてくれている。
「高嶺の花」は、恋人にするのではなく外から眺めている方が幸せなように、美しい文章とはそういう相対的な存在として、この世に欠かせない恋人なのだ。

サハラ砂漠と続き

さて前回の続き。アフリカはサハラ砂漠。
まず、私はカサブランカからサハラ砂漠の基点であるダクラへ向かう。途中でマラケシュやクスクスを食す。もう飽き飽きとするバスの旅。風景は美しく姿を変え、自然の偉大さを教えてくれるけれども、いささか居心地が悪すぎるバスの中では、そうそう景色を24時間眺めていられない。
そもそも、窓の外は砂。砂。砂。たまに遺跡とたまに町。そんな飽くなき灼熱のバスは一路ダクラへ向かうのだ。
ダクラで何をするかというと、サハラ砂漠を渡るランドクルーザーをチャーターしなければならない。そもそも旅行者は、そんなところ渡らないので一般ルートは存在しない。しかし、現地の人々のルートがある。それがランクルなのだ。
問題は、どこで、誰に借りれるかわからない、という問題がある。そんな時、参考になるのが「旅行者ノート」だ。世界中の宿に散らばった旅行者たちのメモ書き。そこにたった1行でも記されている情報が我が身を助けることになる。
今回は事前に仕入れていた情報で、ダクラのあるカフェのオヤジがランクルのエージェントだという話を聞いていた。そこで、ダクラにまず宿を取り、そのカフェを探す。いくら町とはいえ小さな町。歩いて探すのは難しくない。しかし、問題なのは店の名前が書かれていなかったり、地図がないという問題だ。それでも、人に聞きながら、我々はその「おっさん」を確保。翌日のランドクルーザーに乗せてもらうことが決まった。
宿でゴロゴロしていると、宿のおっさんがドアを叩く。魚を食うからお前も来い、ということらしい。このような唐突な誘いはアフリカで数多く体験する。やはり、アフリカは旅行者が少ないから、珍しがられるのだろうか。もっとも、中東でも比較的多く経験した気がする(とくにパレスチナ)。
宿の屋上にあがると、なんの魚かわからない肴がパチパチと焼かれていた。そこに集う従業員達数人。腹痛の恐れがあるものの、腹が減っていたので魚を食べる。手でむさぼりくったその魚の上手いこと。宿のオヤジはアラビア語しか喋れなかったので(確か)コミュニケーションは困難だったが、なんだか思い出に残る夜だった。
そして、翌朝、集合場所へ向かう。
ランドクルーザーには、他に乗るのは現地のおばさん4人。2列のシートにおばさん4人と私。それだけだったらまだいい。その子供達が3人だか4人だか。そして特筆すべきは、そのおばさんたちの体格は常人の3倍ほどの容積を満たす。
つまり、6人がけのシートに16人だか17人だか座っているようなものなのだ(記憶違いだったらごめんなさい。でもこんなかんじだった)。ラッシュ時の山の手線もびっくりの混み具合。それに2泊3日を共にするのだ。しかも共通言語はフランス語(その時は)。
そして、現地人の荷物はもはや2階建ての建物に匹敵するほどの大きさとなり屋根を覆う。そんなこんなで巨大なクッパのようなランクルは、いざ、砂漠をかけることになる。
さて、サハラ砂漠。季節は夏。想像を絶する暑さ。当然、水は即効でなくなる。事前に用意したペットボトル3本もすぐに消化。そこで、やさしげな同行者(現地のおばさん)が水をくれた。おばさんと間接キッスのペットボトル。そんなことにひるんでいてはいけない。一番ヘビーな水は、スーダンで飲んだ路上のカメに入った水だった。ぼうふらがいてもおかしくない水を平気でがぶがぶ飲んでいた気がする。落ちていたペットボトルを半分に切った入れ物で汲み取って。それほどスーダンの砂漠は過酷だった。
あと水で思い出すのは、マリの電車で売られていた水だ。ガキたちが小遣い稼ぎに水を売りに来る。値段は市場の1/10ほど。なぜなら、その水とは水道水。それを拾ったペットボトルに入れて売っているのだ。ただし、それは凍っているので、なかなかうまい。最初は気付かず飲んでいて、案の定、死ぬほど腹を下したが、マリの2泊3日の旅が終わるころには、もう水で腹を下すことはなくなっていた。
まぁいいや。で、サハラ砂漠で何が大変かというと、まずはトイレ。まぁ砂漠に立ちション。大はひたすら我慢。そして、次に食事。最初から仕入れてきたフランスパンをちょっとづつ食す。あとはひたすらキチガイ馬車のように揺れ続けるランクルの中で頭を立てゆれしまくること数十時間。
夜は、他のランクルとコンボイを組む。なぜなら迷子になると死ぬからだ。また、すぐ砂漠に埋もれてスタックしてしまうため、他の車なしで走るのは自殺行為に近い。サハラ砂漠には無数の地雷が埋まっている。こちらには単なる砂にしか見えなくとも、そこには道があり、それをそれると現地人でも迷子になる。
案の定、20回くらいのスタックを繰り返し、ランクルはある場所に泊まった。どうやらそこは休息地点らしい。トタン屋根で出来たバーが1軒だけ砂漠のど真ん中に立っていた。それはそれは幻想的な世界だった。周りは砂漠しかない風景で、空には月が我々を照らす。そこでただ、ぽつんとある小さなバー。缶詰や牛乳パックしか置いていないけれど。残念ながらアルコールはない。
それでも、そんな幻想的なバーの前で、運転手や僕たちは、大の字になって砂漠の上で寝た。
そんなこんなで無事、モーリタニアのヌアクショットに到着。疲労困憊で、大事件が発生。到着したところで運転手が「チャーター金を払え」という。しかし、私はすでに乗る時点で払っていたために喧嘩になる。あとでわかったことだが、これは完全なる詐欺。しかし、非常にうまい具合にコンビネーションを組んでいて領収書さえも切らせない仕組みになっていた。パスポートを預けているので、逃げることも出来ない。
で、まぁ、大喧嘩。現地の警察ですったもんだで、とりあえず勝利。何が大変って警察が英語を喋られないからこちらの弁明ができない。しょうがないので、いろんな言語を織り交ぜながら陳述。ひたすら集まってくる暇人警察20人。ただ、その1人がスペイン語を喋れたので、まぁそれで助かった、という話。あのときほどスペイン語が喋れてよかったということはなかった。
こう書けばなかなか素敵なサハラ砂漠。でも実際は、もう散々だった。本も読むことができず、喉がからっからに乾いて、トイレもいけない状態で、腹も空腹で、そして山手線を越えた混み具合に3日間。なんど意識が飛んだかわからない。しかもはしり続けてくれたらいいのに、何回スタックしたか。もう2度とあそこにはさすがにいきたくないなぁ、と。まったくもってオススメしない。ただ、その砂漠のバーだけはもう1度くらい行きたいなぁ、と思うけれど。それだけを見るためには行く価値があるかもしれない。あんな幻想的な場所は、この26年間の生涯であそこしか思いつかない。

サハラ砂漠という地獄を渡るまでの道のり

さぁ。アフリカの話をしよう。
時は2003年に遡る。季節は夏。私はイタリアのローマ空港で買ったミネラルウォーターを飲んでいた。
そこからモロッコのカサブランカまでは数時間。機内食さえも手に付ける必要のないほどの時間だ。これから待ち受ける受難を知ることもせず、ただ気楽に本を読んでいた。確か、南アフリカで買ったAGウェルズの宇宙戦争だ。南アフリカはイタリアの前に行っていたのだ。
カサブランカに降り立ち、迫り来る熱風を全身に受けた。この感覚はどこの異国の空港でも味わう妙な感覚だ。その国の空気が体に染み渡ってくる。ハワイやブラジルなど南米の国では尚更、その空気は重い。
しかし、早速、トラブルに合う。アフリカではトラブルなしに旅を語れない。旅はトラブルの花言葉ではないかと思うほどだ。
何がトラブルだったか?それは私がイタリアからモロッコまでの片道切符しか持って居なかったことだ。普通に旅行をしている場合、ほぼ往復切符を買うので意識をすることはないが、一般的に片道切符しか持って居ない場合、現地の空港で入国をさせてくれないことがある。
なぜなら帰りの切符がないということは、「帰るつもりがない」とみなされるのだ。たとえ陸路で違う国から出るといってもお役所にはそんな言い訳は通じない。もっとも、これも交渉次第ではあるのだが。私自身、同じトラブルをすでにコロンビアで経験した。しかも陸路で。陸路でさえも帰りの切符がなければ入国させてくれなかったのだ。その時もゴニョゴニョとなんとか乗り切った覚えがある。
ちなみに片道切符で入国できる国の情報は、それゆえに貴重である。4年前当時で「イタリア」「エジプト」「タイ」がOKだった。それゆえに、エジプトはパッカーの拠点にされやすいのだ。ちなみにNGの国の場合は事前に往復切符を買うはめになる。そして、突撃してNGの場合は帰国させられるというとんでもない事態になるので要注意である。
日本人だからといって、不法滞在をしないと見てくれないのだ。そんなに世界は甘くない。
さて、今回もゴネルしか仕方がない。ここからイタリアに追い返されたところで泣き寝入りである。コミュニケーションという名のネゴシエーションは旅で求められる。まず言葉がわからないふりをする。適当な国ではそれでパスできる。次に、適当な旅券を見せる。英語で書かれているものだと、相手が英語を理解しない場合、それで通る場合がある。「ほら、これ出国チケットだよ」と。まぁ、でもこれでパスできることは少ない。ただ、某国では、日本の免許書を「ジャーナリストパスだ」といって、入れないところも突っ切るという荒業が使えたので、覚えておいても良いのかも知れない。
次に交渉手段はもうゲンブツである。「ほら、キャッシュこんなけあるやん。出国するってば」と。しかし、それでも、なかなか動いてくれない。奴らとしてはここで私をGOさせることがリスクであり、そんな無駄なリスクを取ることはないのだ。しかし、私とて、交渉しないとサハラ砂漠を渡れない。
次にカード。しかも、靴下に縫いこんだカードを提出。ついでに、ちょっと声を荒げ周りの人たちを呼ぶ。これにより、担当者のリスク分散をしてあげる。そこから待つこと1時間、なんとか入国を完了し、すでにへとへとの私がいた。
これから向かうのはモロッコの南にある町「ダクラ」。ここがサハラ砂漠への拠点となる。ここからモーリタニアのヌアクショットという町まで900キロをランドクルーザーで走りきる。
しかし、ダクラに行く前にすべきことがある。それがビザの申請だ。これも普通に旅行をしている分には意識することがないが、バックパッカーをする場合は欠かせない知識だろう。受験勉強における漢文の書き下し分のように欠かせない一品である。
旅先では旅行者たちが出会えば、まずビザの情報を交換する。なぜなら、ビザの情報は非常に流動的であり、同時に「あやふやなもの」だからだ。そして、さらには大使館によって取り易いビザと取り難いビザがあるのだ。さらには入国地点によっても入りやすさが違うのだ。
たとえば、当時、イスラエルの入国が急に厳しくなっていた。そのため、OKな日本人とNGな日本人が表れていた。また、アフガニスタンへのビザは各国によって取得状況が違う。基本は「隣国は敵だ」という概念は世界でも共通であり隣国でのビザ取得は硬い場合が多い(一般化はできない。印象である。)。そこでアフガニスタンに入るには、トルコで事前に取っておくのがベストだった(あいまいな記憶)。隣国のイランでは、なかなか取得できなかった覚えがある。また、タイのビザなどにおいては遠く離れたトルコが一番取りやすかった記憶がある(これもウロオボエ)。
まさに、ビザは旅における欠かせない通行手形であり、同時に頭を悩ませる呪詛である。しゃかりきに情報を集めて、戦略的にかんがえてこそ、やっと旅の最短ルートを導き出せることができるのだ。
ともあれアフリカでは特にビザが必要な国が多く、もし、取りそこねると先に勧めないというパズルな状況に陥るのだ。冗談ではなく、非常に厄介な話である。想像したまえ。北海道に入ろうとしたら「沖縄でスタンプもらってこい」と言われるようなものである。その数倍のスケールを想像してもらい、陸路が200倍くらい悪路ということを想像してもらったら良いと思う。
かくゆえにアフリカは旅がしにくい。それゆえに手付かずの地域も多くありエキサイティングなのだが。
さて、カサブランカでモーリタニアのビザを申請し、出来上がるまでに数日間、カサブランカで時間を潰すことにする。この日数も厄介で、相手によって代わる。とりあえず頼み込むしかない、という現状である。国によってはエクスプレスパスがあり、金を取られる。やはり、地獄の沙汰も金次第なのだ。
さて、モロッコは日本でもモロッコ料理があるためにご存知の方も多いだろう。クスクスと呼ばれるパサパサの米のような食べ物に土鍋も有名だ。しかし、中には「なんかの肉」が入っており、詳細は不明である。
そしてホテルの広場のテーブルでゴロゴロと新聞を読んでいると、妙齢の女性が話しかけてくる。
聞けばモロッコの女優で英語を勉強したいらしい。たまたま、私がヘラルドトリビューンを読んでいるのを見かけて声をかけてきたそうだ。このホテルには英語が喋れる旅行者がくるので、彼女にとって英語の先生を見つけるための堀なわけだ。
時間があった私は、話にのった。しかし、何が大変というと英語を喋られない人に英語を教えることの難しさである。いくらアラビア語を少しやったからといって、アラビア語で教えるのも一苦労。しょうがないので、身振り手振りも合わせながらヘラルドの記事を解説していく。
「これ新手のつつもたせでは?」なんていう疑惑もありながら、まぁ騙されたところで今は金もないし、という気分で付き合うこと数時間。
夕食の時間になり、夕食に行こうということになった。ついでに彼女の先生を紹介してくれるという。以下、飽きたので略。
そして、無事、ビザをゲットし、一路、南下することになる。バックパッカーにとって最難関の地と呼ばれるサハラ砂漠。そこに待ち受ける地獄も知らないで。
以後、気が向いたら書きます。

ネットで人生、変わりましたか?

ネットで人生、変わりましたか?
岡田 有花 ITmedia News
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業界では知らぬものはいないIT戦士とは「ゆかたん」こと、岡田有花氏のことには間違いない。
そのゆかたんさんの今までの記事は総結集。ITで人生変わった人々がこれでもかと、ゆかたんさんが紡ぐ春の調べに乗って語られています。田口さんも書かれていましたが、インタビュー術を学びたい人にとっても間違いなく有効なのではないでしょうか。
メンツは、はてなの近藤さんや家入さん、ギャル社長、字幕inの中の人、ブサイコ、GREEの田中さんなどてんこ盛りで今にもあふれんばかりの躍動感ではちきれそうです。恐縮ながら、わたくしめもチラっと掲載して頂きました。
そしてもちろん1人Xmas特集も必見であり、これを逃すと人生を損をする。
まえがきには「本書はネット礼賛本ではありません」と書かれているように、ネットは負の部分もありながら、それでもやっぱり大きな力を持つネット。その意味を個人という視点から解き明かしてくれる一冊です。
まさに「ネットとは何なのか」という言葉に集約されているような。そして以下。

ネットのない時代にはもう戻れません。だから「ネットのせいで世の中が悪くなった」と嘆くことはしたくないですし、それにはあまり意味がない。

ここを読んで思い出したのが、宮部みゆきの「龍は眠る」。確か主人公の女の子は超能力者で、運命と戦うわけでございます。そこで戦いまくってへこみそうになります。で、なんか、負けるのが運命という流れになったのかな?そこで、彼女が自分に呟いたのが「運命なんて戯言だ。それじゃ生きてる意味がない」という言葉。解説ははしょりますが、非常に深いセリフです。
それと同じように、ネットは「悪」とか「すごいとか、あるいは「だめだ」とかそんな言説っていうのはやっぱりあまり意味をなさなくて。あくまでも、自分にとってネットとどう向き合うのか、ってのがやはり大切なんでしょうなぁ、とか改めて思った次第で御座いました。
以下もどうぞ。

人生に期待しすぎなんじゃない?

これもなぜかリストに書かれていた。
これって僕が書いたのかしら?あるいは誰かに言われたのかしら。誰かに言われるにはいささかヘビーすぎる言葉で、そうそう忘れることはないので自分で書いたのかもしれない。引用かもしれない。
少なくとも1年以上前に書いたものだ。
さて「人生に期待しすぎなんじゃない?」という命題はなかなか興味深いお題である。
さて諸君。諸氏は人生に期待しているだろうか。あるいは夢見る頃は過ぎてしまったろうか。
何か困った時、人生は絶妙な按配で、絶妙の采配を下す。信じられないような「奇跡」とでも呼ぶべき僥倖により救われたり、結局何も起こらず寧ろ泣きっ面にクマンバチの状態か。いずれせによ、つまりは確率の問題の領域を出ることはない話。
ともあれ、しかしそれと人生に期待することとは別の事象として存在する。人生で何が起ころうと、あるいは何も起こらないとしても、それはあなたがどう考えるかとは別の次元の話なのだ。
人生は期待すべき価値のある対象か、という命題も派生して興味深い話である。人生が陳腐でちっぽけならば、期待すべき対象ではないけれど、そもそも人生が雄大で広大で壮大だったとしても、そもそも人の期待なんて何かを期待するものを持たない動詞なのかもしれない。いずれせによ、これは検討するプロセスは興味深いとはいえ、結果が面白いものにはならない。期待すべき対象であろうとなかろうと人は生きていかねばならぬのだ。結果によって行動が変わることない命題は答えを出すべきじゃない。そんな人生短くない。
さて話を戻すと「人生に期待しすぎなのか?」。ここで興味ぶかいのは「しすぎ」という言葉である。つまり、節度の保たれた期待ならば、それはそれで期待しすぎとはならない。臨界点を超えてこそ、やっとその期待は成り金となれる。これを検討するには別のアプローチから考える。
「したいことをして生きられるのが幸せだ」という言説を最近、いろいろなところで目にして。これはある種の期待である。それが幻想かも知れない可能性は認めない。そもそも、実現可能性を検討しないままにそれを受け入れることも期待である。
結論としては人生はそんなに甘くない、というのが共通見解だろう。誰がなんといおうと人生は甘くない。これは自明の理でありギリシア時代から自然界三大前提の1つである。疑ってはいけない。さりとて「人生が甘くない=したいことをして生きる」是非はまた別だから話はややこしい。個人的には最近、これに懐疑的で、人生とはしたいことをして生きるほどもったいないものはないという気がしている。人生とは、やはり「すべきことする」の方がとてもしっくりくるのだ。それはしたいことではなかったとしてもすべきことであればすべきである。そういう心持が強い。もっともこれは主観であり、なんのファクトでもない。
ただそのスタンスで見れば、人生に期待することはない。なぜなら、期待しようとも期待をしなくても、結果が変わらないからだ。すべきことをする以上、人生が優しかろうと厳しかろうと、そんなの所与条件としてとっぱらっちまえ、となるわけである。
ふむ。つまりこれは主観をベースにした人生に期待の無効化とでも言おうか。それにより落胆のリスクヘッジというかモーターサイクルダイアリーズというか。
完全に個人のメモ書きになってしまった。

もうすぐ夏だ

あの頃はまだ知らなかった。湿った木の生い茂る神社の裏側で、僕はただ無能に夏の日差しを浴びていた。木に打ち付けられた紙の「わら人形」が何をするかなんて意味を知らなかったし、その子供にとっては知ったところで何も人生に寄与する話でもなかった。ただ、永遠に続くような蝉の鳴き声。そして、もはや町中に立ち上る蜃気楼。くらくらしても、水なんていらなかった。声をからしてボールを追いかけまわっていた。無論、そんな時間は長くは続かない。世の理の如く、時は流れ、人に死に、夢は霧散する。木っ端微塵。それでも、子供ゆえの傲慢さと、そして怖いもの知らずの単細胞。その歯車が回っている限り世界は自分の手の中でまわっていたし、彼にとっては実際そうだった。まるでざりがにを釣り糸で釣るように、世界はチャチで飄々としていた。悪くなかった。
 夏がいつの日からか顔を変え始めた。朝顔という言葉を聞かなくなって久しくなってからだ。朝顔の水遣りに言った日々を今、懐かしく思い出す。もはや池とは言わない干からびたデカイ穴をただ、友達と眺めていた。時々石を投げながら。恋という言葉さえも知らず、知っていたところで彼らにとっては邪魔なものだけだった。世の中の万事は適材適所で動いている。あなたが知ろうと知らまいと。誰が転校してきても、誰かが転校していっても吉本隆明が転向しようともどうでも良かった。そんなの3日と持たない刺激。刺激を求めて犬を追い掛け回し、こおろぎを飼う様な。そんな夏はいつしか水着とビールの夏になる。カブトムシはもういない。かたつむりもいなければ、カブトガニだっていない。道頓堀にも、筑後川にももういない。稲穂が色づくころにはそんな夏も色あせて来るべき冬の憂鬱さと見たこともない空の重さ。そんな日々の中で夏の思い出は磨耗してゆく。
 夏が全てだったとは言わない。しかし天主が作った造形物の中では秀逸なるものなのだろう。夏を造形物といわないのかもしれないが。いずれにせよ太陽は罪なるもの。そして神の共犯者。愁嘆、悲嘆、嗟嘆と人の嘆きと鬼胎を屈託することもなく狼火をあげる。根本から震源から禍根さえも燃えつくすような情熱で底なしの時間が平々凡々な日々に上乗なる時間を上乗せする。六日の菖蒲と目ぼしいものなんて肝心要のベンベルグ。
 それくらい夏とは雄大だった、てことだ。