なんてことはない。髪型の話である。
一般論として、女性は髪の毛に力を注ぐ傾向にある。たまに髪型を変える。カットならまだしも、パーマにカラーリング、梳くなどなどもある。場合によっては「洗ってもらってきた」という場合さえある。
そして、一般論として、男性はそのような変化に気づかない(生物学上で相対的に)。というか、気づかないというか、認識していない。
この話は世の中、いたるところに転がっており、村上春樹の「ノルウェイの森」でも、一つのエピソードとして語られる。ある友人以上恋人未満の2人で、女性が大きく髪型を変えたのに男性が気づかず絶縁されるというような。
いや、これは男性の注意力緩慢さや嗜好性の違いといった性差を強調するつもりはないのだけど、なんというか、しびれる。世の中の声を聞いても、このような気づきの見落としによる諍いを少なからず聞くことがあり、なんか世の中は罠だらけだ。
ただ、自己PRとしてここ一週間前後で4人ほどの髪型の変化に気づいた。会った人数から考えるともの凄い確率のチェンジである。その確率を考えるに、もはや会う人全てに「髪型変わったね」とタモリメソッドを使った方がいいのではないかと思うほどだけど、そんなことをしていると「変わってへんよ。適当やな」と、今度は注意力散漫から適当の烙印を押されるので、それはそれでしびれる。
また逆に言えば、気づいたのがその数で、おそらくその裏には気づかなかった数も多分にあるわけで、なんというかしびれる。成功した企業の裏には数百、数千の失敗した企業がなかなか目につかないのと同じ論理だ。
悩ましい。しかも、明らかに変わっている場合はよいとして、「55%くらいの確率で変わったか?」と思う場合、「髪型変わった?」と聞くのは、「2年ぶりに再会した人の名前をうろ覚えでしゃべってみる」というくらい度胸のいるもので、間違った場合のリスクは前者の方が低いものの、なんというか、心境的にはそれくらい怖い。
で、何が言いたいかというと、変化の兆候は事前の会話から読み取れ、ってなことでした。
月別アーカイブ: 2008年12月
東京タワーが好きな理由は
どうして東京タワーのことが好きなの?と聞かれたことがある。
どうしてだろう、と考える。理由はいくらでも思いつくし、あるいは東京タワーにとって160個以上の展望シーンを述べることだってできる。
でも、本当に東京タワーが好きな理由を一言でのべよ、と言われると言葉に窮してしまうかもしれない。エレベーターピッチで事業内容を述べることができても、あるいは時にイスラエルに入国する目的を答えられたとしても、もっと平易なはずの東京タワーを好きな理由は、色々悩んでしまうかもしれない。
それとの出会いは2004年の頃に話はさかのぼる。大学2年生から3年生になるころで、海外旅行から帰ってきたころ。大学が近かったということもあるけれど、なぜか東京タワーが好きで、東京タワーの近くに部屋を借りた。走りながら見る東京タワーはとても綺麗で、いくら走っても飽きなかった。そして今でも飽きることはない。
マンションから見上げる東京タワーは美しく、さながら東京タワーに住んでいるような気分、とジョジョの鉄塔に住むスタンドを思い出した。今のオフィスからだって東京タワーは見える。夜中に左手にヒルズ、右手にタワーを見上げると、もはやタワーの良さはすべて込みな世界で、そこに理由を改めて問うても、何かしらの強い求心力がなせるわざ?と冬のジョナサンで考える。
赤いタワーは時を彩る。魚銀行からの景色ではピンク色のタワーとピンク色のクリームが調和するし、あまおうが彩るタワーの景色はビターな質問と混ざり合い綺麗な音色を奏でる。
いつかどこかでみた花火と同じ感慨を東京タワーは思い浮かばせる。タワーの光が持つはかなさと花火が持つ短命なる情緒は、その淡い時間が持つ限られた時間ゆえにその美しさを増すこととなる。さながら蝋燭が持つ陰影がその蝋燭を見る者の心を反映するように。
もしかするとエッフェル塔やドバイタワーでさえも、その東京タワーの魅力を持つのかもしれない。しかし、それでも東京タワーが持つ魅力は相対的や類似的なものではなく絶対的なもので。同時に東京タワーは夜にこそ光の美しさを表すもので、時にはその闇が欠かせないのかもしれない。
これらを全部ひっくるめて東京タワーが好きな理由なのかもしれないけれど、とても一言で表せそうにないのは間違いない。
可能性だけは腐るほどあるキミに
荘太さんのメルマガで、以下のコピーを読んだ。
「可能性だけは腐るほどあるキミに」
雑誌KING(休刊)の創刊コピーだそうだ。
ふむ、と思った。
この言葉を見て学生たちを思った。なぜならわかいからだ。わかいというのは時間があるということであり、時間があるということは可能性があることと相関関係にあるケースが多いからだ。
もちろん、自負としては自分は歳をとって可能性が減ったとは思わないけれど、まぁ一般論としてはよく言われるように
「小学生のころは、なんにでもなれた」というような言葉があって。
つまりケーキ屋さんでも、パイロットでも、科学者でも、博士でも大臣でも。
でも歳を取るにつれて、それらの選択肢は良い意味でも悪い意味でも、集中されフォーカスされ、淘汰され、そして、それを人は成熟するという。
で、まぁ学生たちにたまにお会いする。別に彼らだけが可能性に溢れているわけではないけれど、やはりそこには社会人とは違った可能性への生き方があって、それはそれはなんだか眩しい。
石田君とか関君とかわせプロの太田さんとか飯沼君とか、アイセックの高木さんとかアルカーナでも手伝ってくれている藤井君とか山本君とかとか(いろんな理由でこのあたりで記載とめましたがご容赦をば)。
でも負けずに、可能性への飽くなき探求はいつまでもポケットに忍ばせておきたいなぁ、とか思って。
いずれにせよ、でもやはり「歳を取るだけ可能性が広がった」という生き方の方が、愉快な気もしていて(良いか悪いかはわからない)。