月別アーカイブ: 2009年11月

毎日ベッドで横になり普段はあまり気にしないけど、朝はガミガミとわめき散らすもの

件名の答えは「目覚まし時計」なんだけれども。
何が言いたいかというと、世の中の「コト」「モノ」というものは、「端的に言える」存在であることが多い。
たとえばニュース。ニュースは「件名だけで内容を把握する」ということが多い。それは古来から新聞の見出しの力としてもそうだったし、ないし、昨今はWebのニュースのタイトルもそうだ。
「○○容疑者が逮捕された」というニュースは、その一行が全てを表していて、内容はその説明や詳細となる。いわゆる「釣りタイトル」だと、そのタイトルと内容が乖離するが、これは上記の「タイトルの総括性」を逆手にとった仕組みなので、包括的には、上記の法則に則っている。
何が言いたいかというと、物事や出来事は、本来、とても「シンプルで在る」ことができる存在なのに、いろいろな説明や背景や修飾や形容により、時に複雑になり、時に重奏となる。
それはそれで何も悪くないし、それを否定すると世の中では「物語」というものが存在しない。
ユリシーズだって「人の思考をトレースした前衛的な物語」で終わってしまうし、失われた時・・だって「マドレーヌの挿話が有名なあるフランス人の長い話」で終わってしまう。「アンナカレーニナ」だって、「恋愛小説」の4文字でポイントは押さえられてしまう。もちろん、そこに「ロシア文学を代表する冗長ながらもその冗長さが癖になる濃厚小説」という形容を付け加えてもいいし、あるいは「最後悲しい物語」というサブタイトルをつけてもいい。
※一応注釈しとくと、上記はある種の諧謔であり、本来は上記の一行で表せるものではない
ただ、物事は「シンプルなポイント」と「そのポイントを拡大したその他全て」の2つから成り立っているような気もする。共産主義を理解するのに「必ずしも資本論」を読むことを必須としないように(そりゃ読んでるに超したことはないけれど)、あるいは、物語を書くのに百科事典を全て頭に入れておく必要がないように、物事は「必要なポイント」があり、それの付加情報で成り立っている。もっとも、その必要なポイントは人によって異なることが多いゆえに、物語は常に長くなっていくのだけれども。
昨今のミニブログと呼ばれるtwitterなどの隆盛は、そのような「ポイント」と「その他」の文脈で考えてみると面白い。140文字以内での投稿という制約は、必然的に人に「ポイントだけを述べよ(What’s the point?)」ということを強いる。英文が、最初に総論を述べることを強いるように、時に日本人にとっては、その「ポイントだけ述べる」という行為は新しい思考を求めるかもしれない。
というのも、日本語や、あるいは日本のカルチャーは往々にして、「まどろっこしい」ことが美徳とされることがある。たとえば「京都のぶぶ漬け」や「本日はお日柄も良く・・・(時候の挨拶とかも)」、「いやいやよもスキのウチ」「これでよろしかったでしょうか?」などなど例示にはいとまがない。
多分、それはそれでとても尊いもので。少なくとも、世界が「ポイント」だけで済んでしまうならば、そもそも「人生」でさえも、余剰のたまものであることを考えると否定すべき存在になってしまう。
でも同時に「ポイント」も重要で。たとえば、こういう世界だろう。海外に行ったときに「知っている語彙だけで会話する」というような。「私 これ 欲しい」「私 ここ行きたい」「高いよ」「買わない」といった簡潔で明瞭な言葉だけがコミュニケーションを支配する。それはそれでシンプルで何か気持ちの良いものだ。つまり、シンプルさはコミュニケーションを豊穣にする。日本では、「重厚なる文章」が高貴とされているのに対し、アメリカでは「より平易でシンプルな文章」が重宝されるのにも似ているかもしれない(一元化は危険だけれど)。つまり、わかりやすさは、より多くの人との意思伝達を可能にし、そして誤解を減らすことになる。
「妹の父親を育てた人の奥さんの孫」という説明よりも「私の妹」と説明できた方が、時には便利であるように。

土曜の夜に電話するやつに碌なやつがいない

これも、メモから引用。

土曜の夜に電話するやつに碌なやつがいない

恐らく1年以上のメモなので詳細不明。多分、書籍か誰かの話の引用の気がするのだが、例のごとく不明。
ただ、ここから何かしらの物語を想像してしまう。
前にある女性からこういう話を聞いた。男性とアポを入れる時は、その親密度によって提示する日時のオプションが変わるということだ。

  • 1.親密度低の下
  • 平日/金のランチ

  • 2.親密度低の上
  • 平日の夜、食事

  • 3.親密度中の下
  • 金夜、食事

  • 4.親密度中の上
  • 土日祝のランチ

  • 5.親密度高
  • 土日祝の夜、食事

なかなか興味深い、と思った。
何が興味深いかというと、「金の夜」よりも「土日のランチ」にアポを入れる方がハードルは高いという点である。
理由は、「土日はプライベートだから」らしい。この辺りの判断基準は人によって変わるだろうが、まぁ、一例として。ただ、確かに思い返してみれば「週末は基本的に異性との予定入れない」という話は、ちらちら聞いた記憶もあるので、そういうものなのかもしれない。
もし、諸兄が、誰かと食事行く時は先方から提示されるオプションから、角度を見極めてみるのはいかがでしょう(謎
あと蛇足ながら、別の人は「食事」「映画」「カラオケ」「遊園地」などの各アクションごとの親和性を算出していた。いわく、一番、親密度が高いのは「ドライブ」だそうだ。ふむ。
まぁ、ともあれ、このように「土曜日」は、聖域らしく。土曜の夜は、ゆったり食事して、ゆっくり風呂に入って、音楽でも聴いて、パックなんかをしながら読書をしているわけである(しらんけど、想像)。
よって「土曜の夜に電話する奴に碌な奴はいない」という言葉が導きだされるわけである。もう少し正確にいうならば「土曜の夜に、突然に電話をかけてくる異性に碌な奴はいない」ということなんだろう。
ロックな感じで。

エレベーター内での会話の音量のように

タイトルは、自分のメモから拾ってきた。
例のごとく、何かからの引用なのか、あるいは思いつきなのかどちらかは分からない。
ただ、なかなか良い表現である、と自己満悦した。問題は、この修飾がかかる後の文である。

エレベータ内での会話の音量のように、「私たちはささやき続けた」。

とかだと、ありきたりでつまらない上に、「音量のように」がかかっていない。
どのような言葉が後に続けば、coolかしらねえ。

エレベータ内での会話の音量のように、途切れ途切れのケニアの国道。

とかどうだろう。
でも、これだと、前の「エレベータ内での会話の音量」が持つ淫靡さというのが全く活きていない。
このシチュエーションというのは「従来、エレベーターでの話は他の人に聞こえるからあまりマナー的にも好ましくない」のに、それにも関わらずしゃべってしまう。
なおさら、そこでしゃべるほどの時間をエレベーターに乗っている。ないし、それだけの時間さえも我慢できずにしゃべってしまう、というシチュエーションなわけだから、そこには「しゃべっている対象」との親密性、ないし、緊迫性があるわけで、それを受けなければいけないわけである。
そう考えると

エレベータ内での会話の音量のように、ひっそりと残る夏の焼け跡。

とかだとどうかしら。へんに寄りすぎて少し気持ち悪い気もする。
しかも、「音量のように」がかかるわけだから「ひそひそ」とか「こそこそ」などの聴覚の擬音語の方が良い気もする。

エレベータ内での会話の音量のように、微かに聞こえるジングルの音。

これくらいなら、音で受けてのジングルだけど、「ジングルの音」自体が比喩となるので、まぁ良いのかもしれない。季語も入るし(正確な季語かどうかしらんけど)。

ペットボトルで水を飲む

先日、打ち合わせで表参道を歩いていた。
すると、表参道の交差点を少し代々木よりに入ったところの石に座っている人がいた。外国の方だった。1リッターのペットボトルの水を直接、飲んでいた。
ワイルド、と思った。
確か、Evianだったと思う。手にはオニギリを持っていた。旅行なのかしら?と思ったけれど、わからない。
リッターのペットボトルの水を街中で飲む人はあまり見かけないな、と思った。だから、なぜかとても印象に残っていて。
別段、それが悪いわけではまったくなく(直接くちをつけてリッターの水を飲むことにマナー云々はあるとしても)、あるいは外国人だからそういうことをするのだ、という先入観があるわけでもなく。ただ、インパクトがあった。
なぜ、ペットボトルなんだろう?と考えた
自分の記憶として、街中でペットボトルの何かを飲んだのはスーダンのハルツーム近辺と、サハラ砂漠を越える時にモロッコのダグラからモーリタニアのヌアクショットへ移動前後あたりが強く印象に残っている。むしろ、某国では、歩きながら頭にペットボトルの水をぶっかけていた記憶さえある。
それらは、熱いためにそうしていたのだ、と考える。しかし日本は熱くない。
そうすると、喉がものすごい乾く人だから、か、あるいはペットボトルの方が量効率が良いから、などが考えられる。他にも、その水で街中の観葉植物に水をあげるからとか、それはいざとなったら枕にしてiPhoneの行列に並べるからとかも可能性としてはありうるが、かなり限定的だろう。
理由はわからない。
その人は女性だった。男性だったらワイルドで済む問題だろう。しかし、女性はあまり「ワイルド」の形容詞で呼ばれることは少ない(相対的に)。そう考えると、その飲み方は、一般的には、控える傾向にあるものだ。しかし、彼女はそんな社会通念を吹き飛ばすがごとく、グビグビと水を飲むわけである。角度的には、70度くらいの角度だろうか。そのような勢いで水を咽喉に垂直吸飲されていたわけで、なんというか、勇ましかった。
ペットボトルの水を、街中でグビグビのむというのは、何かしら蠱惑的な気がした。
それはたとえば他人に貸した歯ブラシがどこに置かれるかの問題やシュシュの存在意義とその可能性に纏わる課題にも相似した要素を含んでいるような気がした。
まったくメッセージ性もオチもないのだけど、何となく最近、記憶に残ったペットボトルでした。