日常で生きていると、街で知り合いに会うことがある。
それは渋谷の歩道橋かもしれないし、数寄屋橋の交差点かもしれないし、はたまた青山の地下道かも知れない。
偶然の邂逅。
そして、それは日本に限らずとも、世界でも起こりえるかもしれない話。もちろん確率は数万倍以下になるのだろうけれど。
2003年のことだ。その秋に私はパリにいた。
そこからシャガール美術館に行きたくて、電車でニースに向かった。
南仏らしく太陽の日差しはパリと違い地中海の照り返す光が暖かく、秋でもTシャツで歩いていた。
朝着いて、お腹が空いていた。メイン通りを歩いていると、マクドナルドが見つかった。いつも通り、オレオのバニラスムージーを頼むために、そこに入った。
並んでいると、「カズ君じゃん」と声をかけられた。
おお、と思ったら、パリで再会した友人だった。パリで再会、という説明を詳しくしたい(過去に描いたことあったらごめん)。
彼とはジンバブエで出会った。
ジンバブエとは南アフリカ共和国の少し北にある国で、アフリカで言えば南アフリカ地域に属する。
そこで、パームロックビラというドミトリーに泊まった。その部屋に相部屋だったのが、彼だった。
しかも、話をすると、同じ大学の同じ学年で、彼も休学中だった。そのような縁から、私は、それまでのアフリカの疲れが癒えるまで、ジンバブエのハラレで過ごすことになった。
全部で10日ほどいただろうか。彼とはビリヤードをし、マーケットに買い物にいき、過ごした。
そして、分かれた後、彼と再会したのは、ハンガリーだった。
ブダベストの宿に私が訪れると彼がそこにいた。話を聞くと、マラリアに感染し、ヘリコブターでハンガリーまで輸送されたとのことだった。そこでの再会を楽しみながら、すぐに旅立つ必要があった私は、そのブダベストを後にした。その後、アムステルダムで再会し、さらにパリでも落ち合った。
それから、偶然のニースでの再会に繋がることになる。
そんなニースの話を、一昔前に友人にした。
すると、なんと、その人もニースのマクドナルドで友人と再会したことがある、ということだった。
へえ、と思った。
友人と海外で偶然再会することはあれど(特に日本人パッカーはルートがあるので、会いやすい)、同じ場所で再会したという話を聞くのは珍しい体験だった。
そして、ニースの遠さを思った。そのマクドナルドで今も生まれているかもしれない再会を思った。
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サハラ砂漠と続き
さて前回の続き。アフリカはサハラ砂漠。
まず、私はカサブランカからサハラ砂漠の基点であるダクラへ向かう。途中でマラケシュやクスクスを食す。もう飽き飽きとするバスの旅。風景は美しく姿を変え、自然の偉大さを教えてくれるけれども、いささか居心地が悪すぎるバスの中では、そうそう景色を24時間眺めていられない。
そもそも、窓の外は砂。砂。砂。たまに遺跡とたまに町。そんな飽くなき灼熱のバスは一路ダクラへ向かうのだ。
ダクラで何をするかというと、サハラ砂漠を渡るランドクルーザーをチャーターしなければならない。そもそも旅行者は、そんなところ渡らないので一般ルートは存在しない。しかし、現地の人々のルートがある。それがランクルなのだ。
問題は、どこで、誰に借りれるかわからない、という問題がある。そんな時、参考になるのが「旅行者ノート」だ。世界中の宿に散らばった旅行者たちのメモ書き。そこにたった1行でも記されている情報が我が身を助けることになる。
今回は事前に仕入れていた情報で、ダクラのあるカフェのオヤジがランクルのエージェントだという話を聞いていた。そこで、ダクラにまず宿を取り、そのカフェを探す。いくら町とはいえ小さな町。歩いて探すのは難しくない。しかし、問題なのは店の名前が書かれていなかったり、地図がないという問題だ。それでも、人に聞きながら、我々はその「おっさん」を確保。翌日のランドクルーザーに乗せてもらうことが決まった。
宿でゴロゴロしていると、宿のおっさんがドアを叩く。魚を食うからお前も来い、ということらしい。このような唐突な誘いはアフリカで数多く体験する。やはり、アフリカは旅行者が少ないから、珍しがられるのだろうか。もっとも、中東でも比較的多く経験した気がする(とくにパレスチナ)。
宿の屋上にあがると、なんの魚かわからない肴がパチパチと焼かれていた。そこに集う従業員達数人。腹痛の恐れがあるものの、腹が減っていたので魚を食べる。手でむさぼりくったその魚の上手いこと。宿のオヤジはアラビア語しか喋れなかったので(確か)コミュニケーションは困難だったが、なんだか思い出に残る夜だった。
そして、翌朝、集合場所へ向かう。
ランドクルーザーには、他に乗るのは現地のおばさん4人。2列のシートにおばさん4人と私。それだけだったらまだいい。その子供達が3人だか4人だか。そして特筆すべきは、そのおばさんたちの体格は常人の3倍ほどの容積を満たす。
つまり、6人がけのシートに16人だか17人だか座っているようなものなのだ(記憶違いだったらごめんなさい。でもこんなかんじだった)。ラッシュ時の山の手線もびっくりの混み具合。それに2泊3日を共にするのだ。しかも共通言語はフランス語(その時は)。
そして、現地人の荷物はもはや2階建ての建物に匹敵するほどの大きさとなり屋根を覆う。そんなこんなで巨大なクッパのようなランクルは、いざ、砂漠をかけることになる。
さて、サハラ砂漠。季節は夏。想像を絶する暑さ。当然、水は即効でなくなる。事前に用意したペットボトル3本もすぐに消化。そこで、やさしげな同行者(現地のおばさん)が水をくれた。おばさんと間接キッスのペットボトル。そんなことにひるんでいてはいけない。一番ヘビーな水は、スーダンで飲んだ路上のカメに入った水だった。ぼうふらがいてもおかしくない水を平気でがぶがぶ飲んでいた気がする。落ちていたペットボトルを半分に切った入れ物で汲み取って。それほどスーダンの砂漠は過酷だった。
あと水で思い出すのは、マリの電車で売られていた水だ。ガキたちが小遣い稼ぎに水を売りに来る。値段は市場の1/10ほど。なぜなら、その水とは水道水。それを拾ったペットボトルに入れて売っているのだ。ただし、それは凍っているので、なかなかうまい。最初は気付かず飲んでいて、案の定、死ぬほど腹を下したが、マリの2泊3日の旅が終わるころには、もう水で腹を下すことはなくなっていた。
まぁいいや。で、サハラ砂漠で何が大変かというと、まずはトイレ。まぁ砂漠に立ちション。大はひたすら我慢。そして、次に食事。最初から仕入れてきたフランスパンをちょっとづつ食す。あとはひたすらキチガイ馬車のように揺れ続けるランクルの中で頭を立てゆれしまくること数十時間。
夜は、他のランクルとコンボイを組む。なぜなら迷子になると死ぬからだ。また、すぐ砂漠に埋もれてスタックしてしまうため、他の車なしで走るのは自殺行為に近い。サハラ砂漠には無数の地雷が埋まっている。こちらには単なる砂にしか見えなくとも、そこには道があり、それをそれると現地人でも迷子になる。
案の定、20回くらいのスタックを繰り返し、ランクルはある場所に泊まった。どうやらそこは休息地点らしい。トタン屋根で出来たバーが1軒だけ砂漠のど真ん中に立っていた。それはそれは幻想的な世界だった。周りは砂漠しかない風景で、空には月が我々を照らす。そこでただ、ぽつんとある小さなバー。缶詰や牛乳パックしか置いていないけれど。残念ながらアルコールはない。
それでも、そんな幻想的なバーの前で、運転手や僕たちは、大の字になって砂漠の上で寝た。
そんなこんなで無事、モーリタニアのヌアクショットに到着。疲労困憊で、大事件が発生。到着したところで運転手が「チャーター金を払え」という。しかし、私はすでに乗る時点で払っていたために喧嘩になる。あとでわかったことだが、これは完全なる詐欺。しかし、非常にうまい具合にコンビネーションを組んでいて領収書さえも切らせない仕組みになっていた。パスポートを預けているので、逃げることも出来ない。
で、まぁ、大喧嘩。現地の警察ですったもんだで、とりあえず勝利。何が大変って警察が英語を喋られないからこちらの弁明ができない。しょうがないので、いろんな言語を織り交ぜながら陳述。ひたすら集まってくる暇人警察20人。ただ、その1人がスペイン語を喋れたので、まぁそれで助かった、という話。あのときほどスペイン語が喋れてよかったということはなかった。
こう書けばなかなか素敵なサハラ砂漠。でも実際は、もう散々だった。本も読むことができず、喉がからっからに乾いて、トイレもいけない状態で、腹も空腹で、そして山手線を越えた混み具合に3日間。なんど意識が飛んだかわからない。しかもはしり続けてくれたらいいのに、何回スタックしたか。もう2度とあそこにはさすがにいきたくないなぁ、と。まったくもってオススメしない。ただ、その砂漠のバーだけはもう1度くらい行きたいなぁ、と思うけれど。それだけを見るためには行く価値があるかもしれない。あんな幻想的な場所は、この26年間の生涯であそこしか思いつかない。
サハラ砂漠という地獄を渡るまでの道のり
さぁ。アフリカの話をしよう。
時は2003年に遡る。季節は夏。私はイタリアのローマ空港で買ったミネラルウォーターを飲んでいた。
そこからモロッコのカサブランカまでは数時間。機内食さえも手に付ける必要のないほどの時間だ。これから待ち受ける受難を知ることもせず、ただ気楽に本を読んでいた。確か、南アフリカで買ったAGウェルズの宇宙戦争だ。南アフリカはイタリアの前に行っていたのだ。
カサブランカに降り立ち、迫り来る熱風を全身に受けた。この感覚はどこの異国の空港でも味わう妙な感覚だ。その国の空気が体に染み渡ってくる。ハワイやブラジルなど南米の国では尚更、その空気は重い。
しかし、早速、トラブルに合う。アフリカではトラブルなしに旅を語れない。旅はトラブルの花言葉ではないかと思うほどだ。
何がトラブルだったか?それは私がイタリアからモロッコまでの片道切符しか持って居なかったことだ。普通に旅行をしている場合、ほぼ往復切符を買うので意識をすることはないが、一般的に片道切符しか持って居ない場合、現地の空港で入国をさせてくれないことがある。
なぜなら帰りの切符がないということは、「帰るつもりがない」とみなされるのだ。たとえ陸路で違う国から出るといってもお役所にはそんな言い訳は通じない。もっとも、これも交渉次第ではあるのだが。私自身、同じトラブルをすでにコロンビアで経験した。しかも陸路で。陸路でさえも帰りの切符がなければ入国させてくれなかったのだ。その時もゴニョゴニョとなんとか乗り切った覚えがある。
ちなみに片道切符で入国できる国の情報は、それゆえに貴重である。4年前当時で「イタリア」「エジプト」「タイ」がOKだった。それゆえに、エジプトはパッカーの拠点にされやすいのだ。ちなみにNGの国の場合は事前に往復切符を買うはめになる。そして、突撃してNGの場合は帰国させられるというとんでもない事態になるので要注意である。
日本人だからといって、不法滞在をしないと見てくれないのだ。そんなに世界は甘くない。
さて、今回もゴネルしか仕方がない。ここからイタリアに追い返されたところで泣き寝入りである。コミュニケーションという名のネゴシエーションは旅で求められる。まず言葉がわからないふりをする。適当な国ではそれでパスできる。次に、適当な旅券を見せる。英語で書かれているものだと、相手が英語を理解しない場合、それで通る場合がある。「ほら、これ出国チケットだよ」と。まぁ、でもこれでパスできることは少ない。ただ、某国では、日本の免許書を「ジャーナリストパスだ」といって、入れないところも突っ切るという荒業が使えたので、覚えておいても良いのかも知れない。
次に交渉手段はもうゲンブツである。「ほら、キャッシュこんなけあるやん。出国するってば」と。しかし、それでも、なかなか動いてくれない。奴らとしてはここで私をGOさせることがリスクであり、そんな無駄なリスクを取ることはないのだ。しかし、私とて、交渉しないとサハラ砂漠を渡れない。
次にカード。しかも、靴下に縫いこんだカードを提出。ついでに、ちょっと声を荒げ周りの人たちを呼ぶ。これにより、担当者のリスク分散をしてあげる。そこから待つこと1時間、なんとか入国を完了し、すでにへとへとの私がいた。
これから向かうのはモロッコの南にある町「ダクラ」。ここがサハラ砂漠への拠点となる。ここからモーリタニアのヌアクショットという町まで900キロをランドクルーザーで走りきる。
しかし、ダクラに行く前にすべきことがある。それがビザの申請だ。これも普通に旅行をしている分には意識することがないが、バックパッカーをする場合は欠かせない知識だろう。受験勉強における漢文の書き下し分のように欠かせない一品である。
旅先では旅行者たちが出会えば、まずビザの情報を交換する。なぜなら、ビザの情報は非常に流動的であり、同時に「あやふやなもの」だからだ。そして、さらには大使館によって取り易いビザと取り難いビザがあるのだ。さらには入国地点によっても入りやすさが違うのだ。
たとえば、当時、イスラエルの入国が急に厳しくなっていた。そのため、OKな日本人とNGな日本人が表れていた。また、アフガニスタンへのビザは各国によって取得状況が違う。基本は「隣国は敵だ」という概念は世界でも共通であり隣国でのビザ取得は硬い場合が多い(一般化はできない。印象である。)。そこでアフガニスタンに入るには、トルコで事前に取っておくのがベストだった(あいまいな記憶)。隣国のイランでは、なかなか取得できなかった覚えがある。また、タイのビザなどにおいては遠く離れたトルコが一番取りやすかった記憶がある(これもウロオボエ)。
まさに、ビザは旅における欠かせない通行手形であり、同時に頭を悩ませる呪詛である。しゃかりきに情報を集めて、戦略的にかんがえてこそ、やっと旅の最短ルートを導き出せることができるのだ。
ともあれアフリカでは特にビザが必要な国が多く、もし、取りそこねると先に勧めないというパズルな状況に陥るのだ。冗談ではなく、非常に厄介な話である。想像したまえ。北海道に入ろうとしたら「沖縄でスタンプもらってこい」と言われるようなものである。その数倍のスケールを想像してもらい、陸路が200倍くらい悪路ということを想像してもらったら良いと思う。
かくゆえにアフリカは旅がしにくい。それゆえに手付かずの地域も多くありエキサイティングなのだが。
さて、カサブランカでモーリタニアのビザを申請し、出来上がるまでに数日間、カサブランカで時間を潰すことにする。この日数も厄介で、相手によって代わる。とりあえず頼み込むしかない、という現状である。国によってはエクスプレスパスがあり、金を取られる。やはり、地獄の沙汰も金次第なのだ。
さて、モロッコは日本でもモロッコ料理があるためにご存知の方も多いだろう。クスクスと呼ばれるパサパサの米のような食べ物に土鍋も有名だ。しかし、中には「なんかの肉」が入っており、詳細は不明である。
そしてホテルの広場のテーブルでゴロゴロと新聞を読んでいると、妙齢の女性が話しかけてくる。
聞けばモロッコの女優で英語を勉強したいらしい。たまたま、私がヘラルドトリビューンを読んでいるのを見かけて声をかけてきたそうだ。このホテルには英語が喋れる旅行者がくるので、彼女にとって英語の先生を見つけるための堀なわけだ。
時間があった私は、話にのった。しかし、何が大変というと英語を喋られない人に英語を教えることの難しさである。いくらアラビア語を少しやったからといって、アラビア語で教えるのも一苦労。しょうがないので、身振り手振りも合わせながらヘラルドの記事を解説していく。
「これ新手のつつもたせでは?」なんていう疑惑もありながら、まぁ騙されたところで今は金もないし、という気分で付き合うこと数時間。
夕食の時間になり、夕食に行こうということになった。ついでに彼女の先生を紹介してくれるという。以下、飽きたので略。
そして、無事、ビザをゲットし、一路、南下することになる。バックパッカーにとって最難関の地と呼ばれるサハラ砂漠。そこに待ち受ける地獄も知らないで。
以後、気が向いたら書きます。