月別アーカイブ: 2009年5月

音楽って凄いなぁ、と。

いやね、昔は、音楽の価値を、いまほどは判っていなかったように思う。つまり音楽とは「良い音楽を聴いてるんるん」というような位置づけだった。しかし、やはり当然、音楽はこれほどまでも世界に愛されていることからもわかるように、価値というのはそれだけではない。太古の原始のリズムである太鼓が戦場を鼓舞したように音楽とは時に、カンフル剤となり、鎮静剤となり、あるいは癒しとなり、潤しとなる。つまり、薬や食事のように人のバイオリズムに非常に影響を与えるもので。その点では一種の点滴やアロマ、カラーなどと似た力を持つような気もするわけです。最近、アロマの力の話を聞いたけど、こういうのもやはり強い力を持っているんだろうね、蛇足だけど。そして、もちろん音楽の効用というものはそれだけに止まらず。たとえば、共通言語という価値や文化の表象というカルチュラルスタディーズ的側面、あるいはイデオロギーの発露としてのプロパガンダ的存在。そのような何かしらを象徴するもの(スプートニクの恋人を思い出す単語だけれども)になりうる。つまり言語であり、イコンであり、メタファーとなる。または、時に音楽は道具となる。芝公園をランニング中のスタミナを搾り取るようなロックであり、夜景とワインと男女の沙汰に彩りを添えるジャズであり、ベルリンの壁の崩れを人の心に刻み込むクラシックであり。そう考えると、時に人は食事のお店を吟味するけれども、それと同様に音楽も吟味して良いのではないか、とふと思って。もちろん専門職の人や造形が深い人はそうしているのはわかるのだけれども(DJ含め、クリエイターの方々とか)、それをうまく共有する場がないのが問題なのかな。たとえば自分が効いている音楽をうまく共有する手法とか。もちろんツールでいえば、Last.fmやiTunesなど色々あるわけだけど、たとえば、それで人と会っている時に共有する手段ってなかなか難しいよね。Zuneだかなんだかがそういうことに挑戦しようとしていた記憶もあるけど嘘かもしれない。ただ、ドライブ中や自宅なんかでは、そのような場はあるけど、もう少しあってもしかるべきなのではないかと。といいながら考えたけど、うそかも。iPhoneもっていってBARでお酒を飲んでいる時に自分のチョイス音楽をこっそり流してたらウツケ者もいいところだ。一周回ってきてアリなのかもしれないけど、あまりにもリスクとりすぎぞえ、と思うわけだ。いやね、雨だからかもしれないけど、ふとした瞬間に気がゆるみそうな時は、iTunesから爆音をかけると意識が覚醒するなぁ、とふと思ったんだけどね。そういえば過去の職場で夜中2時だか3時だかにも欠かせなかったのは音楽だったなぁ。もちろん睡魔に打ち勝つ意味で、ということだけど。そういや、「人の好きな音楽」ってあんまり知らないね。いや、そりゃこだわり強い人は「この人は○○好きなんだ」とかわかるけど(ハードロックとかヘビメタとかパンチ聞いているジャンルに造形に深い人に多いように思うが)、他だと、たとえば「ボサノバっぽい」「ハウスっぽい」みたいな謎の抽象的な好み「っぽい」くらいの認識しかないような世界ではなかろうか、とも思うけど気のせいかもしれないし、なんだっていいや。よきにはからってください。

トイレのスリッパが外にあったよ

タイトルには何も意味がない。というか、なんかのメモでこういう単語を今日見かけて、私が自分宛に書いたメモなんだけど、何のことやらちっとも判らず、とりあえずタイトルにしてみた次第。
自分宛なのは間違いないのだが、このフレーズの文脈や背景、意図が何も思い出せない。時期的には1年以上前に書いたメモに違いない。
もしかすると、ここに書くことでピンと来る人がいるのかもしれない。不思議なものだ。いわば公開鍵と暗号鍵みたいだな。でも、僕は暗号鍵をなくしてしまったので、このキーを見ても何もピンとこない。
ちなみに、そのリストから他のフレーズを探すと「付箋したままの夢」「おれたちは女性の『高校のころの写真』を見たときのベストな回答を捜し求めている 」「本の最初で最後がわかる男 」とかがある。おそらくこの辺りは2005年~06年くらいのメモのような気もする。どれもこれも全然ピンとこない。
あ、「おれたちは女性の『高校のころの写真』を見たときのベストな回答を捜し求めている」は何かのブログの記事でみかけて、タイトルが何かの小説だか名言っぽいと思ってメモしたのかも。でも、ここからどう考えても話をふくらませるとは思えない。というか、いろいろ差し支えがありそうで、書くことのメリットを想像できない。
「付箋した夢」とか、なんかポエミーでいいじゃないですかね。こういう色々想像できるフレーズは良いと思いますね。付箋した、ということは、「ブックマークした」わけで、それの意味するのは「将来、みるためにドッグイヤーを作る」というようなニュアンスであり、今はとりあえず横にのけておく夢である、というような意図や、あるいは、何かの本で見かけた言葉に蠱惑的な思いを抱きつつも現実と向き合う月曜日の夜に付箋して、そしてもう開くことのないページにアディオスと唱えるというようなシーンも想像できます。あるいは、誰かと共有するための付箋なのかもしれない。付箋とは時に自分のものではなく、他人のための存在なのかもしれない。本に付箋を貼ってプレゼントするとか小粋でいいかもしれないですね。
「本の最初で最後がわかる男 」というのも、なかなか創造性を刺激するタイトル。多分、その人は、たくさん本を読んでいるんだろうね。あるいは、まったく読まないのかもしれない。なぜなら最初よんだだけで全部わかっちゃうから読まない。でも、それが当たっているかどうかはどう判別するのだろう。推理小説だったら、犯人を推理してあたっているかどうかは、最後から5ページくらい見ればわかるけど、ドラマや恋愛、ミステリーだと、なぜ最後がわかるのかは、なかなかロジカルには説明しにくい。あ、わかった。多分、彼は、最初を読んだだけで、最後までの話を想像するのだ。そして、彼にとっては、それが読書である。最後がどうであるとか、実際の物語がどうであるとかは関係ないのだろう。そして、彼にとっては最初の数ページを読むために本を買う。あるいは、最初の数ページのために本を吟味する。だから立ち読みなんてしない。彼は装丁で本を選ぶのだ。あるいはタイトル買い。ジャケ買いよりは少し地味なセンスかもしれない。多分、「名詞+助詞+名詞」のタイトルよりは「名詞」一語か「名詞+形容動詞」といった座りの悪いようないいようなイマイチよくわからないタイトルが好きなのだろう。「7月24日通り」とか「日曜日なんか大嫌い」とか。なんかニヒルな感じの。あるいあhクラフト・エヴィング商會みたいな世の中をなめた名前に惹かれるのかもしれない。そして、ズッキーニとトマトのアペタイザーがあたかもメインディッシュであるかのように、それを丁寧に食べて、本を置くのかもしれない。
いずれにせよ、タイトルのフレーズは、これっぽっちもよくわからない。誰かに言われたのか、思いついたのか、何か気づいたのかもわからない。ただ、なんだか外にあるトイレのスリッパってのは、便利な言葉で言えば、何かしら情緒がある存在である。

名もなき週末の物語

先週末の金曜日、3人の女性を見かけた。知らない人だし、こんごも知ることのない女性だろう。ただ、おそらくその人たちにはその人たちの時間軸があり、そしてそれを彩る物語があり、そして、その物語を私は想像する。
■女性1
渋谷の文化村通りを歩いていると、1人の女性と1人の男性に擦れ違った。19時頃だから、これから飲み会に行くのだろうか。スーツ姿の男性とスーツ姿の女性。少し小雨の中をささっと歩く。男性が「だから、そこで僕が」なんとやらとつぶやいて、女性は視線を水平線から30度ばかり落とした先を見つめたまあ、うなずく。2人が平行して歩く時、お互いはお互いを見ながら歩かない。電信柱にぶつかるからだ。前を向きながら、「聞いているよ」という仕草もなく、ただ声だけを頼りにコミュニケーションを続ける。新入社員よりは少し歩き方が疲れていて、そして、バリバリのキャリアよりは1歩、歩みが遅くて、ただ目線が渋谷の地面を撫でて、そして男性のコミュニケーションが雨の後の地面をなめて。そして、週末の夜に向かって少しづつ視線は落ちていった。
■女性2
新一の橋近くのファミリーマートがある角で佇む女性。誰かを待っていた。5分裾のレギンスに7分袖の空色ボーダTシャツ。赤いナイロンのバッグを肩にかけて、UFJ銀行の辺りを眺めていた。日差しが強いのか、あるいは知り合いに会うのが怖いのか、角より少し路地に入った場所で、しゅらっと立っていた。平日の時間を考えると学生だろうか。他の可能性としては、スチュワーデスや主婦、平日休日のアパレル店員など何でもありえるとしても確率論から言えば、学生の可能性が濃厚だろう。彼女は恋人を待っているのかもしれないし、友達を待っているのかもしれない。ただ14時20分という時間帯はあまりにもアバウトな待ち合わせだ。30分に待ち合わせして10分前に付いたのかもしれない。でも、それなら、こんな時間から対岸を眺める必要はなかろう。あるいは、コンビニで雑誌でも立ち読みしておけばいい。それとも14時の待ち合わせで、まだ来ぬ人を20分待っているのだろうか。あるいは、時間は関係ないのかもしれない。自宅で待ち人を待っていて、「今タクシーにのった。ファミマでピックアップするから待ってて」と言われたのかもしれない。いずれにせよ、少し不安げなまなざしと少し猫背のシルエットは初夏の麻布十番に違和感なく収まっていた。
■女性3
時間は20時前。金曜日。飲み会に向かう人たちが電車を埋める。あるいは、疲れ切ったスーツの人々が帰路に着く。あまり混まない麻布十番も週末の夜は少しばかり混む。渋谷や新宿に比べるまでもないけれど、それでも改札が一つなのは混む要因になっているんだろう。でも、その分、改札前の待ち合わせを間違うことはないのだろうけど。南北線と大江戸線さえ間違えなければ。その中で、小走りに走る女性がいた。プリーツのワンピースをはためかせながらぱたぱたと。PASUMOを改札でビビっと鳴らし、小声で「すいません」とささやきながら人をかき分ける。モバイルSuica使えばいいのに、と余計なお節介を考えながら、彼女は3番出口に向かって走っていった。エスカレータも使わず、小走りに。左手にSuica、右手に何かの紙。これから飲み会でもあるのかもしれない。その場所のプリントアウトなのかもしれない。でも、この時代にそんなに飲み会の時間を厳守するなんて、なんともジェントル。もしかすると幹事なのかもしれない。あるいは、恋人を待たせているのかもしれない。あるいは、ブルーマンの幕があがるのかもしれない(20時だともう遅すぎる気もするけれど。知らないが)。そして彼女はどうして遅れたんだろう、と考える。仕事が長引いたのかもしれない。出る間際に電話やメールがかかってきて、送らなければいけない資料ができたのかもしれない。明日でいいや、と思っても週末だということを気づいて、週末に持ち越すのが嫌でやっつけたというセンシティブな性格なのかもしれない。あるいは、駅を乗り過ごしたのかもしれない。間違って赤羽橋までいってしまって、タイルの違いに違和感を憶えたのかもしれない。小走りに走るのは久しぶりで少しヒールが足を擦りむくだろう。
良い週末を、と誰かがつぶやくかもしれない。

村上春樹的「平和」な一日

本棚の整理をしていて、久しぶりに村上春樹の一冊を手に取った。村上春樹の小説の醍醐味は、「何気ない日常をなにげあるような一日として再構成」する点にあると考えている。そんなことを思いながら、過去のある一日を記す。
その日は、朝から晴れていたような気がするけれど曇っていたのかもしれない。記憶に残るような日差しの強い一日ではなかったのは確かだ。春にしては暖かく、夏にしては肌寒くというと陳腐な表現だけれど、いわば、「so so」「そこそこ」どこにでも転がっている気候の一日だったということだろう。時に気候は何の役にも立たないし、結局、役に立ったところでそれは後日論でしかない。天気というのは、結局のところ付随条件でしかないのだ。必要条件にたどり着くことのできないドアオープナーとしての存在を人は天候と呼ぶ。
久しぶりに会う友人だった。4年ぶりくらいだろうか。遠くからの距離でもぱっと気づけるということは、きっとその人の外形が記憶に残っているのではなく、もっと別の何かしらを記憶しているのだろうか、と思う。所作というものや立ち振る舞いというような何か。それを人はケビンスペイシーでもない限り、うまく消すことはできないのだろう。髪の毛を茶色から黒く塗り替えただけで主人を見間違う犬の世界とは違った世界に私たちは生きる。そして同時に引きこもりの私としては久しぶりに関係者以外で会う「他者」だった。
たどり着いたのは、少し階段をあがって少し階段を下がって、そしてもう少し階段を上がったお店。喧噪から少し離れ、それでも静寂からはほど遠く、ただそれでも幾ばくかは世知辛い細菌と日常に溢れた雑踏から逃れるように、のれんの奥に広がるエアポケットのような空間に逃げ込んだ。
同僚であれ、同級生であれ、友人であれ、同じサークルであれ、一時の時間を共に過ごした人間は、たとえ両者/関係者を分かつ時間が増えても、その関係性の希薄化の程度は、その空いた時間に比例しない。おそらく1ヶ月くらいの空き時間と5年の空き時間は1.1倍ほどの違いでしかない。逓減は1ヶ月くらいで臨界点に達し、あとは誤差の範囲での平行線をたどるのだろう、と思う。
とある国の話をした。特定の国ではないのかもしれない。しかし、その国はきっとどこかにあって、そして両者にとっては、追い求める国の一つだったのだろう。日本とは関係のない国で、おそらく新聞には週に1回も出ないような国。NHKのニュースになんか1年に1回も取り上げられないかもしれない。
相変わらず、その人は、そんな国を追いかけていて、そして私も違う形でその国を追いかけていて。でも、それに対してどのようなアクションをとれるかは不明確で、そしてマイルストーンも見つからなくて。そもそも、その国が特定できないのだから、リサーチさえも無意味で。でも、方法はきっとどこかにあって、その方法を探しあぐねる。たとえ話でいうならば、新大陸に向かうコロンブスのような。黄金の国はきっとどこかにあって、でも、どこにあるのか、どのような国なのかはわからなくて。それでも彼女はそれに短くない時間を費やし、そして私もまた闇夜に紛れて、その国への思索に耽る。
平和に関する話を聞いた。浅学非才の私の知識では、平和とは「戦争のない状態(byクラウシェビッツだったっけ?)」だった記憶があるのだけれど、もう少し最近の学問では、「貧困、抑圧、差別などの構造的暴力がない世界」を「積極的平和」として見なすらしい。「万人の万人に対する戦い」の中に平和が定義づけられんとしている。ねえなんともロマンチックじゃありませんか。たとえ、それがどこにもたどり着かないエルドラドだとしても、そこに一筋の光はきっとあって。大海原でさまよってサブイボたてる我々も光の差す方に向かっていて。
なぜか国際政治の話をしていると私は高揚する。もっとも軍事やいわゆるところの「戦略論」のようなものではなく、やはり、今後1000年の間でどのような世界が待っているか?というような論点だ。国という定義はおそらく変わり、「グローバリゼーション」は死語となり、そして、何かが変わり、何かはきっと変わらない。
大学時代に学んだことは、今の実務では直接的に役だってはいないかもしれないけれど、きっとこの世界には私を引きつける何かがあって。それが例え青臭い議論だろうと、あるいは理論に裏打ちされたどこにも届かない海上のレコンキスタだとしてもそこには常に何かしらのよりどころがあって。そんなことを思いながら、ヴェーバー先生の「イデオロギーとは神々の永久闘争だ」との箴言は今でも私の生活にまとわりつく。