梅雨が明けて夏がきた。夜が明けて朝が来るのと同じリズムがごとく、夏がきた。そして、夏は、麦わら帽子が波に流されるのとともに終わるのである。あと1ヶ月も立たぬ間に。とまれ、夏がきた。
夏がきたが、変わらず走る。走り続ける習慣は夏がきても変わらない。雨が降ってもかわらない。しいていえば風邪を弾いてもかわらない。ということで、夏だが走る。
夏で走るが、夏は暑い。夏は暑いということは、走るとなおさら暑いということである。つまりは、暑い中、暑いことになり、めっぽう暑いということになる。端的にいえば、とても暑い。
ゆえに、汗をかく。喉が乾く。とても喉が乾く。1時間も走れば、10分くらいから喉が乾きだし、もはや気持ちよく走れなくなるほど喉が乾く。コインを忘れたのでジュースを買うこともかなわない。喉の乾きを感じながら、走り続ける。こういう時に「炭鉱の仕事もこれほどに喉が乾くのか」とよくわからない想像もしながら、なんとかその喉の乾きを我慢する。
走り終わる。喉が乾いているので水を飲む。もうありったけの勢いで、冷たく冷えた水を飲む。冷蔵庫できんきんと冷えた水をいっきに飲む。この水の美味しさはなんと表現すれば良いのか。これはもうミスター味っ子の名セリフ「うーまーいーぞー」を超えた、何かである。もはや美味しさではなく快楽などに近い感覚なのかもしれない。味覚ではない。これは体験である。エクスペリエンスである。この走ってきた後に飲む水の美味しさを体験できる場所があれば流行るのではないか。マッサージや酸素なんとかと同じように。
飯の美味しさと異なり、冷房の気持ちよさとも異なり、は、ここまで書いて気づいたが、これは「生」に根ざした美味さなので。乾きは、命に直結する。脱水症状は人の命を奪う。そのような点で、この水は、自分の命を蘇らす行為に等しい。ある種の性的なものにも根源が近い行為なのかもしれない。
ということで、この水の美味しさを味わいたいがためにまた来週も走ろう