■はしれはしれ丘の上
今日は久しぶりに朝からはしった。普段は夜なのだが、最近はどうも夜がドタバタしているので朝にシフト。
朝とはいえ6時代、7時代だとまだ涼しい。人も少ない。サザンの夏の歌を聞きながら軽快にはしるのだけれど。
そこでふと思ったのだけれど、「夏」という季節は損をしているんじゃなかろうか。
日本では、端的に言って四季があり、その季節は、12ヶ月の1/4づつ。つまり3ヶ月ごとに切り替わっていく。
旧暦は抜きにして、現状だと3月から春、6月から夏、9月から秋、12月から冬、といったところだろうか。
実際は4月から春なのかも知れないけど、それをすると、冬が1月からになり違和感がある。
ともあれ。しかし、日本には「梅雨」という季節があるわけだ。これは、ご存知の通り、春と夏の間に存在する。公的には認められていない可愛そうな季節。
しかし、そこに梅雨が入る。大体、6月末から7月終わりまで。そう考えると、本来ならば夏のテリトリーである6月がまるまる梅雨に奪われてしまうことになる。
つまりは、夏は他の季節に比べて1ヶ月季節が短いのだ!なんたること。
ついさきほど、この事実を知って愕然としてしまった。つまり夏生まれは自分を褒め称える季節を1ヶ月損をしているということになるのだ。
これは良からぬ。声を大にして叫ばねばならない。
いっそのこと、季節を「春」「梅雨」「夏」「秋」「クリスマス」「冬」などにしてみてはどうか。冬はクリスマスに正月に卒業式にとイベントを独り占めしすぎなので、クリスマスは切り離すほうがよかろう。
またやはり季節は偶数でないと、季節の取り合いをした時に不便がおころう。そのために季節は6つが良いような気がする。
■靴下を干す奴
ベランダにある靴下を干す奴。なんていうのだろう?あれ。パッチンと留めるものが葡萄の房のように連なったもの。
あれの1つがポトリと床に落ちた。まるで南天のようだった。
ただ問題なのは、この洗濯物に欠かせないツールのことを私は26年間も知らずに生きてきたという事実だった。
■血液型
最近まで血液型をこれっぽっちも信用していなかった。
いわゆる「○○型だから、○○な性格だよね」という先入観である。
理由は簡単で、世の中がそんな4つに切れるわけがない(RH-などを入れるともう少しあるけど)。
ただ、勿論、血液型の存在経緯(歴史)もどこぞでききかじったことがあるので、そのような血液型が裏付ける性格の論拠も、明確に否定できるものでもなかった。
さりとて、まるで合コンのように相手に血液型を聞いて一喜一憂するのは、どうもはばかられることだと考えていた。
しかしである。
昨今、この血液型の力が、実は思っている以上に強いのではないかと改めて痛感している次第。
それを認識するには、四半世紀の年数を要したわけだが。
やはりA型の人間は○○だし、B型は○○だ。というようなニュアンスがなんとなくわかってくるようになってきて。
今まで興味がなかったので調べたことがなかったのだが、ボトムアップから考えれば、納得することが多くなってきた。
「A型は○○君と○○さん、○○ちゃんと○○さんだから、A型ってのは、ああいう人たちを言うのね」と帰納法的にA型を理解していくようになったというか。
そうして、ようやく血液型が持つ何かしらの総意。わかりやすく言えばイコンのようなものが読み取れるというようになってきたというか。
特に面白いのは、血液型の4分類だけでなく、親の血液型を組み合わせるとさらにバリエーションが増えるということである。
たとえば、単なるBでも、AOなのか、BOなのかで性格が変わったりする(気がする)。そう考えると、血液型は10種類を超えることになる(ほんと?)。
ということで、最近は血液型がブームで会う人によく聞くのだが、なかなか正解率は高いような気がする。ここ最近10人で7人くらいは一発で当てられた気がする。
というか、今更こんなことを書くのもナンセンスなのだけど、みなさんはたぶん、血液型をより詳しくご存知だとは思いますが。
まぁ、こういうのは自分が体感したいんとピンとこないというお話でした。
■眠りの街
メッセンジャーでオンラインの人の9割が退席中だった。まるで世界が一斉に眠り姫になったのではないかと思ってしまった。
月別アーカイブ: 2007年7月
脳内物質をぶっ飛ばせ
ふと雑感。
我々の日々はいくら平穏のように見えようとも、感情の起伏や体調の良し悪し、果ては気持ちの揺れなどをなくすことはできない。
たとえ1ヶ月引きこもって、外部の情報を遮断して、出家のような生活をしたところで、それは外面的な「安定性」を産むに過ぎない。
内面のゆれを抑えることは、ほぼ不可能に近い。なぜなら、外面的な安定が持続することで、それにより内面ではそれが新しい刺激となり、耐性/慣れを生み新しいフェーズへと動き出すからだ。
とはいえ、それをマネージすることを出家や悟り、はたまた解脱と呼ぶのかも知れないけれど、それらはあくまでもマネージするということであって、内面性の安定を生み出すのとは少し違う。
どういうことかというと、いくら我々が安定した日々を送ろうとも、脳内物質は黙っていてくれないのだ。
いわゆるセロトニンやドーパミン、アドレナリンなどは脳内で暴れはっちゃける。それゆえに、いくら仕事が順調でも唐突にダウナーに入ることもあれば、あるいはイキナリテンションがあがることもある。
女性は男性よりも感情の起伏が激しいというが具体的に証明されているのかどうかは知らない。それはホルモンの関係性に因るものが大きいと推測するが、男性にだって月一でのバイオリズムの偏重はあると聞いたことがある(外面的には何の変化がなかったとしても)。
それにホルモン云々だけではなく、「いい空気を吸う」「うまい飯を食う」「十分な睡眠をとる」「身体を動かす」「恋をする」などの外的変化だけでも、内面の動きは大きくなり、そのバラティリティたるや推測不可能。ある程度、過去の事例を参考にして、それをコントロールできたとしても、それは可能性の程度問題であり、他の要因が入れば、そんな定理は簡単に崩れる。
卑近な例でいえば、いくら上手い飯を食おうとも、ぐっすり寝ようとも失恋の後は、マインドをアッパーにもっていくことは難しいように、メンタル面を支配する要因は須らく同じものではない。
それゆえに、脳内物質のコントロールは非常に難しいのではないか、と考える。もっともだからこそ薬やドラッグなどが活用される昨今なのだろうけれども。
そう考えると、我々というものは「哲学云々」「人生の意義云々」という形而上的なもので心の平穏を生み出そうと試みても、ほんの瑣末なことで簡単にそのような平穏は打ち砕かれてしまう。
そうすると、あえて誇張して言うならば、人間は脳内物質に支配されているといっても過言ではないだろう(ある一側面だけをみれば)。
とはいえその脳内物質も、事象の連鎖を紐解けば、外的要因が大きく寄与しているので、広義な面でいえば、その定理は当てはまらないのだけれども。しかし限定的なところで言えば、やはりそれは実体験をもって、それを納得することができるのではないか。
たとえば、いくら仕事が順調でも突然スランプになることがある。あるいは、酒を飲むと辛いことを一時的にでも忘れられることがある。そのように、自分での理解できない要因により精神が左右されたり、逆にある任意のツールを使えば精神を左右することができるというのは、まさに限定的な意味での脳内物質の力が絶大であるということの証左ではなかろうか。
とはいえ、この話も堂々巡りになる。結局、その脳内物質をコントロールする要因は外的とその他の要因に分かれるために、これを切り分けて考える必要がある。その為、不確定要素を持った発作的に起こる脳内物質の乱れ。それは病気と言われることもあれば、人間のアンステイブルな心理状況の要因、つまり「不確定要素」を持った変容においては(切り分け後)においては、やはり人間は脳内物質に支配されているといえる余地がある。
しかし、である。
so what、とわたくしは言いたいのである。たかがなんミルグラム(という単位で良いのかしら?)のやろうどもに精神を乱されてたまるか、というか。
そんなわけのわからなぬものに精神を支配されてたまるもんですか、と。とはいえ、こう考えると、心身二元論となっていつの時代の寝言だ、になってしまうわけだけれども、そりゃ密接に関係してようが、あるいは健全な肉体に健全なる精神がやどろうが、んなもん知るかと。
ロジックは勿論破綻しているのだけれど精神論的に。
まとまりがつかなくなった。まぁ、言うならば、ダウナーは認めん(自分に対して自分として)というか。
もごもご
メッセンジャーのどうでも良いTips2つ
どうでも良いメッセンジャーのTips2つ。友達とメッセしていて、その方が知らない情報だったので。
いっぱんてきに知られている情報だったらごめんなさい。
■相手の最終ログイン情報を知る
相手が最後にいつログインしたかを知ることができます。ただし、これは自分がオンライン時に拾った情報かな。
↑こんな感じに、最後に相手としゃべった時間も知れます。
メッセンジャーPlus!を使っていると、「メンバーの情報」というメニューがでるので、そこから確認できます。
■相手が自動で退席中か、本当に退席中かを知る
ステータスの「退席中」が、自動か手動かを知る。自動だと「自動中」とステータスに表示されます。手動だと表示されません。
これはMSN メッセンジャーのバージョンに因るのかしら?不明。
↑ 自動
↑ 手動
それだけでした。
らんららん
余りにも天気が良いので思わず今日2個目のエントリ。
どうでもいいけど、さっき気付いたが、もうすぐ72時間外に出ていない記録が樹立されようとしている。完全な引きこもりだなぁ。
お陰様で大分GetなThingsがDoneされたけど。うーん気分も上乗仏教。
ということで、何かしら3連休、作業(仕事と呼ばれるもの)以外でしたことをまとめてみた。
絶望的にナンセンスだけど天気が良いのが悪い。
■食事
・カレーを5回食べた
・冷凍のコロッケパンみたいなのを3回食べた
・アイスクリームを5個くらい食べた
・コーヒーを7杯くらい飲んだ
・グレープフルーツジュースを2リットル飲んだ
・エビスを100ミリリットルほど
・ヴィタメールというお菓子
■見たこと
・サザンの夏のDVDを見て一人テンションが上がっていた
・ニコニコ動画でイチローのランニングホームランを見た
・映画「RENT」を30分くらいみた(レズの人のコンサートまで)
■PC関連
・デフラグ
・外付けHDDの整理
・バックアップサービスの更新
・iPodの更新
・デスクトップ/マイドキュメントの整理
・業務以外ののびのびになっていたサイト製作をいくつか着手(Pukiwiki、Wordpress、MTなど)
■読んだもの
・ブログを2,000記事くらい目を通した(FreshReaderで溜まってたエントリ数がそれくらいだった。流し読みも含む。てか、本当にこんなにも目を通したのかなぁ)
・辻ひとなりのフランス料理の本と「目下の恋人」、白川道の「終着駅」、「Pukiwkiなんちゃら」を読んだ
・郵便物いくつか(ゴミ含む)
■書いたこと
・ブログを50記事くらい書いた(ソーシャルメディア関連が大半)
・手紙・カードを4通くらい書いた。おとん含む
・メールを50通くらい書いた(作業含んでしまうが)
・カード関連の書類
■喋ったこと
・メッセンジャーでの対話10人弱ほど
・電話7人、おとん含む(履歴で確認)
■寝たこと
・昼ねを含んで4回くらい寝た。そのうち2回悪夢みた。
■日常
・洗濯を3回まわした。うっかり黒いものと分けるのを忘れて、Tシャツに白い糸が一杯ついた。
・風呂に1回、シャワー2回入った。湯船は2週間ぶり。入浴剤素晴しい
・トイレ回数不明(アンカウンタブル)
・寝ぼけて、コーヒーをこぼしてふいた
・郵便局のフリーダイヤルにIP電話からかけられず怒る(いつも)。
そんなこんなで天気の良い月曜日。
洗濯物が気持ちよいなぁ。
ああ幸せ。
ご機嫌なお天気ですねぇ
いやー、昨日までの続いていた鬱屈とした天気が嘘のよう。
ゴキゲンですなぁ。
これが台風一過というものでしょうか。
ただ、ここから「台風が過ぎ去った後は、天候に恵まれる」という定理を導き出すのは、「昨日も今日も雨だったから、明日も雨である」という帰納法と同じくらい詭弁で。
単に1つの各論から総論を導き出してはいけない。
ここから導き出せる唯一の定理は、天気がいいと人間はゴキゲンと感じることがある、というくらいである。しかも、それがエクセプションではないということを否定できる要素はない厄介な話ではあるが。
もっとも、台風が過ぎ去った後は、天候に恵まれる「こともあるという」テーゼを導き出す出すこともあるが、それは「天候に恵まれる」という可能性がアトランダムな以上、「台風が過ぎ去った後」という条件設定は、何を置いても成立してしまうわけで(たとえば「核が落ちた後は」でも「ベルリンの壁が崩れた後には」でも成立してしまう)、そう考えると、「世の中には天候に恵まれることもある」という定理にしかならず、それはもはや定理としては何の意味をもたない。
つまり、いつか引用した「東京タワーからカンジュースのプルタブを落とすと、人は死ぬ」という定理と同じ問題になってしまう。
もっとも、「天気がいいと人間はゴキゲンと感じることがある」という言葉さえも、「天気がいい」と「ゴキゲン」が定義されていないので、なんにも使えない定理である。
さらに言うと、「天気がいい」と「ゴキゲン(気分がいい)」というのは、ある「良い」という主観に基づいた感情であるゆえに、それは、「相対的に定義」されるものである。
つまり、ここでの「いい」というのは「感情の触れ幅のアベレージが平均以上である」ということであり、この平均というのは、「悪い」「普通」ということからも導き出される数値である以上、そもそも「いい」というものは主観の粋を出ない。
たとえば、雨しか降らない土地においては「降雨量が少ない」ということが「天気がいい」と言うことだって可能なのだ。
ということで、とりあえず、こういう下らないエントリーを書いてしまうほど、今日は天気が良くて私はゴキゲンだ、ということくらいしか私はわからない。
本って奴は。
雨の時は本に限る。
ということで本の話。このブログではしょっちゅう出しているネタなので恐縮ですが。
この台風で本を読んだというよりも、まぁ、定期的に本は読んでいて。
そして私の傾向として、「何かを考える時ほど本を読む」という傾向があります。それは、思うに自分の中ではある程度、答えがでている悩みがあり、それを本を読むことによって決断に促してくれる効用があるからのように思います。
基本はノンフィクションが実は好きだったりしますが、同程度、フィクションも好きなわけで。
そして、そういう悩んでいる時に読むのは、実はどちらでも効用は同じという経験則があります。
というのも、「実際にあったから」というだけで、ある事象の重みは変わらないケースがあります(変わるケースもある)。
それが変わる、変わらないを決める要素は、単純に1つだけ。自分のおかれた状況。しいてあげるならば、その時の主観になります。
それゆえに、悩んでいる時においては、大抵の場合、「決断を促進する、ないしヒントを得る」だけですから、それは実話であろうと、なかろうと関係ないのです。
わかりやすく言うと、たとえ小説であろうとも、そこに出てくるワンフレーズが、自分にとっての「もやもやしていたこと」をクリアーにさせてくれるトリガーであれば、それは小説であろうとなかろうと関係のない話になるわけです。
具体的な例でいうと、たとえば「結婚するかしないか」を悩んでいて、そして、完全に答えがでない悩ましい状況だとする。
その時に「他の人はこの時にこうしたから結婚した/しなかった」とい「う話は、ケーススタディをやる分には有効ですが、それは自分の考えを膨らますという効用とは位相を事にします。
そうではなく、たとえば、カンナカレーニナを読むことによって、そこにあった1行が、自分で思いもよらかった「結婚への見かた」を提示してくれることもあるわけです。
そして、それによって、その悩みを決断する補助線が1つ生まれることになる。
つまりはそういうことです。
で、まぁ、とはいえ、バイオリズムの問題で、ノンフィクション、フィクションを読みたい波は交互に襲ってきたりします。
最近はフィクションの波が来ていてむさぼり読んでいました。しかしもう「いいと思える本」しか、読む気力がなくなってきたのも事実です。
昔は、面白くなくても最後まで読み通す根性がありました。しかし、本を読む年齢を重ねるにつれ、その本が面白いかどうかの判断基準も明確になってしまい(良かれ悪しかれ)、同時に、時間的制約というものが大きくのしかかるようになりました。
ちょうどこないだのちょっとしたパーティでお会いした方がおっしゃっていた言葉が印象的です。
もう、私はいい本しか読みたくないんです。
と。それはクリアーな事実で。
さりとて、知らない本に手を出さない、というのとは違う。もっとプラグマティックで、1ページ読んでピンとこないと読めない、ということになります。
ともあれ、しかし、最近読んだ本たちはヒットばかりでした(もっともその背後には10ページくらいで終了となった屍たちが同じ数だけありますが)
まずは、伊坂幸太郎の「チルドレン」。
名言を2つほどピックアップするならば
あいつは常に何かを主張している
陣内が口にするたびに「絶対」の価値が落ちていく。
などでしょうか。友人などのブログでもよく見かけている本なので、お読みになった方も多いかと思われる一冊です。
もはや主観としては巨匠の域に達する伊坂氏。今回もお得意の物語リンクをふんだんに駆使し、やられた感を醸成してくれます。
そして本多さんの「真夜中の五分前」。
これは、個人的に「ノルウェイ」の匂いを多分にかぎとってしまったわけですが、それもまぁ、やむなしでしょう。
個人的に好きなフレーズ。
主人公が悩みを抱えていて、久しぶりに友人に電話をした。しかも深夜。
すると友人が「神戸から東京まで」いまから行くという。
バカいうなよ、と僕はいった。
「明日、会社だろうが」
「だからどうした」と友人はいった。
この「だからどうした」がすきで。控えめにいっても、たまらなく好きで。
このフレーズは目新しいものではなく、他の書籍でも何度か見かけたことがあるようなきがするのだけど。
だから、どうした?
いいよね。これ。全てを超越したような概念。馬にのってる感じがする。
英語だと、so whatでいいのかなぁ。まぁ、いいのだろう。いろんなシーンで使える名フレーズです。
恋愛だったら「私結婚しているのよ」「だからどうした」
仕事だったら「僕2回も失敗しちゃった」「だからどうした」
人生だったら「借金2億あるよ」「だからどうした」
うーん、すがすがしい。
そして最後のご紹介は藤原 伊織さんの「シリウスの道」。
ミステリー好きなら、誰もがはまる藤原さん。著作は少ないけれど、どれも素晴しい味わい(こないだのヒゲの話だけは個人的にイマイチだった)。
いくつか言葉を。
このややこしいご時世ではたぶん問題を抱えていない人間の方が絶滅種に近いのだ。
「自己満足かもしれない」
「満足に自己満足以外の満足があるんですか?」
ふむ。
なんだかかっこいい人たちばかりを読んだ気がする。
これらの本の詳細は、こっちに読書メモ書いているのでよろしければどうぞ。
読んだ本
そして、最後に、藤原さんの本より。
質問の答えは質問自体のどっかに隠れているんだとだれかが言っていたよ。
これは、まさにソクラテスの時代からこそ愛されている絶対の真理。大江健三郎は「問題が設定できたならば、答えはもう出ている」と言ったけれど。
対話によって人は新しい高みへと到達することができるわけで。
そして、最初の自分の独り言。「本と対話し、自分の問題を解決する」が実証されるわけである。
「世の中に、絶対、と断言できることが何一つないなんて、生きている意味ないだろう。」
朝が好きだ
僕は典型的な朝型人間で。
夜が遅いのはとても苦手だけど、早起きは好きだ。
最近は、その傾向に拍車がかかり、大体3時~6時には起きている。
朝起きたときの静けさが好きだ。
夜中とはまた違った静かさ。
現代における夜中とは引き伸ばされた夜というだけであり、そこにはなんのウシもミツもドキもない。
しかし、朝は違う。
現代における朝とは禁忌の対象であり、起きているのはニュースキャスターと新聞配達の人くらいしかいない。
ブログでもSNSでも格段に更新がおち、街が眠りについているのが実感できる。
メッセンジャーでさえ、常時オンラインになっているメンバーの半分くらいしか見つけることができない。
しかも、たいてい「退席中」というおまけつきだ。
その疎外感。
周りに誰も話しかけるものがいない。電話する相手もいないという環境。
それは何かしら、物事への注力を促進してくれる。
苦いコーヒーも、かすかにかかるどこかの音楽も、そして、新聞の匂いも全てが朝ゆえに素晴しい。
ああ、朝がすきだなぁ。
運転免許証の更新
運転免許証の更新通知が来て。
あまり喜ばしくないものだから、さっさと片付けるにこしたことはない。
都営三田線の大手町を降りて運転免許更新センター へ向かう。
7月だというのに肌寒い天候で、嫌が上にも、まだ梅雨だということを思い知らされる。
月曜の午前からボルテージが高い哺乳類はいない。まだ閑散とした更新センターで、たんたんと手続きは進む。必要書類の提出。はがきの提出。そして免許証の提出。
パンチで穴があけられた免許証は、その穴ひとつが、ひと世代前の重機を思い返した。どんな機械でも錆びがつき古くなる。そして、それをアンティークと呼ぶものがあらわれる。
視力検査では、いささか心配があった。近視矯正手術をしてからもう5年。だいぶ、視力が落ちた気がする。
それでも不屈の意志は山をも動かす。寸分のない「右」「左」の掛け声で、難なく視力の関門を突破する。そして、機械的にすすむ写真撮影。襟を正すことを命じられ、なにかしらアウシュビッツを思い出した。もっとも、そんなに歴史深い瞬間でもないけれど。
椅子に深く座り、背筋を伸ばす。髪の毛を整え、あごを引く。まったくもって、アンドロイド。
しかも、最近、免許証にICチップが埋め込まれるらしく、暗証番号を入力させられた。しかも2つ。
何にしようか、と思いながら、5年後の更新でも覚えている番号でなければいけない。しかも2つ。
やむなく5年後に思いを馳せることになる。5年後は自分は何をしているだろうか。あるいは5年後の免許証に映る顔はいかなるものなのか。
なんてことを2秒くらいで考えたあげく、適当な番号を記載する。
そして待ち受けるのが講習。1時間程度とはいえ、あまり愉快な時間とは言えない。
ビデオでは福留さんが話をすすめる。しょっぱい仕事、ともおもわないけれど、岡留さんならもっと良かった。噂の真相は復刊されないのだろうか。
藤原伊織の新刊を読みながらすすめられる事故の映像。
「彼はひとを引いたときから、心の底から笑ったことはありません」という一文が頭にひっかかる。
たしかに。交通事故はもはや他人事ではない。都内だけでも年間200人以上(24時間以内に他界した場合)の死亡事故が起こっている。
そう考えると、いつ自分が加害者、被害者になってもおかしくない。これが交通事故が持つ重みとして、さまざまな演説に語られる。
飛行機で事故するよりも交通事故で死ぬ可能性のほうが高い、あるいは肺がんで死ぬよりも云々。
死を確率に置き換えて、死の可能性を比較する。そのようなことは机上では可能だが、心情的には受け入れられるものなのだろうか?
バンジージャンプの紐が切れて死ぬ可能性よりも、イラクでカラシニコフに撃たれる可能性が低いからといって、彼はバンジージャンプよりもイラクを選ぶのだろうか。
ビデオは続く。
携帯電話をしていたことによる不注意で左折時に自転車を巻き込む。悲しむべきことにどこにでもよくある事故だ。
そこで、1つ想像は膨らむ。
もしそのようなことが起こったとして、電話をしていた相手はどのような心境になるのだろうか。電話口で「キキー」という音が聞こえ、それから声は何も聞こえなくなる。
あるいは逆ならどうだろうか。
自転車にのりながら携帯電話を利用していて、注意がそれ、車にはねられる。
その電話先の相手は、一体誰だろうか。もしかすると営業先かもしれないし、恋人かもしれない。友人かもしれないし、家族かもしれない。
恐らく、その人の悲鳴とともに投げ出される電話。電話先の相手は「もしもし?」を連発することだろう。しかし、その声は誰にも届かない。
ちょうどあのドラマ「24」で、そんなシーンがあったな、と思い出す。
主人公が電話している相手がトイレで絞殺される。突然、相手がいなくなった電話。無常に響く声。
どこにもいけず、声だけでは何も物事を動かすことはできない。聞く相手がいなければ。
電話はときに、そのような人間の無情を増幅させる装置となりうる。だから携帯電話は嫌いなのだ。
そうこうしているうちに講習は終わり、免許証が交付される。
今回の免許証には本籍や国籍は記載されていない。ICチップに埋め込まれているのだそうだ。そして、中型車の記述が増えていた。知らない間に法律は変わっている。
また、携帯をしながら運転することによる刑罰、民間による自動車取締り、飲酒運転の取り締まり強化など色々世の中は変わっている。
ちなみに飲酒運転は大体男性60キロの人で、ビール瓶2本を飲むとひっかかるくらいの程度になっているのだとか。
坂本龍一のseldon drunkというエッセイを思い出す。アメリカの法律では飲酒運転の基準が「ちょっとしたとっぱらい」ならばセーフになっているとかいないとか。
いずれにせよ酒の弱い私にとっては関係のない話だ。
また免許の筆記試験も変わったらしい。今は90点を取らなければならないそうだ。もっとも自分の時だってそうだったかもしれない。もう忘れてしまった。
知らない間に世の中は変わっている。
帰り道、2人の女性が前で歩いていた。タイトなパンツを履いた背の高い1人の女性は、お尻のポケットに携帯電話を入れていた。
そこからストラップがもれる。そのストラップは赤いお守りだった。何のお守りかはわからない。しかしストラップ
にお守りをつけているのは、よく見る風景ではない。主観として。
そして、10秒ほどその人の人生に思いを貸せていると信号が青になった。
そんなこんなで月曜日の午前が過ぎ行かんとしている。
Life's a picnic!
完全なる個人的な呟き。
先日、仕事でお会いした大学生の方から面白い質問を受けた。
「大人って何ですか?」
という眩しきなるほどストレートな質問だった。
そんなもの考えたことがなかったから、面食らった。そして、ふと出てきた自分の答えを差し出されたノートに書いた。懐かしい匂いのマジックペンで。
それから、ぼーっとそのことを考えていて、1つ思うのは「自分のケツ持ちを自分でできること」かしら、と思い至った。
わかりやすい言葉で言えば、現状を自分の責任に帰する事ができるか、というか。卑近な例で言えば、締め切りを過ぎた原稿に対して契約破棄されても納得できるというか。別にかっこいいことを言いたいわけでもなく、啓蒙的な意味でもまったくなく。
なんでそんなことを思ったかというと、一般的な世の中として、そのような話を(自分のケツをふけないという話)よく耳にするから。
たとえば、「会社へのグチ」。これってば、やはり選んだ自分の責任であって。もし会社が悪いと思うならば、それを変えるために動くべきだし、そうでないならば黙って辞めるべきだ。
あるいは「恋人への諦念」。恋人への嘆きを口にするのは自由だが、その恋人を選んだのは自分である(お見合いとしても同じこと)。そして、それが嫌なら、できれないならば分かれればいい。
もちろんこんなのは「原則論」であり、一般論ではない。そもそも、こんなこと書いても自分自身だってできちゃいない。でも、意識はけっこうしていたりする。ただ、いずれにせよ、できていないのは事実であり。
でも、この答えを彼女のノートに書いてしまえば、自分は大人ではないということを明示することになって、自分で悔しくて。だから、違う答えを書いた。
そんな彼女が提示したもう1つの質問が「自分にとっての理想の大人とは?」というような質問だった。
そこで思い出したのが、いつぞやかの友人の質問だった。
「朝、起きるの楽しみにしながら寝ている?」という質問。社会人になりたてて何もわからずてんぱっていた僕に投げかけられた質問。
「もちろん!」と即答できなかった自分が悔しかった。ばたんキューとベッドに倒れこみながら寝ている自分を思い描いた。
翌朝なんて、睡眠不足の身を考えれば悪夢でしかなかった。
それから、その質問をたまに人にする。いままでで即答で「YES」と答えたのは覚えているだけで2人。そのうちの1人は出版社に勤め初めて2年目を過ぎたころの人だ。
私の愛する作家の幾人かをも担当されている彼女は、日々の業務をたんたんと、しかし、非常にふくらみをもった日常としたものとして話する。崇高なほど。
「うん」という回答を聞いて、悔しいな、と思った。自分はそうではない。非常に悔しい(実は後ですぐに楽しくなったのだけど、やはりなれていないうちは大変だった)。
よく考えれば、社会人になると、1年の300日位は仕事をしているわけで(業界によって違うけれど)。そう考えると、仕事がある前日の夜に「明日楽しみだ!」と寝るのと「明日辛い!」と思いながら寝るのは、累積すると、雲泥の差が出てくるわけで。
もし「明日起きるの嫌だな」と思って寝るほどもったいないことはなくて。そして人生を無駄にしていることはなくて。そんなことを思いながら、15,000回も過ぎれば人生は終わっていて。「やだな」の15,000回は利子もつかない。
そう考えて、できる限り、翌朝を楽しみながら寝れるような状況を意識するようにしていて。
それが最初の話と繋がる。
「起きるのがやだな」という状況に追い込んだのは自分なわけで、その責任があるのも自分で。
そう考えると、人生という「素晴らしきもの(c life is beautiful」を無碍に過ごしているわけで。それってば、非常に人生を侮辱しているような気がして。
ブルデューをひくまでもなく、その人は社会からの借りをまだ返していないわけで。むしろ、累積債務を抱えたままあの世にデフォルトする。
なんてことを思っていたら先日、先日、大学時代の同級生より4年ぶり位にメールを頂戴して。彼女とはスペイン語のクラスで一緒で。印象深いのは、高校時代に何を考えたかイタリアに留学をしたという人で(アメリカに行った人は幾人もいれどもイタリアとは・・・)。案の定、今度はグアテマラに行くそうだけれど、それはまぁ別の話。
で、彼女は何も意図したわけではないだろうけど、メールの文中に「カズしてる?」という一文があって。
深い意味はまったくなかったのだけど、僕には腹に刺さって。おお、と思った。
あいてが何も意図していない何気ない一言がときに、強い重みを持ったものとして浮かび上がることもある。
今の自分は、その頃の自分のままであるだろうか、と。「カズしてる?」のカズが何を指すのかわからないけれど、20歳前後の怖いものがなかったアノ頃の自分を嫌が上にも思い出さざるを得なくて。
そう考えると、やっぱり「くそ!」と思って。あの頃の自分に負けてはいられない、と
そんなこんなで「Life is beautiful」よりも「life is a picnic(人生楽勝!):from ワイルド・サイドを歩け」を大切に生きたいと思うわけで。
というわけで、日々の朝が楽しみに起きれる現状をちょっぴり誇らしげに思う昨今なのだ。
Moovable typeいじりいろいろメモ
そういえば、いつしかブログをゴニョゴニョいじっていて。
で、こないだ新しくブログを作成しようと思ったらやり方を忘れていたので、備忘録にこちらにメモ。
間違いとかあったらごめんなさい。
■「次のページ」へのリンク導入
トップページの「前のページ」を見られるようにする方法。いわゆる「前のページへ」リンク。Wordpressは標準で出来ますが。こちらで実装。
小粋空間: トップページのページ分割
■タグ用の静的ページを生成
タグ用のページを生成。サイドバーにタグクラウドを出して、これをしておけば、タグ数分だけページが増えました。(このブログとは違うブログで実装。でもあまりにやりすぎてGoogle先生に怒られたのでやめました)
MT3.3のエントリー・タグ機能実装 – Type R
■HTMLでPHPを実行
やり方はいくつもあると思いますが、とりあえず「.htaccess」を利用して以下を記述。
AddType application/x-httpd-php .htm .html
■テンプレートをモジュール化
こちらのブログではサイドバーを別ファイルにしてます。(side.php)。
再構築が激早になりました。
MovableType幼稚園: MovableTypeのテンプレート・モジュールは便利
■スパム対策プラグイン「Akismet」導入
すんばらしいの評判名高いAkismetのプラグインをスパム対策に導入。いまんところ素晴しい仕事をしてくれています。
最強のスパムプラグイン「Akismet」をMovableTypeに導入する方法 – DesignWalker