世に棲む日日を読んだ

世に棲む日日(一) (文春文庫) 電子書籍: 司馬遼太郎

昔、一度挫折したのだけど、最近、ふと思い立って読み直した。めちゃめちゃ面白かった。
高杉晋作と吉田松陰の物語

特に記憶に残ったこと
– 当時の日本は班に分かれていたので、いまの日本と違う国の概念だったわけで、その中で、国を統一するという概念・推進するという考えを持つというのはなかなかすごい。キングダムの中華統一にも似た想像力。ただ、これを今に当てはまるとやはり今の国の概念も永遠ではないわけで、別の国があり得るわけで、それは想像力の問題だなと思った
– 吉田松陰は滅私奉公的な、個人よりも公のために死ねる人だったわけだが、それは個人の特性というよりも、教育によるものだと理解。宗教ではなく教育でそこまで人は価値観を変えれるものだという驚き

 良いなと思った箇所抜粋

(どうせ人間、死ぬのだ)  と、伊藤はおもった。〜(おれはもう死んでいるのだ。死霊が駈けているのだ)  そう思え、と自分に言いきかせた。

死を覚悟して戦うシーン。現代ではこんな考え方はなかなかできない。

かれはこの時期、その後ながく長州人のあいだに伝えられた名言を吐いている。 「人間というのは、 艱難 は共にできる。しかし富貴は共にできない」

辛いことは共有できるけど、成功を共有できないという深い含蓄。

晋作は、その手の甲を、また叩いた。晋作のいう浮世の値段というのは、 おうのが受けとった意味とちがっている。美人であれ不美人であれ、英雄であれ凡骨であれ、ひとしなみに人生とはいったいどれほどの値段かということであった。生きていることの楽しみはたしかに多い。しかしその裏側の苦しみもそれとほぼ同量多いであろう。その 楽 を差引き勘定すればいくら残るか、というのが、晋作のいう浮世の値段なのである。 (まあ、三銭か)  と、晋作はおもった。それ以上ではあるまいと、この若者は思うのである。

高杉晋作によると人生の価値は三銭。

「急速」  ということばがすきであった。よく手紙にもこのことばをつかったが、おそらく一生のうち、かれがもっとも多くつかった言葉の一つにちがいない。

高杉晋作は「急速」という言葉が好きだったらしい

英雄とはその個人的資質よりも、劇的状況下で劇的役割を演ずる者をいうのである。

司馬遼太郎の歴史観。

かれの生涯の事業は、かれ一個の心情のなかでは死というものを遂げること、それそのものが事業であったらしい。

吉田松陰の人生観。いかに死ぬか。気合い入っています

蜀漢 の 諸葛孔明 は「 出師 ノ表」によって後世を 哭かせ、 南宋 の 文天祥 は「正気ノ歌」によってひとびとの心を震わせつづけている。詩文というのはそれだけの役割があるのだ、

詩の価値。いまでいえば、ジョブズのスピーチ的なプレゼンの価値?

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