月別アーカイブ: 2010年2月

遠藤さん選挙スタッフを募集

先日、ご紹介した「遠藤ちひろ御大の多摩市長選挙、出馬」関連。
遠藤さんが選挙を手伝ってくれる方を募集しているそうです。平日夜だけでも、週末だけでも、自由な感じで、可能な範囲でOKとのこと。
学生さんでも、社会人でも問わないそうです。
私も過去には、お手伝いしたことも。色々学ぶことの多い経験です。あと遠藤さんは、後のアメリカ大統領くらいにはなる位の面白い方なので、それもおすすめです(実際、非常にユニークな御大です)。
もうあと1ヶ月、ラストスパート。東京最年少の市長選挙誕生へのスパートです。もはや現代の戦。熱き日々を過ごせること請け合い(体験談)。
ご興味ある方は、以下のお問い合わせか原田までご連絡頂ければ幸いです。
http://sitesrv.tank.jp/contcgi/form.html
よろしくお願いしますー。

メールの不達とツイートと

電子メールは不達の時がある。
たとえば、相手の迷惑メールに振り分けられている時や、相手が今は利用していないアドレスにメールを送った時、サーバのエラーなどだ。
そんな時、メールはどこにもたどり着かず、放浪の文となる。
そして、かなしいことには、自分にとっては、どのメールが不達か知るよしもないのだ。
仕事のメールなら、まだいい。返事がなければ「届いていますか?」や「電話」で対応することができる。けれども、プライベートのメールならば、そしてそれが時に「重たい」メールならば、「届いたか?」と確認することさえ憚られるだろう。
そして、送った方は、相手がメールを返していないという記憶を持ち、相手は読んでもいないのだから、知らないままそのメールは時空の狭間を彷徨うことになる。
なんて悲しい。
そんなことをふとtwitterのDMを見ながら思った。というのも、たとえば当方ではtwitterのDMスパムがけっこうな量になっており(1日30を超えるかも)、そもそもメールの通知も切っている。
だから、もしDMで誰かが連絡をくれても見逃すだろうなぁ、と思ったのだ。
そして、それは決してtwitterだけの話ではなく、メールや時に携帯メールでさえもそのようなことは起こるかもしれない。
見られることを前提としない文章はそれで存在意義があるが、宛先がついたメッセージが誰にも見られないとは、なんとももの悲しい。
たとえば作家のフランツカフカ。
彼は遺書に未完の原稿を燃やすことを記した。しかし、友人はそれらを燃やさず出版した。それらの中には、かの「城」や「アメリカ」「審判」なども含まれている。
もし友人が従っていたら、これらの物語は日の目を浴びることなく世界から消えていた。悲しい。
でも。
でも、たとい時にいくつかのメールが不達で埋もれてしまったとしても、それは何かしら人生の出会いと同じで「そういうもの」なんだろうなぁ、とも思う。
人生で、「たまたまの街角での出会い」があるように、逆に「本来起こるべきだった何か」が起こらなかったということもありうる。
twitterのタイムラインを見ていると、そのような岐路が色々紛れているなぁ、と。
ツイートの流れに「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」という川の流れを見たりして。
たららん。

匂いの復権

最近、匂いがなんだか力を増しているような気がする。
というか、単にアロマをよく目にするようななった、という程度なのだけれど。あるいは年齢に応じて、そういうのが目につくようになってきただけなのかもしれない。
中学生の頃は、インセンスだか何だかのアジアンテイストなお香が流行っていた気がする。ヤンチャな人たちは制服にその匂いをたきつけていた。バニラだか、ココナッツだかなんだか。
高校生になると色気づいた人たちが香水を使う。雄な方々もCKのなんだかとか、アクアなんだか、ウォーターなんだかなどさわやかさを求め、馬子にも衣装な形でそれなりに教室には幾分、匂いが漂っていた気がする。
いつからか、アロマのトレンドが増え、蝋燭を筆頭とし、オイルがでてきた。最近はスティック型のものもよく目にする。
今日、雨上がりに外に買い物に出かけた(クリップ)。
雨上がりの匂いが、昔の記憶を刺激して、なんだかおののいた。戸惑った。慌てた。自分がどこにいるか分からなくなるほどの濃い匂いだった。そして不思議なことにその匂いが何に結びついているかは明確でもなかった。ただ過去を意味するような匂いだった。
よく言われるように、匂いは記憶と密接に結びつく。それが妙技たるゆえんは、匂いは記憶として思い返しにくいからだ。
ニンニク程度の匂いだと香りを思い出すけれど、10年前に誰かがつけていた匂いはどこかに埋もれてしまう。
それでも、その匂いを再び嗅ぐとそれがトリガーとなり、同時に記憶がよみがえってくる。その「忘れてた度」と「思い出せる度」の差分が大きいゆえに匂いは情緒的な存在となる。
この所作はあらゆる小説や映画などでも利用されるほど、心理的インパクトは大きい。
時をかける少女ではラベンダーの香りが、辻仁成の「嫉妬の香り 」はタイトルにあるように匂いに纏わるエピソードで、あるいは村上春樹氏がウィスキーの本でその匂いに関して触れている。
個人的エピソードを1つくらいあげるならば、昔、留学時に知人が手紙をくれて、その手紙には香水が振られていた。粋なことをするものだ、と思った記憶がある。
そういう風に香りは人生を時に色もなく彩る存在となる。
とはいえ。
とはいえ、突然街中で過去を引っ張り出すのはかんべんしてよ、と思うです。

見えない敵と戦う少年

先日、信号待ちをしていた。
隣で小学生1、2年生とおぼしき少年がいた。
少年はジャンプを繰り返し、たまにパンチを繰り出していた。
何と闘っているのだ?と見ていたところ、どうやら車の影と闘っていたようだ。
車の影をジャンプで交わして、その影に攻撃していた。
見えない敵と戦う少年がいる、と思った。
この話は別段、少年に限らなかったりする。実は「見えない敵と戦う人」は少なからずいる。
たとえばジャーナリストの知人は「真実を暴く!」という信念で戦地にも向かう。そこにいるのは、局地的には「政府」「隣国」などがあるかもしれないけれど、大きなところでは「見えない敵」と闘っている。
政治や国営に携わる知人もそのような人が多いかもしれない。
ブログなどのWebメディアでも「おうおう、そんな喧嘩腰にならんでも」と思うほど牙をむきだし闘う人たちがいる。時には不正であったり、邪悪(evil)であったり、あるいは偏りであったりするけれど、いずれにせよ、長期的には何かしら「巨大な見えない敵」と闘っていたりする。
そんなことを考えながら交差点を渡って、道を折れた。少し進んだ。
その道では、男性と女性が2人歩いていた。男性はスタスタと道を渡った。その道は2車線の2方面で信号機のない場所だから、少しタイミングが難しい。
女性はそんな折「渡れないよ」と男性に声をかけて、男性は中央分離帯で止まっていた。
道を渡るということの是非はともかくとして、そこで「渡ろうとチャレンジ」するかどうかが1つの闘いでないかとふと思った。
いわば「何かへの挑戦」が1つの見えない敵との戦いになるのかもしれない、と思う。
以前、「人生は差分だ」と書いたことがあるのだけれど、もしかしたら、人生は「挑戦の総和」で決まるのかもしらんな、とふと思った。