月別アーカイブ: 2007年4月

ALONE TOGETHERを読んだ

なんか最近、書評多い疑惑。まぁいいか。いつも通り、本多さん。思ったけど、春樹に似ているところ御座いませんか。

ある男性が主人公。終電を逃して泊めてもらおうと彼女の家に行きました。すると彼女にこういわれます。

「今日はどうしたの?」
「人と会ってて終電がなくなっちゃったんだ」

「人?」
「女の子」
「可愛い子?」
「まぁまぁ、かな」
よしよしとうなずいて熊谷は笑った。

そして彼女はこう言います。

「可愛くもない女の子と話しこんで終電を逃すような間抜けはうちに泊めたくない。

ふーむ。

で、次。春樹さん的に言うならばダンスダンスのユキ的な女の子のセリフ。

知らないの?人生って綱渡りなのよ。

タイトロープダンシングって奴ですね。人生が綱渡りかどうかの検証はなかなか興味深いような気がする。まぁ、本人の価値観次第にはなるけれど。でも、綱渡りよりもロシアンルーレットのほうがいいなぁ。

「子供は三歳までであらかたの親孝行を済ませているという考え方もあるそうです。」
「つまり?」
「つまり、3つまでの可愛さで親は十分に喜びを得ている。だから、その後、どんなに子供に苦労させられても、その記憶を頼りに子供を愛する事ができる。

この概念かなりヒットした。すでに2回も他のところで使ってしまった。

~諸事情により略~

「することが変わるわけじゃないでしょ」とサクラは言った。

もっともな意見だったがそんなことを言ってしまえば大概の物語と音楽と絵画はその存在意義をなくす。

あれですよ。「もののあはれ」「をかし」は、もしかするとメタファーから来ているのではないか。あー、そうだ。どっかで引用しただけど、で、いま調べた。あった。「本の読み方 」で書かれていた以下の文。

比喩がきまっている、というのは、提出されたイメージが例えられるべき現実に重層的に対応しているときである。

うむ。つまり、やりまくりたいという言葉を使うならば、それに応じたストーリーが必要だな。それが出来るとそれが芸術になるのではないか。

空の青さに涙を流していられるほど大人は暇じゃないんだ。

そして、涙を流されて困るほど子供でもないんだ(嘘

で、以下はその女の子が下着をデパートに買いにいくということで、ついていかされた主人公の独白。

「正論ですね」と 僕の声はいった。
「けれど、僕の知る限り、人は正論では動きません。

そこが問題。では、それを課題とすると、正論を言い続けると人は動くのかどうか?1つは言葉への耐性が出来るので、もはや効用は隠遁するという説。もう1つは、蓄積された言葉がいつか臨界点を超えるという見方。個人的には後者を信じたいけど、これもケースバイだね。というか、毎回同じ正論を言ってちゃ人間の生理的に耐性が出来るのは間違いないから、手を変え品を変え言葉をかえなあかん。ちょうどこないだ読んだこの本に書いてあったことが以下。ヘミングウェイの話。

「老人と海」を2000回も書き直し、「武器よさらば」の結びを44種類書いたといわれる。少しづつ異なったアプローチを続けること。しかし、やり続けることである。

これだな。

才能というものが自分の力を信じきることできる能力だとするなら、彼女にはそれが賭けていたのだと思います。

深遠なるお言葉ですね。

(どうでもいいこと:自分メモ)目標設定の是非

なんだか、昔を振り返る機会が2連続であった。昨日。
1つは「学生時代の頃の話をしろ」というのだった。もう1つは、OB訪問として大学生3年4年のころの話をした。その延長として自分の過去も色々思い出された。
普段は、めくらめっぽう目くるめくメロリンQな日々で過去を思い出すことなんてまぁないのだけれど。ふと、色々と。
で、思ったのだが、やはり、過去と現在、あるいは未来ってのはそれなりにリニアなのかもしんない。いや、これは見方によっては、いくらでもケイオスになるし、リニアにもなるのだけれど、個人的な感覚としては。
やはり、大学までやってきたことと、大学時代にやったことと、そしてそれと社会人への方向性、そしてその後ってのは、やはり、それなりに「つじつまあわせ」が行われているもので。
とはいえ、それってば人間の本能で上手く「過去を捏造している」や「現在を思いこんでいる」ところもあるから、簡単には言えないけれど、大枠の部分で。
とはいえ、要素要素は、かなりアットランダムである。それこそ、ちょうど昨日読んだ本に書いてあったけれど「量子力学の世界においては物質は突然生まれるものであって、じょじょに誕生するものではない」とかが、なるほどなぁ、と腹落ちするような(ただし、ここでいう量子力学のソレが何を指しているのかしらない。あんまり検証する必要を感じなかった)。つまり、要素要素は、かなりの不確実性をはらんで起こっているのだけど、やっぱり総体で見ればまっとうに進んでいるというか。
いわば最近流行りの「みんなの意見は案外正しい」説に合致するような気もしないでもない。
まぁ、これは当たり前のことを言っているに過ぎない。自分に有る程度の方向性があれば、人生におこるあらゆる選択肢において、その方向性に合致した選択肢をとるわけである。そうすると、ミクロではわけわからんことになっていても、マクロでは直線が引かれている。
ただし問題は、方向性があるかないかである。これこそ、昨今、いくらでも巷で語られる「夢」や「目標」の話になってくるのかもしんない。そういえばこないだ読んだ本で「目標は実現できるもの。夢は実現できないもの。両方設定しておかなくてはならない」と誰かが言っていた。これも、考え方の1つとしては、ありだな、とか思ってみたり。
で、方向性がない場合は、前提が成り立たない。つまり、選択肢の解決方法はその場その場での重み付けが行われる。「イージーである」「金銭的リターンが大きい」「なんとなく」などなど。その結果、マクロの線は別の形を描くようになる。この場合は、目的への最短距離の線ではなく、もっと性格などの揺らぎが反映された線になる。
つまり、ここはある程度、三次元になるのかな。目標という平面でのベクトルはないので、線は点になり、いわばでこぼこしたグラフになる。しかし、別の側面で見れば、例えば性格を反映したグラフで見れば、それなりに年齢に応じた比例のグラフが出てくるようになる。もっともこの場合、縦軸に何をとるかは難しいところだけれど。まぁ、なんというか、そのあ、わかった。性格の面なんだから性格を縦軸にとれば良いのだ。そうすると、年齢に応じて自分の性格を強化付けされていく図が見て取れる。ただし、何かしらの目標を設定して加齢していく人は性格の面においてはランダムな動きを見せる。うむ。
で、これは性格は1例であり、他にも「縦軸を金銭」にしてもいいし、「自己満足」でもいいと思われる。とすると三次元に限らないな。つまり、その人専用のグラフが出来上がるということか。
じゃあ、実を言うと目標ってば単なるグラフの1つであって、別に他のグラフを描きたい人にとっては目標とかいらんじゃない?とか少し思ってみた。ただし、これはどこに視点を置くかで意味が全然変わってくるので、注釈すると、社会的、あるいは歴史的、あるいは日本的、あるいは、資本主義的に言えば、何かしらの目標ある人生のほうが相対的には良いと信じられている。でも、これも今、書きながら思ったけど嘘だな。良いの判断基準がわからないもの。そうすると、ああ、そうか。うむ。そうだ。「目標達成をしたいならば目標があったほうがいい」というテーゼだけが正しい気がする。
つまり、「人生を幸せに生きるならば、目標設定をしたほうがいい」というのは論証できないのでは。まぁ、帰納法でやれば可能かもしれないけれど。だって、さっきのメタファー使うならば、「幸せ」グラフを使って、常に自分がハッピーな選択肢を撮っていけばハッピーになるのでは?あ、嘘だ。これも一概にはそういえない、定義による。たとえば「50年後にハッピーになりたい」という前提をおくならば、「50年後にハッピー最大化」となる目標が設定されるわけで、そうすると、アドホックなハッピーの選択肢が、その50年後の効用を最大化するとは限らないわけだ。なるほど。
ああ、そう考えるとターゲティングは重要ということになるな。なぜならミクロでの選択肢の積み重ねは、常に最大のリターンを得るとは限らないから。そうすると、やはり戦略が必要になってきて(ここでの戦略の定義は、目標達成における選択肢の検討というくらいの意味でいいや)、そうすると、やはり目標がなければいけないのか。ふーむ。こまった。当たり前の結論になった。
んー、なんかないかな。ミクロの決定が常にマクロでの最大効用を産むというような価値観。んーんー。親孝行とかってどうだろう?「自分の人生は親孝行の最大化である」という前提で始めれば、20年後に親孝行最大化するよりも、日々の親孝行の方が親孝行最大化が出来る?いやー、これも論証不可能だな。だめだ。
話を変えよう。
てかねむくなってきたのでまた。

クリエイティブ・クラスの世紀を一気に読んでみた

微妙に話題になっている一冊。

賛否両論あろうが、まぁ、見方の1つと捉えれば有益なのではないだろうか。データの計測方法に疑問は残るとはいえ、あくまでも概念の1つとしては。ただ、クリエイティブクラス、という造語(?)が適しているかは疑問が残る。日本でいう「クリエイティブ」とは少し概念が違うので。思わずネグリの「帝国」論を彷彿させる。ミスリーディングの恐れ。

ここで言うクリエイティブは、ホワイトカラーの一部のクラスターを指す。具体的に定義はイマイチされていない。しかも日本のクリエイティブクラスの例がトヨタだけという無謀試み。これも「帝国」論を彷彿させる。定義が曖昧。いや曖昧じゃないのかもしれないけど、なんか説明しにくい。

とはいえ、一般的なクリエイティブ、つまり「芸大系」とでも言えばいいだろうか。「右脳系」とでも言えばいいだろか、というトレンドも日本では起こっていて、それとシンクロする。ただし、ここでのクリエイティブはこのクリエイティブとは異なる。まぁ、しかし、延長上線には重なる部分もあるのかも。

まぁ、ともあれいつもどおり引用でも。ほぼ自分メモですがご容赦。

アメリカのトップ500社のうち少なくとも50社のCEOはアメリカ以外で生まれている。

ほぅ、というデータ。でもアメリカの人口でアメリカ以外で生まれた人が1割以上いたら笑う。これぞ統計のトリック。まぁ、違うけど。

90年代にシリコンバレーで起業された会社のうち移民が企業したものは30パーセントに達し・・・

ふむ。

「グローバルな才能の磁石」=ロンドン、アムス、トロント、バンクーバー、シドニー、メルボルン

カナダ頑張ってるね。

「グローバル・オースチン」=バンガロール、テルアビブ、シンガポール、台北、北京、上海

テルアビブか。確か行った。嘘かな、結局いかんかったんだっけなぁ。@イスラエル

今後増える職業
・専門的思考
 クリエイティビティや専門的な問題解決力が必要な職業。新しい製品のデザイン、疾病診断、創作料理。

・複雑なコミュニケーション
 デザインやイノベーションといった分野、F2Fで相手にモチベーションを与え管理するといった分野の所得の高い職業。

凄いざっくりしすぎて、あんまりピンとこない。これをもうちょっと分解してくれると面白いデータになりそうなんだけど、多分、作者も思いつきで書いているんだろうなぁ、と邪推。

私たちは潜在的なクリエイティブ資本をせいぜい10%程度しか引き出せていないと見積もっている。

この憶測が入っているのが謎。

移民は概してアメリカ生まれの市民を補完するスキルを持っており「たとえ同じ教育レベルでも問題の解決方法や発想、適応の仕方がアメリカ人と移民労働者では違うので、互恵的な学習が起こりやすい」

ふむ。移民大事。

立地優位性 ロジャーマーチン
 企業が立地による強みを認識し、その強みを発揮する時の方法論に焦点を当てた。

これって社会学、都市学とかで前から言われてなかったっけ?

クリエイティブな人はお金持になりたいがために一生懸命になるのではなく単純にそう理解するのははっきり言って正しくない。クリエイティブな人々をその気にさせるには金銭よりも内発的な報酬のほうがはるかに大事である。これはこの分野における大多数の研究によっても支持されている。

これも前回書いた「すべきだからするのではなく、やりたいからやっているんだ論」に似ている。

90年代半ばまでに科学論文の世界一の生産地域はアメリカを越えてEUが担うようになった。西欧の研究者は22万9000件の論文を書き、アメリカは20万1000件、日本は5万7400件、日本以外のアジア全体で4万2700件であった。

うーむ、どう見るべきか。

グローバルクリエイティビティインデックスによると日本は2位。1位がスウェーデン、3位がフィンランド、4位がアメリカ、5位がスイス。

北欧凄い。日本は一部データがなかったはず。本書参考。

個人的メモ。P.204 ブランド国家論の参照

で、これに続いて、同じく「クリエイティブクラス」の特集を組んでいたハーバードビジネスレビューを読んでみた。ざっと知りたいだけなら、この雑誌で良いのかもしれない。

Harvard Business Review (ハーバード・ビジネス・レビュー) 2007年 05月号 [雑誌]

国連の人間開発指数を見ると日本、アメリカ、スウェーデン、ノルウェー、オーストラリア、カナダなどが上位に並んでいます。177カ国の中で中国とインドは81位と126位です。それだけ問題や貧困を抱えているということです。彼らが本質的に競争相手になるにはまだまだ時間がかかります。

これはブランド国家論用のデータ。今日、1年ぶりくらいに「国を作る」夢の理論的裏づけ(そこまで大したものじゃないけど)を話して、色々思い出した。やっぱり、こういう空中戦も好きだなぁ。

Q.日本で自己表現の高まりは見られるでしょうか?

若者の文化やゲーム産業の隆盛を見る限り、かなり自己表現が行われているように思います。

ちょとちょっと、もうちょっと真面目に分析してよ!ここからは「ゲーム産業を見てそう思ったよ」としか読み取れないよ!少なくとも、若者の文化に突っ込めよ記者!モバイルやブログ文化かなぁ。

藤本隆宏氏が指摘しているように、日本はモジュール生産のような分業型事業よりも、「すり合わせ(インテグラル)型」の事業に強く、これが国際競争力の基盤になっていること。

ほう?これの概略はたしかはしょられていた気がする。あ、これって、単に加工貿易のこと?違うよね。マッシュアップ型事業ってことかな。ちょと気になる。

日本版LLPの特徴は3つある。「有限責任」「内部自治原則」「構成員課税」

最近、LLPが微妙に気になるお年頃。

このようなeランスエコノミーはとっぴな仮説どころかすでにさまざまな形で現実化しており「リナックス」の開発はけっして特殊な例ではなく、インターネット事態の発展と共に一般化していくだろう。バーチャルカンパニーの登場、アウトソーシングや在宅勤務の増加、フリーランスや臨時労働者の急増も顕著であり、また大組織の内部における臨時プロジェクトチームの重要性の高まり、社内起業家の増加、事業ユニットの独立なども1つの現われなどと言えるだろう。

データが欲しいところ。まぁ肌感覚ではわかるけど。

このような集団はコーホートと呼ばれる。顧客のエイジングに合わせてブランドを変えながら絶えずコーホートのニーズに合致させていく。我々はこのアプローチを読者と一緒に成長していく魔法使いの少年になぞらえて「ハリーポッター型マーケティング」となずけた。

だそうです。

結論としては、話のネタにはいいかもね。でも、この論文だけで、政府が動くには、まだデータが良い気がする。ゲイが多いのと都市の発展性ねえ・・・。カナリアインデックスみたい・・・(鉱山のカナリア数で云々ってやつ)。

ほな

ビジョナリーピープルを一気に読んでみた

ビジョナリー・ピープル
ジェリー・ポラス スチュワート・エメリー マーク・トンプソン 宮本 喜一
英治出版 (2007/04/07)
売り上げランキング: 21

久々にノンフィクションで一気読みしてしまった。電車の中で読んでいたのだが、駅を出たところにあるカフェにそのまま突入して一気に読み終えた。予定が押しているにも関わらず閉店直前まで一気に。

この本は「ビジョナリーカンパニー」の筆者たちが書いた続編。このタイトルは訳者がつけたもので、原題は「Success built to last」。まぁ、ビジョナリープープルの方がキャッチーでよかろう。わかりやすいし。

個人的にこういう本から学ぶのは多くのファクトである。一個人の経営者の哲学や成功の秘訣とかはどうでも良くて、こういう無数の「実際にあった話」が好きなのだ。こういうファクトをつむぎ合わせて物語を作っているのは王道のはずなのに日本のものではあんまり見ないような気がするのは気のせいでしょうか。海外の本ではかなり多い。特にマーケティング関連の本では、そういう書き方をしないと売れないのではないか。トムピーターズのはファクトは少ないけど。逆に日本だと、1つの事例とかだけをベースにしている気がする。勘違い(あるいは浅学による偏見)だったらすいません。あ、政治学とか哲学でも散見できる「基本的な書き方であり王道」。書くほうにしては死ぬほど大変だけど。

まぁいいや。で、死ぬまでに3回は必ず読み返すであろうと思う本。あるいは全体を通読するのではなく、ぱらぱらと読むだろうと思われる。そんな気がする。

まぁ骨子としては、特に新しいことを言っていない気がする。「ビジョナリーピープル(いわゆる永続する成功している人々:この場合の成功は本書の定義参照)」になるには、意義、スタイル、思考が必要だってな話で。

あ、そして、成功の定義が「意義」というようなものにフォーカスされている。そのようになんとなくか解かっているけど、改めて、こうしてデファインされると、何かと他の文章でも使いやすそう。まぁ、学術書かどうかといえば、僕は分からない。ただ、最後の分析手法を見ると、コンジェクションなんちゃら(失念)と呼ばれるちゃんとした解析手法を使っていたのは、さすがだなぁ、と僭越ながら思った。やっぱり、ファクトを並び立てるだけじゃいかんのだよなぁ、と。当たり前だけど、そうなりがち。あくまでも、定量的なものをなんとかひねくりだして、それを「有意の分析手法」で分析して、そして、その肉付けに定性的なものを入れ込む。それが奇麗。

今回は、定性的なものにこだわったようで(もちろん事前にはアンケートなどもしている)、全体で10年もかかったそうである。もう筆者たちこそが、まさにビジョナリーピープル。

で、まぁ、なぜ素晴しいかというと、言っている内容よりも、やっぱりテンションがあがる点が良いかと思われる。なんだかんだ言って、わたくしめ、青臭い人間なので、こういう「当たり前だけど、偉人に言われるとなんとなく納得してしまう」という言葉に揺り動かされることがあって。名言とかね。そういう意味で、これは良い。ただし、逆に言うと、そういうのが嫌いな人にはとことんNGな本だろうと思う。

so what?になりかねない。もっとも、この本はちゃんと示唆があるのだけれど、でも、うーん。

じゃあ、引用一気にいきまっせ。とはいえ、ここに紹介する引用は、全体でメモった引用の1/3から1/4程度ですが。

今日におけるリーダーシップの仕事は、ただの金儲けではない。それは意義を考え出す仕事だ。

いろいろなところで使えそうな名言。真偽はともかくとして。しかし、実際、ビジョナリーカンパニーにもあるけど「時計を作る人」は、まさしく、意義を作り出しているといっても過言ではない気がするなぁ。

この世界において正しいことを賛美するのは、このうえなくダサくてカッコ悪い行為なのだ。我々は安全を気にする両親、親戚、高等教育機関、そして夜のテレビニュース番組によって、楽観的な人たちを無視したりあざけったりするよう、実に巧妙に教育されている。

おー!そうだよ、そう。よく言ってくれた、と痛感した一文。たとえば「世界平和」をうたったり、「勉強しなくちゃいけない」と叫んだり、あるいは「環境問題を考えよう」「いじめはだめだ」とかいう「当たり前のこと」を言うのは、現代においては、あまりにも陳腐化してしまっている。

なぜか手垢にまみれてしまったその言葉たちは、虚ろに空気の中に霧散してしまう。そして偽善のレッテルを貼られる。でも、言わなくちゃいけないんだよなぁ、と改めて思った次第。でも、ここでは「テレビ」が槍玉に挙げられているのだが、まぁしょうがないとしても「マスメディア」のチカラが大きいんだろうなぁ。

テレビで、最初にこのような「当たり前のこと」を流す。それを何度も流すから、一般人はその言葉を聞いても「知ってるよ、テレビで見た」という愕然とする態度を取ってしまうことになるのではないか。マスメディアは「難しいことを分かりやすく流すプロ」だから、テレビで見たことを人間は「そのままに」受け取ってしまいがちである。たとえば、環境問題に関してテレビはずっと問題提起をしているとする。それを「なんとなく」見ている人びとは「ああ、環境問題って大切ね」とだけ感じる。それでわかったつもりに「なりがち」。しかし、実際に何が原因で、どれだけの被害があって、そして対策としては何が出来るのかを自分の頭で考えるプロセスがないと「最低限のわかった」にはならないのではないか、とか思う。もっともこの本自体にも言えることだけど。つまり読み終えるのではなく、「and them」どうする?みたいな。

リーダーは楽観的でなければならない。その理由は簡単、もしそうでなければ他に楽観的になる者は誰一人いないからだ。

なかなか素敵な名言。

悲観主義者はどんなチャンスにもそこに内在している難題を見つけるものだ。楽観主義者はどんな難題にもそこに内在しているチャンスを見つけるものだ。-リンカーン

これは、原田の座右の銘である「悲観主義は感情であり、楽観主義は意志」という名言と繋がるところがありました。

目の前の危険が大きくなったとき、必要に応じて悲観的な姿勢をとるという選択をしていた、という事実だ。

これ、改めて、ちゃんと文にされて嬉しかった。つまり、「死」や「取り返しの付かない失敗」が、リスクに織り込まれるときは、いくらポジティブな人でも、それをヘッジするという「悲観主義」な立場を取るということである。

本文で記されているのは、ボーイングのテスト飛行の話だったかな。それは失敗したら人は死ぬ。だから社長は「まぁ、大丈夫だろ!いけ!」と楽観主義になることは絶対できない。

アフリカのことわざにあるように、私は何かをことさら大切にしない。そして排斥もしない。なぜなら、もし片方を大切にするのなら、もう片方も大切にしなければならないからだ。しかも、取り組むべき仕事は相変わらず残されたままだ。

これの意味は、賞賛も、そして批判も同じだけの価値として認めるというスタンス。その効用はなんだったっけな?忘れちゃった。本文を読んでください。ここのスタンスだけが強烈にインパクトがあった。こないだも書いた「選んだ選択肢と同様に選ばなかった選択肢にも哀悼するべきだ」ということに繋がるところがあったので。

ココは野生動物の能力に対する世界観を転換させてしまった。

本書の中で一番震えた一文はここだった。ココは、人間と手話が出来るゴリラ。そうなんだよ。いちゴリラがコペルニクスになった瞬間なのだ。

われわれは子供たちに頼れるものを与えていない、人はコンピューターやゲーム、デザイナーズブランドの洋服、かわいい自分の用紙、自分の格好のよさに頼っていられるわけではない。人が頼りにできるのはその人自身だけなのだ。マーバ・コリンズ

そうなんだよねー。なのに、人は物に固執する。あれはなんなんだろう。所有欲というのはわかるけど、それは「生存欲」の下の概念のはず。ならば「自分の確固たる価値観」の前には、物欲なんて霧散してしかるべきだと思うのに。あ、わかった。食欲は上位のレイヤーですよね。で、その食欲の食というのは古来は貯蓄しておくべき穀物だったわけで。特に農耕民族である日本人は。だから、その食欲は物欲と密接に関わっていた。だからこそ、その名残が、今も強い。ブランド品を買い漁るのも農耕民族ゆえだからではないか。おお、これ新しい切り口。どうよ。

犠牲者を演じているかぎり、世の中に対して建設的な影響をいつまでも与えられる可能性はほとんどない。

これもなかなかぐっときた一文。当たり前だけど、気付いていなかった。そうなんだよ。

「同情しろ」というスタンスを見せていても、誰一人それに関して感銘を受けることはない。「かわいそう」と思うことはあっても。感銘というのは何かというと世の中を少しでも前進させる振るえのことである。つまり、「○○訴訟」とか「○○問題」とかで裁判を争っている人を見て、違和感を覚えていたのは、ここに原因があったんだ、と納得した。もちろん、彼らは可愛そうだと思うし、それなりの補償をしてあげるべきなんだろう(立憲君主制の日本においては、法律をどうしても上位概念においておかないと、モラールの概念が崩壊するから)。ただ、それとは別に、その訴訟をすることは、法律家に任せて、犠牲者ぶるのは、他人に任せて、彼らなりの何か云々。この辺、下手なこというと怖いので言わない。

月着陸の宇宙開発競争を例にしてみよう。しばしば忘れられてしまう事実に「1960年代のうちに人間を月に送り込み、無事に帰還させる」というこのBAHGが発表されたとき、アメリカは実際にこの計画を成功させられる根拠がまったくなかった、ということがある。

原田の「国つくる」ユメは根拠ないとは言わないけれど。

アンディ・グローブの人生はセレンディップの王子の逸話が教えている意義をそのまま反映している。幸運は覚悟を決めた者にほほえみかけるのだ。

覚悟は人間を飛躍させる、という前に紹介したキルケゴールの名文と通ずるところがある。

今すぐ自分にぴったりの職業が見つからなくてもOKだ。けれども見つけようという努力は常に続けなければ鳴らない。あきらめは禁物だ。ぴったりの職業が見つかったらあらゆるものが変わるはずだ。

けんすうが前に書いてたところだな。↓

最近、プログラマーの友達と話していても思ったんですが、もうやりたいことをやるっていうのは、単に「やる」んじゃなくて、やらなくてはもういてもたってもいられないことだと思うのですよ。「やりたいことってなんだろう」とか「やりたいことを見つけます」みたいなことを言う人がよくいるんですが、そういうレベルじゃないというか。

オーケストラの演奏者は職業の満足度からすると、刑務所の看守の下

へー、と思った一文。こういう小さなファクトが小説を書く時に生きる。

大切なこと、それは意義だ。意義はあらゆるものの原動力になっている。ビジョナリーな人は自分の意識の標準を自分の生きがいにあわせ、その生きがいについて多くのことを把握している。彼らは自分の生きがいについての、つまりさまざまな顔を持つ情熱についての専門家だ。

なかなか名文。情熱に関しての専門家。いいね。ブルーハーツみたい(謎。

たった1度の挫折によって自分を見失ったり拘泥することはない。スケープゴートを探すこともなければ思うようにことが運ばないときに非難がましいことを口にすることもない。それどころか成功を収めている人たちは効果的な仕事をして自分の追い求めている成果を達成することを第一に考えるのだ。

so, it’s our turn, shall we?

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この本が好きな人は、以下の本もおすすめ(by 原田)

青臭い感じはありますが、でもやっぱり、この泥臭さが好きだなぁ。

アップル宣言―クレイジーな人たちへ

CROSSROAD GRADE UP version

アウトサイダー

二十歳のころ

またいつか会う日までという言葉の。

友人の話。男。

仲の良い女性がいて。いわば恋人同然で。かれこれ長くて。で、「なんでつきあわへんの?」と聞いたらば。

別れるのが嫌だから。

 と言った。

彼にとって付き合うということは、別れのエンゲージメントなわけである。そういう考え方もある、と思った。

確かに故人が言ったように「出会いがわかれの始まり」だかなんだかいう名言も会って。あるいはある偉人は「さよならだけが人生さ」と言った。

そういう見方もある。

ただ、基本的には、人間の人脈ってのはある程度の不可逆性を持つのではないかと思った。たとえば人生で「はじめまして」と「またいつか」という言葉、どちらの方が多く言っているかを考えれば、前者のほうが圧倒的に多い。

それは1つは「いちいち、別れの挨拶はしない」という人間の心理もあるだろう(恋人同士の関係でない場合の話)。たとえば、それこそ世界では一期一会の出会いも数多くて。クラブだの、合コンだの、パーティだので知り合う人と挨拶や名刺交換、連絡先を交換しても、その人たちと再会する可能性は、船場を歩いていて知り合いと合う確率よりも低い。このメタファーの意味は「会う人はむちゃくちゃ再会するだろうけど(船場に住んでいる人)、そうでない人は、そうでないのだ(船場に住んでいない人)」。ということである。

ということ、知らない間に、我々は無数の「また次の世で会えたらいいね」を繰り返していることになる。もっとも、これはドラマチックに解釈しているだけで、実際のところは「1度会いました。」みたいな。よくわからんけど、まぁそういうことだ。

確かM.Harukiはこう言った。

僕は眼を閉じ、耳を澄ませ、地球の引力を唯一つの絆として天空を通過し続けているスプートニクの末裔たちのことを思った。

彼等は孤独な金属の固まりとして、さえぎるものもない宇宙の暗黒のなかでふと巡り会い、すれ違い、そして永遠に別れていくのだ。交わす言葉もなく、結ぶ約束もなく。

そういうことである。

それに感傷的な情緒の入り込む隙間は原則としてない。なぜなら単なる確率の問題だからである。

「君と逢えたのは奇跡だよ」という手垢にまみれた言葉がある。

それは真でもあるが偽でもある。つまり、その人にとって、その人に会えたことは奇跡だと認識するかもしれないけれど、確率としては、その人がその人でなかったとしても別の誰かには会うだろうし、その人が、今の人と比べて奇跡的であるかないかは相対的に比べることができないので、それは反証できない。ゆえに、奇跡と考えたところで害はないけれど、確率から考えれば、非常に意味をなさない言葉である。

つまり、その論法を使うならば、あなたにとって出会う人が全て奇跡になるわけだし、逆に考えれば、会わなかったことも奇跡たりえるわけである。もっとも、こんなのの意味づけは主観なわけで、いつかも書いたけど、単なるラベリングの問題である。

で、何が言いたいかというと、「こんな人に会えて、なんて世界は奇跡だ」と思うのは勝手だし、それは誰も否定できないけれど、では、その分、会えなかった人の代償は誰がとるのか。かわいそうじゃないか。その確率(つまり起こらなかった事象)に目をつぶるのはフェアじゃない。フェアじゃないけれど処世術であり、そんな確率を考えていたら日がくれてしまう。

そこで、今おもいついたのだが、つい先日書いた「選択肢」の問題も同じことだと気付いた。つまり何かを選択するには、選択肢を全て列挙しないといけないけれど、全部の選択肢はそのそも検討することができない。RPGのように箇条書きになっているわけではないのである。すると、上記を考えると結局、程度の問題か、あるいは生き方の問題になったi don give a shitとなるわけである。南無

でも、また飛躍するけど、「精子って何億もいて、その中で1つ(場合によってはmore)だけが受精するなんて奇跡ね」というこれまた色々なものにまみれたフレーズがある。

それは命題としては、やはりナンセンスで、どれか1つが受精することは確率論としてはなんら奇跡ではない。そして、その1つがたまたま自分だと考えることで、1/億と考えるのは自由だけど、これは「受精した人しか考えられない」ということを考えると、考えられる人=奇跡だと思える人全体、となり、すわなち「部分」=「全体」というベン図の崩壊に繋がるわけである。南無

で、いわば、昔どっかで読んだクイズ。

「あるカジノのルーレットで予想屋がいた。その人のいう事を聞くと10回ともあたった。その予想屋はどのような手口を使ったのか?」

というような話。答えとしては、「2の10乗分の人に声をかけた」が正解。有名な話だけど。宝くじバージョンとかもあるね。実際にあった話らしいけど。

つまり、2人に声をかけるとする。1人に「次、奇数くるよ」、もう1人に「次、偶数くるよ」といっておく。そうすると、100%、どちらかは正解するわけである(0、00の場合は考慮せず)。では4人に声をかけて同じ方法を使うと1人においては「2回ともヒット」するわけである。で2の10乗、1024人に声をかければ1人は「10回連続成功」となるわけであります。

つまり、さっきの問題と似た話。

あ、これと似た話しで「悪いことは立て続けに起こる」というジンクスも全部確率論である。これも以前書いた気がするなぁ。

つまり、悪いことってのは1日に1回くらい起こっている。で、それは起きているじかn18時間のうち1時間起こるとする。そうすると、18日に1回は1時間の中で2回悪いことが続くわけである。人間としては毎日「単発で起こっている悪いこと」はすぐ忘れる。でも、18日中1回起こったことに関しては「まれな体験だから強く印象に残る」。たとえば、さらに18の2乗、324日に1日は悪いことが3回続くわけであるよ。で、これも強く印象に残る。云々。

これってなんだっけ、経済の新しい学問、ここ10年くらいの。ノーベル賞を5年くらい前にとった奴。度忘れしたけど、その辺では当たり前の話だけど。TIMEの表紙に野球選手が出ると、その後成績が悪くなるジンクスとか。

で、何がいいたいかというと、でも、やっぱり別れって寂しいよね、ということである(違 。

そうだ。なんでこんなことを書いたかというと、先日(敢えて日にちをぼやかしたのは他意はない)、ある六本木の飯屋で飯を食べていると、偶然、ナオト君に出会ったからである。

で、個人的には、外で人と再会することはあまりないので、「すげー偶然」とかテンションあがったわけである。で、確率から言えば、上記のように不思議ではないけれど、人間は確率だけで生きるにあらず。物事に色を付けたがる。

これは何かの予兆。すごい偶然。と、テンションがあがる。実際、「たまたま偶然再会」ってのは、なんか凄いテンションあげるよ。どうでもいいけど。

あ、さらに思い出した。ユーキとの再会。これはどこぞでも書いたけど。彼と初めて会ったのは、ジンバブエ。同じ部屋になった学生。で、聞いたら同じ大学。同じ学年。彼も休学中。で、意気投合でビリヤード。

そして、偶然再会したのがハンガリー。彼がマラリアで退院した後。またまた同じ宿になった。で、その後、ニースのマクドナルドでも偶然再会。あと、パリとかアムスとかでも会ったけれど。まぁ、あれはなかなか凄い再会ではないかと思うけど、旅人はよく再会する。なぜなら宿が似てくるから。ルートも似るから。まぁ、それはそれでいいか。

しかし、あれだ。イタリアのローマで友人と待ち合わせしたときは往生した。僕は東アフリカをざくざく縦断していて、その人はブラジルのアマゾンにいた。で、待ち合わせはおおよその日程とローマの宿だけ決めていた。で、いざローマにつくと、その人がアマゾンで赤痢になって、先にローマについていた。で、日程があまったのでその人はチュニジアに突発的に旅立った。で、僕は物価の高いローマにいるのも面倒だったので、チュニジアに移動した。しかも、船の関係で、いちいちシチリアまで下りて。するとフェリーがまだでないとかいうから、シチリアで陥没で、チュニスについたころ、その人はチュニスから、わけのわからないスターウォーズの山を見に行った。で、チュニジアの首都のチュニスで待ち合わせた宿も空いていない。で、そのころ僕は、その人が山にいってるなんてしらないから、すれ違いになったんだ、と思って、急遽、船に戻る。すると、その船は、イタリアじゃなくて、マルタ行き。いきなりマルタに上陸。で、いろいろトラブったんだけど略。で、しかも、間違えて、ヴェニスまで行ってしまう。そして、ベニスからローマに戻ってメールを見ると、まだチュニジアとか。あほか、とで、しょうがないのでナポリで時間つぶしていると・・・云々。あれは大変だった。

まぁいいや。

で、まぁ、そうなんだよ。

だから、何が言いたいかというと、1度会った人、あるいは意気投合できた人ってのはかけがえのないもので、それは大切にしたいですよ、と僕もそう思っているわけで。

で、別れ言葉の「また」とか「Hasta luego」とか、よく考えたら、ものすごくトートロジーで。

つまり「また(会う日まで)」とか「Hasta Luego(また会うまで:直訳)」とかって、当たり前といえば当たり前で。なぜなら会うまでは、会わないのだから。つまり、死ぬまで生きる、という言葉と同じで。

もっとも、この反復が意味を産むのも事実である。つまり小林秀雄の「その春は、まさに春だった」という名文と同じです(秀雄さんだったっけ?)。

ということで、Adios hasta luego。

学生激烈募集の続報

以下、特定の人だけにあてた業務連絡です。

先日、学生さんを熱烈に募集させていただきました。

【お知らせ】学生さんとかを激烈募集中の巻

で、世界全国津々浦々(海外からも3名!)、20名弱の方からご連絡いただき、本当にありがとうございました!感動して失神していました。いや、ほんまにありがとうございました。舌筆に尽くしがたく感謝感激雨あられで御座いまして。

しかしながら原田の未熟っぷりでまだちゃんと着手できていません。時代が時代なら割腹ものです。あるいは須磨流しです。もうお恥ずかしい限りです。

しかしちゃんと追ってご連絡させて頂きますので、もうしばしのご寛容どうぞよろしくお願い申し上げます。しかし色々おもしろそうなことができそうですよ。どうぞご期待くださいませ。

改めて続報、ご報告でした。

メールで連絡しようと思いましたが、ブログで募集をかけた件だったので、改めてブログでもご連絡。

ちっひーの動画

先日、遠藤さんに関する市議会議員出馬の話をしました。

先週、手伝いにいってきたのですが、なかなかやはり「戦」はテンションあがりますね。ほんのちょっとしか手伝えませんでしたが。個人的にはやはりリメンバーASASHINAですよ。

そのちっひーが動画を作ったそうです。著作権はクリアしているという一文もちゃんとありました。

カントリーロード名曲やねえ。感動した。

30歳という若さで世の中を変えようと政治の世界に出陣される御大の勇士です。国つくると公言している自分としてもぐっとくるところがあるので、ご興味あるかたはいただけると幸い。特に多摩地区の方。

心より応援申し上げます。

あと動画で思い出したよ。2002年とかにめでぃすたで作った謎の映像を。おいておきますね。

Webキャンペーンのしかけ方。

これまた2、3週間ほど前には拝読していたのに遅くなってしまった。献本いただいたので書評コーナー。

タイトルの通り、広告の最前線で戦っておられる方々による一冊。しかも、「Web広告のしかけ方」ではなく「Webキャンペーン」というのがミソのような気がするのですがいかがでしょうか。個人的に、このようなときに「広告」なのか「マーケ」なのか「PR」なのか「クチコミ」なのか「プロモーション」なのかとかいろいろその違いを悩むときがあるのですが、キャンペーンなわけです。

で、豊富な事例がぎっしり紹介されています。実際に成功した事例が紹介されているので腹落ちしやすいです。たとえば、ブロガーを招待したスカイラインイベントやso-netのヒロシキャンペーン、NIKE+のWebキャンペーンなどなどなど。Webを利用している人なら、少しでも聞いたことのある話に触れられているのではないでしょうか。

で、個人的に気になった点をいつもどおり引用。

アメリカのARDはEngagementをつぎのように定義している。「消費者を取り巻くさまざまなコンテクストを活用して、消費顧客をブランドの世界へ巻き込むこと。それは消費者を巻き込む参加型コンテンツを通じてパーソナルでディープなブランド体験を消費者に提供してもらい、その力を借りてブランド力を高めていくことである。」

このエンゲージメントの概念は、まぁ前からちらっとは使われていたとはいえ、やはり新しい概念なのでは?広告効果を評価sる新しい基準。ポイントは「消費顧客を巻き込むこと」なんでしょうねえ。個人的には。つまり、コーポレートブランドとかだとさらに効果があるのではないかと思ったり(短いものよりは長いもののほうがいいのでは?)。ROIだすにはかなりのロングタームになってくるのかもしれないけれど。

あと渡辺さんが紹介されていたWebキャンペーンを成功に導くための4つの方法「DRIP]ですが(「Deep」「Interactive」「Participation」「Repeat」の頭文字)、なんだか恋愛に似てるなぁと思いました。「一歩踏み込んだ関係」「対話から成り立つ関係」「参加して実感」「誰かに紹介したくなること」。恋愛だとこの4つめの紹介したくなるかがとくに重要なのでは(良い意味でも悪い意味でも)とか思ったり。

ともあれ、Webの業界で広報やPRや広告やマーケあたりを触っている人には必読の一冊ではないでしょうか!