月別アーカイブ: 2009年6月

アットアグラ

その町を人はアグラ、と呼んだ。日本語では胡座を連想してしまうかもしれないけれど、そのメタファーを使うなら、さしずめそのアグラは夏がチャンチャンコを着てちゃんぽんを食べているような力士がアグラをかいているような町だった。つまりはひたすら暑かった。でもこれは今思い返せば暑かったのであって、当時はあまり暑くなかったのかもしれない。私はすぐ後からの知識や会話で記憶を上書きしてしまう。
そのホテルは、アグラでいうならば中級くらいだろうか。他のホテルと同様に1日10時間以上は断水していたけれど、それでも、3階の窓から差し込む風はなかなか気持ち良かったように思う。部屋には大きなベッドが真ん中に1つあり、その上には私の洗濯物を干す洗濯紐がぶら下がり、そして壁にはよくわからない穴が空いていた。穴から何が出てきたっておかしくないけれど結局出たのはため息だけだった。
確か衣類を入れる心ばかりのクローゼットがあって、そして重鎮な机が一つだけあった。窓が大きいのだけが取り柄だった。映らないテレビも、どことなく哀愁があり嫌いじゃなかった。
夕方から町を散歩した。散歩しながら、道ばたで売られているトウモロコシを買った。30円だか50円だかの焼かれたトウモロコシは、他の町よりも少しそっけなく、少し甘かった。トウモロコシが一番うまいのはジンバブエだ。これは憶えておくといつか役に立つこともあるかもしれない。しかも物価も一番安いのだ。そりゃ8本買ってきてルームメイトにあげても誰も批難しないだろうと思う。でも、実際は批難されたのだけれど。「こんなもん晩飯になるか!」と。
たまにネットカフェにいった。Windows95だった記憶がある。ブラウザは当然IEで、ダイアルアップ接続だった。20分くらいに1回、回線がきれたけれど、そういう時はドアの外からアグラの町を眺めていた。みな何となく歩いていた。何となくあるく人は東京ではあまり見ないな、と思う。何かしらの指向性と節度を保った歩き方は近代化に必要だったものなんだろう。当時はHotmailを開いて、旅行人という旅行者用のBBSを眺めて。いくつかメールを書いて、いくつかCGIの掲示板スクリプトに日記を書いて。
中華料理をよく食べていた。近かったし、夜、ちゃんとテーブルで食事をするにはあまりにも他の選択肢がなかったのだ。もう少し町の方にいけば良かったのだろうけど、そこはネパールでいうマウンテンビューのようなところで(なんとも説明にならない例えだ)、つまりは控えめに言うところの「落ち着いた地域」、率直に言うところの「何もない場所」だったのだ。でも、そんな場所のホテルを撮ってしまうほど、身体はくたびれていたし、そもそも町でホテルをとる利点がレストラン以外に思いつかなかったのだ。

【お知らせ】80年代経営者交流会です

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マルチポスト失礼。
標題の通り、今度、80年代生まれの方の経営者交流会をすることになりました。もしご興味のある方いらっしゃれば、ご参加をご検討頂ければ幸いです。
以下、詳細となります。
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■日時
7月24日(金)20:00~
■場所
霞ヶ関にあるレストラン予定。詳細は追ってご連絡
■参加費
8089円くらいを想定
(1980年~1989年にひっかけてます。
■条件
1980年~1989年生まれの経営者(CEO/代表取締役)限定
※厳密に
■主旨
お互いに情報交換をしたり、ビジネスとしてのつながりをもったり、モチベーションを高めあったり、など同世代ならではの密度の高いコミュニケーションを予定しています。
■参加方法(下記のどちらか)
1.以下のサイトよりご参加頂く
(会員登録でお手数をおかけしてしまいますが、参加後、他にどのような参加者がいるかご覧頂くことができ交流の促進をして頂けます:現在メール連絡含め30~40名前後)
» http://eventforce.jp/event/53
2.メールにてご返信
80to8q@gmail.comに「参加します」の旨を返信して頂ければ幸いです。

詳細を見る

■幹事(50音)
石原明彦(ワイアード株式会社:http://y-ard.jp/
原田和英(アルカーナ株式会社:http://arcarna.com/
古川健介(株式会社ロケットスタート:http://rocketstart.jp/
以下もご参考
失礼いたしました!何卒よろしくお願い申し上げます。

週末のいくつかの対話(曰く日記的な何か)

「AB型って冷めてますよね」とその人は言う。会社の人と訪れた金曜深夜の食事亭での会話。血液型で話をすすめるのは、色々な意味でリスキーなのだけど、まぁ、話のネタとしては悪くない。もっとも血液型の傾向を信用していなければ、という前提だけれども。「冷めていますかね」と答える。「冷めていますね。経験上」とその人は言う。こういった血液型の傾向は占いと同じで、「誰しもが少しばかりはそう感じていること」を少し添えていうだけで「当たっているor私のことわかってくれている」という心境になる不思議な呪文だ。人は誰だって冷めているし、あるいはホットだ。そして日常は常に「ルーティン」であり、同時に「ユニーク」だ。再現性がない、という点において。
土曜日に目が覚めると、8時だった。3時過ぎに寝た気がするのでそこそこの睡眠。土曜日にしては幾分眠たい。いつもの通り、目をこすりながらパソコンのディスプレイをオンにする。メールとRSS Feedのチェックをしながらパンを焼く。食パンにバターを塗って、冷蔵庫からコーヒーを取り出す。30分ほどふらふらブログをチェックしながら頭が目覚めてくる。今週末は作らなきゃな資料が5つだか6つだかあって、それに取りかかる。まぁ毎週末と変わらないのだけど、雨ということもあり缶詰になろうかとぼんやり予定をたてる。
昼にシャワーを浴びに自宅に戻る。合間にブログを書いて、合間にメールの返信をして資料作成を続ける。友人がメッセンジャーで話しかけてくる。その人は何人かの異性と仲が良くって。私は問う。「その恋愛リソースってのは、3人の恋愛相手がいる場合、3等分されて分配されるのかしら?」と。相手は答える。「違う、会っている時は常に1人の相手に100%の力を注いでいる。ただ、その100%の力を注ぐ対象が複数いるだけ」と言う。禅問答のようにも聞こえるし、あるいは詭弁にもexcuseにも聞こえるけれど、まぁその言葉で世の中がちゃんと回っているならば、誰にも害はないから良いのだろう。ただ、リソースを時間の観点から考えるとその回答はなりたたないよな、と思う。でも気持ちというのは時間とは関係のない力学が働くので、それもまた正なのだろう、と思う。
先輩からメールが届く。クイズのメールというなかなか珍しいメールだった。「ここはどこでしょう?」という素っ気ない一文。そして添付された何枚かの写真。何かしらの食べ物と何かしらの場所が写った滑稽だが哀愁のある写真だった。でもどこだか全然わからない。こういう時は写真ではなく文脈から推測するのが一番だろう。まず日にちから日本で起こっている出来事をチェックする。横浜の中華街でまつりが行われているらしく、その線から推測するが食べ物との関係性を見いだせないために却下する。ちょうどこの日に読んだ本に書かれていた一文を思い出す。「相手が何かの質問をしている時は、回答を探すのではなく、その質問の意図を考えよ」と。その意図を考え、きっと「写真クイズが世の中の最先端トレンドということだな」とつぶやく。
24時頃、仕事が一息ついて。お酒が飲めないくせに珍しく少しアルコールを摂取したくなって。時間も時間ということもあり近所に住んでいる別の先輩に電話をしてみるとちょうど近所で飲んでいるという。それは幸い、とオフィスから歩いて3分ほどの店に足を運ぶ。久しぶりに会う先輩は髪はあげていたものの変わらず元気そうで何よりで。「私は村上春樹自身は好きじゃないということに気づいた」とその人は言う。「世界の終わりは好きだけど、カフカやアフターダークは好きじゃなかった。」という。そういうこともあるのかもしれない。でも、「世界の終わり」が好きな女性が多いのはどうしてだろうか。男性と比べて圧倒的に女性からの評価が高い気がするけれど、どうなんだろう。これはあのハードボイルドな感じが良いのかもしれない。そんな折、お店の主に「最近、ここにきましたか?」と聞かれたので「数ヶ月前にお邪魔しましたよ」と答える。「カレーを食べました」と言うと、「あれ、カレーなんてあったっけな」とのお答え。確かに私はそこでグリーンカレーを食べて。でも、主は知らないという。1q84を読んでいたからか「ずれた世界」を思い浮かんだけど、世の中はそこまでイージーに出来ていない。誰かが勘違いしているか、何かが勘違いされているのだろう。世の中の真実が常に1つだとは限らない。
店のBGMがStevie Wonderの太陽に関する曲に変わって。ああ、懐かしい、と思う。家の外で聞く音楽はなぜか印象深いのはなぜだろうか、と思う。外ではちょうど雨が降り出してきていて。雨の季節が終わる頃には夏が本格到来する、というのは何かしらバルガス・リョサの小説を思い出すな、と勝手に関連づける。何も関係ないのに。久しぶりにお酒を飲んで、頭痛が始まる。何かの漫画で頭痛を「テンションの高いお坊さんがエイトビートでお寺の鐘をついている感じ」と表現したが、そのような振動が頭をつつみ、ささっと店を退散する。日曜日に目が覚めると土曜日と変わらず静かな朝だった。土日の朝がなぜか静かな気はする。これは実際にオフィスが稼働していないからもあるのだろうけど、8割型は気のせいだとは思う。ただ、そのように考えていた方が、土日らしさが出てわるくない。
「そうだクリップを買わなくちゃ」と思い出し、麻布十番の商店街に自転車を走らせた。普段は文具は殆ど楽天で買ってしまうのだけれど、梅雨の合間の太陽を浴びに町に出るのも悪くない。お目当ての物を購入して店を出ると、「あら!」と声をかけられた。学生時代の友人で、彼女の結婚式の二次会にはちょうど先月行ったばかり。「髪きったんだ」「そう、心機一転」と、何が心機一転なのか判らないけれど、そのさわやかな若夫婦は十番のパティオの日陰がとても似合っていた。しかし、麻布十番はそれなりに人がいて、それなりに人と擦れ違う。くわばらくわばらと思いながら自転車を走らせる。
私も髪を切らなきゃ、と思い散髪屋に向かう。先週まではドタバタでいく機会を逃していた。シャンプーをする人は新人だった。いつも散髪で苦手なのはしゃべりかけられることだ。この会話が苦手でしょうがなく、本を読みながらカットしてもらうことが多い。その新人もシャンプーをしながら、「業務的」な質問をかけてくれる。その心境はありがたいし、それも仕事だというのはわかるけれど、こちらも日曜日くらいはあまり気を遣った回答をするのは避けたい。「どんなお仕事をされているんですか?」と聞かれ、とりあえず「木こりです」と回答をしておいた。まじめな答えよりはよっぽど社会に潤いを与えると思ったからだ。それに「人のニーズのある物を作る」という点では自分のしていることも木こりも似たようなものだ(もっともそう行ってしまえば全てのビジネスはそうなるのだろうけれど)。少しうたた寝するともう暗くなっていた。思うに1日のパフォーマンスを最大化したいならば昼寝は欠かせないように思う。とはいえサラリーマン時代に会社の椅子で寝ているといささかひんしゅくを買っていたので、これは自由度の高い職場ならではの特権かもしれない。
なんだか世界で60通りの時間軸が平行して進んでいることに、なんだか違和感を憶えながら、もう週末が終わるな、と思いながら今に至る。
#なんか色々微修正してすいません。

風呂上がり

10時頃、シャワーを浴びに自宅へ戻る。
もう日差しは強く、初夏なのか「少し弱い夏」なのかどちらかわからない。梅雨だというけれど、いつも梅雨の間は雨に参りながらも、梅雨が終わると雨の日々は忘れている。「のど元過ぎれば」というけれど、それは、人間が生得的に備えている「ポジティングシンキング」の表れなんじゃないかな、と思う。
シャワーを浴びると、思考回路は仕事から日常に切り替わる気がする。「ああ整髪料かっておかなくちゃ」とか「クリーニングにいかなきゃ」なんてことがぽんぽんと頭をよぎる。誰だったか、一番アイデアが出るのはシャワーを浴びている時だ、と言っていたような気がする。シャワーとは、頭の何かを切り替えるスイッチの役目を果たすのかも、なんてことを考える。
部屋を出て、クリーニングにシャツを預ける。いつもと変わらぬ婦人といつもと変わらぬクリーニング代に心ばかし安心しながら、店を出ると一風が私を撫でる。
熱い日差しの中の一陣の風。その風が、とても気持ち良く、ああ、幸せだな、と思った。昨今話題の村上春樹は、このようなことを「小確幸」といった言葉で呼んだ気がするが、このような話はなんらめずらしいこともなく、つまり、「日常の幸せ」というものは、時に社会はフォーカスする。
たとえば、いつもと変わらぬ朝のコーヒーの匂いや、あるいは寝る前のちょっとした読書、はたまた毎年変わらず来る特定の誰かからの年賀状だったり。そのような小さな日常のようなものを、人は抱えていきる。ただ、日常という定義上、それは普段は忘れ去られ、戸棚の奥にしまわれる。
だからこそ、たまにそれらのありがたみに気づき、人は「ああ、日常って良いわね」と独りごちる。普段からそれらに感謝し続けるほど人は時間に余裕があるわけではないし,日常も普段からそんなに感謝されても困るだろう。
アフリカでの日々を思い出す。そこでは日々がそこそこ愉快なサバイバルだった。戦場という意味ではないにせよ、なんだか全てが大変だった。言葉はフランス語だから買い物の計算が大変だし、電車はどこから乗らなくちゃいけないのか知らないし、そもそもやたら暑いし、お子様はおねだりをねだるし、そもそも移動ばかりで身体ぐだぐだなのに宿が見つからないし、そもそも夜になるとデスマッチ開始だから熱があっても油断できないし。まぁ、いずれにせよinterestingとう意味では楽しい日々だった。しかし、その時に欲したのは、何も変わらぬ日常だった。土曜日の多摩川のランニングと近所のスーパーへのエビの買い出し。そして、少しクタビレタ布団と蚊取り線香の匂い、のような。
受験の頃は「トーストと朝読む新聞」で、小学校の頃は「世界不思議発見」で、新卒の頃は「金曜日の夜更かし」で、なんだか、そのフェーズにあった「日常と呼ばれるべきもの」が、何かしらの礎になっていたし、あるいはよりどころとなっていたし、今となっては、tinyだけどcuteな思い出になるわけで。
日常ってのは、あんがいあなどれがたし、と思うわけです。

信号が点滅前に走る人

ふと思ったのだが、世の中には2種類の人間がいて、それは
・信号が点滅する前に走る人
・信号が点滅してから走る人
の2種類である。
あなたは、その道を渡りたい。できれば信号でひっかかりたくない。距離は50メートル。青に変わって数秒は経っている。うまくいけば、このまま歩いて信号を渡れるかもしれない。できれば走りたくない、かっこわるいし。
そんな時に。
走る人、と、点滅してから走る人の2種類いる。
前者はリスクをヘッジすることが好きな人だ。後者はばくち打ちで「うまくいったら、走らないで済む」場合は走らないで良いのだから、それを前提に動くということになる。あるいは、点滅してから走っても間に合うかもしれないのだから、今から走る必要はない、と考えているかもしれない。
両方とも期待値をならせば、前者は常に走るために、「信号にわたれる(+5)」でも「走る(-5)」のリターンゼロで、後者は「信号にわたれる(+5)」が5割の確率で起こるとすれば後者の方がリターンは大きくなる。ただし後者も「ギリギリに結局走る」ということもあるわけだから、数値は変わってくる。また、信号にわたれるリターンと、走る場合のコストが同じということはあり得ないので(それならば最初から走らない)、実際は、前者もゼロにはならない。ただ、後者としては5割以上の確率で走らずに済む経験をしており、なおかつ、わたれなかったコストがそこまで大きくない人かもしれない。
ただ、いずれにせよ、まぁ、そういう2種類の人がいる。
そして、こんな違いが時に、人生を大きく、大きく変えることだってある。それは1つの違いによるものかもしれないし、あるいは蓄積された違いのインパクトのこともある。
誰だって経験があるだろう。
「あの日、あの時、偶然なあれが起こっていなければ、あれはなかった」というような経験が。もちろん、起こらなかった場合を体験できない以上、「起こった場合」と「起こっていない場合」を比較できないので、どちらが良いというものではないが。
ただ、いずれにせよ、そのようなちょっとの違いが人生を分かつこともある(くどいようだが、起こってない場合はわからないので、起こっていない場合も同じ人生もあることもあるが、ただ、傾向として、偶発性の再現は確率的に非常にレアなので、仮定として上記をおく)。
たとえばそれが
・メールアドレスの間違いで、届いたメールを返信したがために仕事の交流が始まった
・飲み屋で横に座っていた人が、自分の興味のあるニッチな話題の話をしていたので、思わずはなしかけたら共通の友人がいることがわかり、友達になった
・旅行先で、たまたま見かけた日本人に道を聞いたら一緒の旅路となり長いつきあいとなる
・たまたま友人が送ってきたFYIのメールがとあるWebサービスの招待状で、忙しかったのでみそびれそうになったけど、思い直して見てみると、結果的に、それがとある専門性を持ったサイトでその道に進むことになる
・ふとなんかに誘われて、その日は買い物にいく予定だったのだけど、なんとなくそっちにいったらほげほげ
みたいなものだ。
それは、「たまたまのキッカケを能動的に行動することで発生した何か」ということであり「単なる偶然」などの話ではない(たとえば、いつもいってるカジノで100万円当てたとか、受験の山勘があたって通ったとかではない)。
これはいわゆるセレンディピティの話とも同じで、「イノベーションや発明は、偶発的に起こる。でもその偶発性は、普段の傾向によって準備される」というような(違ったらすいませn)。運命の女神は前髪しかないとかいう例えも、つまりは、何かしら起こった時にすぐに行動できる何かしらが必要という例えではないか。
まぁいいや。こんな抽象的な話をしたいのではなく。
自分は、信号に向かって走る人かあるいは友人は走る人かどうかをふと考えたり。