月別アーカイブ: 2008年10月

苦笑いの日常をサバイブせよ

タイトルに別段意味はなくて。
単にiPhoneで「苦笑いする日々をなんちゃら」という歌を聞いた時に、「終わりなき日常を生きろ」という秀逸タイトルが組み合わさって、出てきただけ。
別段、個人的には苦笑いに対して、なんの思い入れもないけれど、なんか世の中を見回した時に、苦笑いという言葉が何かしら世相というか、風潮を表しているような気がした。
というか滑稽な話が多いような気がした。リアリティを欠いた現実というか。で、ふと喜劇・悲劇に関する名言を調べてみたら色々あることがわかった。
アドリアン・ルビンスキー

「喜劇的な事を悲劇的に演じ、悲劇的な事を喜劇的に演じるのが道化だ。」

奥田英明

「悲劇と喜劇は表裏一体だ。どちらか一方だけで人間を描くのは、表現者として公正さを欠く。」

ウォルポール

世の中は考える人たちにとっては喜劇であり、感じる人たちにとっては悲劇である

ソクラテス

懐疑は無限の探求にほかならず。真の悲劇家は真の喜劇家なり

チャップリン

人生はクローズアップして見ると悲劇だが、引いて見ると喜劇である。

バーナードショー

人生の二通りの悲劇がある。一つは願望がないことであり、もう一つは願望を持つことである。

ベートーベン最後の言葉

「諸君。喝采を。喜劇は終った。」

ラ・ブリュイエール

人生はそれを感ずる人間にとっては悲劇であり、 考える人間にとっては喜劇である。

まぁ、そういうことで。そして悲劇を喜劇に変えるのが上記のようなウィットネスであったりする。そして、このような言葉の妙味というのは「劇」という言葉が持つ客観性と装置的ニュアンスであり、もしこの悲劇を「不幸」、喜劇を「幸せ」なんて置き換えてしまえば、その言葉が持つ魅力は半減するように思える。
あくまでも喜劇や悲劇は外部の対象として見るものであり、それは自分の人生とて、そのような機構に組み入れてそれを中から見るというメタ演劇的演劇とでもいうべきもので、それは故人の「人生は舞台だ」という喝破より脈々と流れる演劇が持つ力の表れなのかもしれない。
そしてその言葉は「男も女もその役者にすぎない」という言葉を受けるのだが、日常を生きる我々は、そのまさに時代に合わせたロールプレイで苦い笑いを笑顔に変える。
なんてことを、なぜか「ルージュの伝言」を聞きながら階段を駆け上がり思った。

この星を継ぐ我々

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友人のブログのタイトルで「台風の去った沖縄では、夏がまだ続いていた」というものを見かけて。
その「○○では、○○だった」というフレーズが素敵。なんかキュンと来た。応用を考えた。
「あっという間に秋を通り越して、冬服を用意しなくちゃいけない時期になっても、港区のある一角ではまだ夏が続いていた」とか「金融大恐慌と言われていても、ロリータでチョコラータを飲む彼女の日々は夏に満ちていた」みたいな。
なんだかいい。
さらに応用を考えた。
「大学生が眩しく見える年頃になって、友人が買った結婚指輪の値段を耳にするころになっても、まだ私の心は青春で満ちていた」とか「夢見るころを過ぎても、彼の未来は永遠だった」とか「日本の政治家に希望を持てないという人が増えたとしても、まだシリコンバレーの空は真っ青で、カリブ海では貿易風が吹いている」みたいな。
で、ふと思い出したのが、こちらのブログで拝見した

青天井の未来予想。

というフレーズと

「実現したいことを遠慮なく想像している」

というフレーズがとても好きで。
ドリーミングに成りすぎても世の中は回らないのはわかるのだけれど、でも、少なくとも、私たちには未来を無限と想像する義務があって。不況、不況と言われていても、それでも日々を生き抜く人たちがいて、そして生き抜かなくちゃなんなくて。
故人の歌にもあるように、「涙を流し 瞼を腫らし祈るほかないのか? 」なんて泣き言は言ってられなくて。
あるいは、最近、よく聞くのが「日本をどうよ」というような話で。
つまりは、前提としての「少子化やシュリンクするマーケット、政治的プレゼンスが弱くなっている日本」に向かって、あなたはどうするのか?という設問で。「アジアに出る」「海外に向けた市場を作る」「海外へ行く」という声を聞くと同時に「日本においては、自分がなにができるのか?」という自答を聞く機会も増えて。
これは一種の自浄作用とも取れるし、あるいは、反骨精神の現れかもあるいは、最後のなんとか屁というものかもしれないけれども、議論は侃々諤々、栄光に向かって走るあの列車に乗るわけで。寝言は寝てから言え、と言われても、それでも、人が持つ最大の価値は「希望」というもので。
そこで、恩師の言葉を思い出す。私自身、日本のブランドを10年来、研究していることもあり、少子化の課題がずっと頭にあって。そこで、2001年、認知心理学の恩師に聞いてみた。「少子化をどうとらえるのか?」と。そこで氏がいったのは

「波だよ。いつか戻る」

との言葉だった。本当かどうかはわからないけれど、若かりし頃の私は、何かその言葉に「そういうものか」と納得した憶えがあるのだけど。波は株価に表れるものかどうか分からないけれど、それでも波の上に魔術師はいるし、「歴史は二度繰り返えす。ー度目は悲劇として、二度目は喜劇として」とマルクス先生は仰っているし、ポリュビオスさんの言も引くまでもなくて。
そりゃ、相対的に考えれば、マイナスかプラスへの移動平均線はあるけれども、結局、それっていえば、尺度をどう見るかというもので、第一、その尺度の度数をなににとるかでも違っていて。
少なくともこの地球という「星を継ぐものとして現代に生きる我々としては、この時代も継ぐ者なわけで。
そして、それを故人は「陽はまた昇る」と喝破したんだよ、多分ね。

お風呂つれづれ

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昔々のお話。

「なんでお風呂に、桶を置いていないの?」

と聞いた私に

「かっこわるいから」

と返され。おお、そういう見方もある、と思った。世の中で物事に対する見方は一律じゃないのだ、当然ながら。
そういう価値観のお話を書こうと思ったけど、どうも最近、そのようなぬるっこい真綿でなんとやらな文章が多くて不評なので、今回はお風呂の話にしよう。
風呂の話で一番最初に思い浮かぶのはトゥーサンの「浴室 (集英社文庫)」である。内容はもはや忘れたが、お風呂に入ってやすらぐ男のシーンだけを思い出すことができる。もっとも自分で想像したシーンだけど。良い作品だった、印象論として。確か、山田詠美もほめていたのではなかったか。
あと、上海ベイビーでも、お風呂のシーンがあった記憶があるけど、勘違いかもしれない。むしろ、上海ベイビーの作者のほかの本を翻訳なさっている方のおうちのお風呂が素敵だった(日光がそのまま風呂に入るガラスの壁)という記憶間違いかもしれない。
思い返せば、風呂のシーンがある小説って以外に少ないだろうか?「酒井 あゆみ」さんの本では多いけど、それはまた別のお話。あ、思い出した。「痴人の愛」だ。これは僕の話ではないが「ナオミゴッコをしよう」と言われて、なんのことかと思えば、お風呂で体を洗わせるという話で、うまいこというなぁ、という「友人の話」を聞いたことがある。
そうか。お風呂で何かが起こらない限り、小説ではお風呂のシーンは必要シーンとして登場しないのか。映画だと、「サービス」の意味で、そのようなシーンは無駄に多いけど(特にアメリカ)。昨今の映画でも「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」「最高の人生の見つけ方」「ベガスの恋に勝つルール」あたりでも当然のごとくあった気がすると友達が言っていた(電文推定)。
あ、「千と千尋の神隠し」では舞台でしたね。でも特筆すべきことはなし。映画でバスのシーンで印象的なのは「プリティウーマン」のシーンかしら。誰かが言っていたのか、どっかで読んだのかわすれたけど、そのバスタブのシーンで、ジュリアロバーツが長い脚で、リチャードギアを云々というシーン(これ)が記憶に残っている。あとはサスペンスではよく風呂場で人がやられますね。お約束。特にシャワールーム。
まぁいいや。そういえば自分を思いかえせば、世界中のお風呂に入ってきた(メタファー的なまずい意味ではなく)。逆に欧州のは入ったことないけど(全部野宿だったから。でも駅にシャワーがあった)。
それで印象的なのは、ガーナの「水しかでないシャワー」やハンガリーの「同性愛者専用の公衆浴場」、エジプトの「バケツシャワー」、モロッコの「なぜか10畳くらいある馬鹿でかい風呂場」などが記憶に残っている。日本では川のお風呂や雪見風呂、アクシデンタルな貸切風呂などよく考えたら、お風呂っていろいろ記憶があることに気づいた。
過去で「人から聞いたお風呂の話」エピソードとしては以下のようなものが記憶によみがえってきた(男女・伝聞問わず)。

「毒素がたまったらお風呂で抜く。頭までざぶんと使って、ふなふなになるまで入る」

「お風呂ではひたすら本を読む。ページがしわしわになるまで」

「お風呂には青いものしか置かない。」

「お風呂では、桶は斜めにおかないとカビが生えるから斜めにおくこと」

なんてことを思い返しながらお風呂に入ろうと思った。人はそれぞれのマナーと思いでお風呂に入るのだなぁ、と。
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会議と読書とはあちゅうと(本レビュー)

献本御礼!
■会議!

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おすすめ度の平均: 4.5

5 チームマネジメントに直面したリーダーが読むべき本
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5 会社で試してみました!
1 著者の会社の営業本に過ぎないのでは?
5 日本の会社、職場を変える会議のOS0「意見会議」から『質問会議』へ

会議は企業に欠かせない。よって、会議の効率性が、その会社の命運を左右する場合だってある。過去にも色々な会議のテクニックが生まれていて、そして、それは常に洗練され、あるいは革新が起こされている。
たとえば以下とか以下とか。
Amazon.co.jp: すごい会議-短期間で会社が劇的に変わる!: 大橋 禅太郎: 本
会議で使える、議論を活発にするための小技 | IDEA*IDEA
会議支援ツールSargasso eXtreme Meeting
そして、今回、新しく「質問会議」というものが注目を浴びている。
簡単に言えば「意見を言うのではなく質問を提示する」ことによって会議の質を高めるという手法で。アクションラーニングという手法も絡み合い、非常に興味深く。GEやトヨタなども導入しているのだとか。
このような「質問による生産性」は、古来、ソクラテスより流れくる文脈で。確か記憶によると、その本質は「答えは内在する」というヒトコトにつきる。
会議に興味のある方はご一読をば。もちろん会議だけでなくコーチングや教育周りにも非常に関わりは深そうです。
■本!

わたくしめ、速読周りの本は、多分あらかた読んでいると自負するくらい、そのあたりの本は読んでいる気がする。高校のころからだから10年以上だろうか(ちなみに短眠と)。
時間という価値が現代における最大の価値を持つ通貨だと理解しているので、そのようなものには興味がある次第。
その上で、今回の「フォーカスリーディング」を拝読。これは、単なる抽象論や精神論だけの本の読み方ではなく、「読書をスポーツである」と考えるような形で、本の読み方を提示する。まずはその点が、とてもわかりやすいかと。
姿勢や目の動かし方のテクニック周りから、メンタル面のテクニックなどとてもパンチがある読み応えのある一冊。
一番印象に残ったのは「3回読むべし」との点。ある本をしっかり理解するには3回読まなければいけないとのこと。これは「ふーむ、そうかも」と。
■はあちゅう!

はあちゅうの 20代で「なりたい自分」になる77の方法
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最近ますます色々なものに磨きがかかっている~はあちゅうの初の単著(前はさきっちょと)。
人脈術含め、コミュニケーションやLifehacks周りの、「はあちゅうメソッド」が77個並べられています。しかしFlickrの憶えておいてくれたのは嬉しいなぁ(独り言)。
はあちゅうと初めてお会いしたのは、2004年くらいだったかと思いますが、会う度になんか新しいことをされており、圧倒されるばかり。学生のころ(特に高校生とか)って、学生のロールモデルがいたりしますが、そのような人のことは外面はみれても、どのようなことをしているのかは見えなかったりします。そのような点で、はあちゅうのような様々な活動に刺激を受ける人にとっては、そのステップが可視化されて、とても参考になるかと。
今度も世界一周いくそうですよ。しかも、無料で。興味ある方は以下のブログを。明後日くらい出発でしたでしょうか?
» はあちゅうの世界一周主義。~タダで70日間世界一周出来るかな?~
くれぐれもご無事を祈る次第です。

および、以下も宜しければで御座います。