月別アーカイブ: 2009年10月

会話

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「最近、面白いことあった?」

というような会話のオープナーがある。つまりトピック提案というか。他にも「最近どう?」とか「元気」といったオープンクエッションだ。
ただ、これはアジェンダ(議題)設定とは異なる。
ここでは、相手が出す「アジェンダ」をベースに話を構成しようという質問だからだ。つまり、自分からアジェンダを出さずに、相手に委ねるというやり方である。
この場合、相手は「聞かれたから答えるよ」という形になるが、その人の答えた回答がアジェンダになるために、回答する方がテーマの主導権を握るけれど、その構造を創るのは質問した人で、大きな構造では、その人が主導権を握る(ポール)。回答する人には「ネタになる回答をしなきゃ」という負荷がかかるが、その分を差し引くと、まぁ、フェアな会話構造である。
認知科学に興味がある1人として、このような会話の構成要素に興味がある。言語には文法があるように、会話にもある種の「フレーム」があるような気もしているし、どこかではそういう研究もあったはずだ。たとえば、英語のSVCのように中身はともあれ「主語」「動詞」云々のような枠は存在していて、会話もそのような枠に類型化できることがある、気がする。
たとえば、会話は、基本的に「質問」「回答」から成り立つ場合がある。もっとも、

昨日ね、こういうことがあったんだ

といって自分からアジェンダを設定して、さらに自分で話をするという型もある。相手の興味が分からない場合や、自分のネタに自信がある場合、あるいは相手があまり話をしない場合はこの型になりがちだ。いわば「提案」「主張」型である。
あるいは、

最近みたトトロという映画面白かったよ。好きなジブリ作品なに?

みたいな「主張」「質問」の型もあるだろう。これは、文脈をある程度つくって(場をつくって)相手にボールを渡すので、相手に優しいバファリン型トークである。一番、相手への負荷は少ないかもしれない。
この辺りは、多分、人の個性によって、どのような会話を好むかは全く異なるのだろう、と思う。たとえば、「提案」「主張」型しかしない人はいるし(質問を全くしない人)、逆に「質問」しかしない人もいる。基本はmixになると思うが、傾向はあるだろう。あるいは、相手との関係性によって変わる。たとえば10年寄り添った夫婦なら、「報告」型になるし、初めて会う異性だったら探り探りの「質問」が多くなるかもしれない。
会話をしている時に、たまにこのような構図を描きながら会話をする。つまり、このトピックの源流はどこか、相手の会話の好む類型はどれか、あるいは、会話の比率はどうか。
この比率というのも意外にくせ者で、人は「相手ばかり話をしている」と、抵抗感を感じるし、逆に「質問ばかり」されていても、抵抗感を感じる。逆に「相手がずっとしゃべる」というケースの場合、こちらはほとんど意見や提案を述べなくても、「相手はその会話を楽しかった」と感じるケースがあり、不思議な心理学が働く。ただこの場合も「意見」を述べるのではなく、「相手の会話に添え木」をして、会話をふくらませるために「質問」や「応答」「同意」などが必要となってくるため、この場合も複数の分岐が存在しそうだけれども。
また、「議論」を好む人もいて、その人はとりあえず相手の提案に反論を示す。それは敵意を表すのではなく、会話の醸成のために、敢えて反論を持ち出すというやり方である。この場合、単なる同意よりも話が盛り上がることが多く(盛り上がる=多様性を生む)、便利なのだけれど、ただ、落としどころが難しい(敢えて反論した側が折れるのが適切だとダレカガ言っていた)。
あと、これはどこかで読んだのだが「質問」をする人は、その「質問の回答」を重視するよりも「質問返し」に本質がある場合がある。つまり「自分が聞いて欲しいことを相手にまず聞く」という人もいる。これは、うっかりすると回答ばかりで話が流れてしまいややこしいことになりがちなので、相手の質問の本意を推測する必要ありマスあるよと誰かがいっていた。
会話が上手な人は往々にして質問が上手なような気がしていて。しかも、その質問のテーマ設定が絶妙である。特に多数の場の時はその質問の回答でのコミュニケーションがしばらくは醸成されるわけで、そのテーマが失敗すると大変なことになる。そういう点で「誰しも回答」ができて「誰しも楽しめて」さらに「その回答が参考になる」という質問は非常に難しい気がする。大学時代に某諸先輩方の判例として、たとえば「自分が異性に対してこだわる身体のパーツは?」とか、最近された質問として「一番もらって嬉しかったプレゼントは?」とか。
あと質問1つとっても「HOW」「What」「Which」などの類型があり、一番インパクトのある質問は「Why」である。ビジネスだと、これをベースとした質問になるが、日常会話では「Why」は使いどころが難しい言葉でもある。というのも、相手がこの回答として適切なものを持っている場合、会話の深さを増すことができるが「なんとなく」「わからないけど」という場合、相手はスムーズな回答が出来ず、お手つき1回をもらった気分になる。あと、この「HOW」を「When」に見せかけるという質問もあり、たとえば「○○の夢はなぜ諦めたんですか?」というディープな質問をこのように聞くと相手はなかなか回答しにくいが「その○○の夢を諦めたのはいつ?」という形だと、まだ回答はしやすい。そして、そのいつというのが、Whyの回答の補助線となる(その時に何があったか?ということになる)。あと、手垢にまみれた古典的な質問として「私/僕のどこが好きなの?」という命題があるが、これは「Which」に見せかけたトリックな質問だと誰かが言っていた。これの応用として、小説としては陳腐すぎる命題としての「私と仕事どちらが大切なの?」という2000年利用されている質問も同じ構図である。これは質問に見せかけた「意思表明」
であり、しかも回答は「Which」ではなく「Because」で受けないといけないという複雑なトラップであると先生が言っていた。ないし「Yes/No」でも可だそうで。でも場合によってはそれを一周させて「Which」で受ける方が適切という友人談もあり、もはやデリダもびっくりの脱構築の再構成の世界になってくる。あと映画や小説の小粋な会話として「質問」に対して「接続詞」で回答するというテクニックがある。「あるいは」とか。その辺になってくると、もはや会話というか台詞の世界である。それでは良き問いを。
※写真になぜかハートはいってますが、意図なし(ポラツール使ったら入ってた)

ITとコンテンツ業界のイベント「BRIDGE2009」

勝屋さんDr.本荘さんが以下のイベントを開催されます。
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Hung in there!

がんばって、という言葉がある。
一般的にその言葉は、人を応援するために利用されるが、鬱病の人には投げてはいけない言葉だとも言われる。あるいは、がんばってる人に対しては一種のややこしい言葉になるので(いわば、役者に役者っぽいねっていうような)、なかなか使いどころの難しい言葉である。
しかしながら非常に便利な言葉ゆえに、別れ際の言葉などに愛用されることも多く、また、「がんばろうね」的な、共同戦線アプローチ兼、同調表明による親密性確認用語ならば、なお便利な言葉として活用される。
そして、この「がんばれ」って英語で何というの?という話はたまに耳にする。高校生の頃はたしか先生が「Cheer up! 」と言っていたような気もするけど、最近はもっと違う表現があるんじゃないかとふと思った。
それが「Hung in there!」である。
もともとはボクシング用語らしく、いわゆる「クリンチして耐えろ!」のような用法から利用されたらしい。以下参照。
» Hang in there | 日常生活スポーツ英語 by HIROSHI IKEZAWA / 生沢 浩 | 英語とお仕事 | 週刊STオンライン ― 英字新聞社ジャパンタイムズの英語学習サイト
つまり「耐えろ、ふんばれ」的な意味となる。おぼろげな記憶ではあるドラマ、ガキんちょがシークレットサービスに追われている時に、父親(リンカーン)に電話する。そこで監獄中の父親が子供に対してこの言葉を使っていたような記憶がある。
これは、「応援する」といった語義の「Cheer up」という言葉とは、視点が大きくずれた言葉になるけど、なんというか、この「Hung in There」の方が使い勝手は良さそうな言葉である。というのも「がんばれ!」という言葉は、がんばってる人には使えない言葉だが、この言葉はがんばってる人にこそ使うべき言葉だからである。
あとイメージ的にも「Hung」は、ひっかける/つるすなどの意味から想像するに、「Hung in」は、ロッククライミングで厄介なホールドにムーブする時のようなシーンを想起させ、ミッションインポッシブル2のオープニングのようなハードコアな匂いがする。Cheer upはなんかチアガールが足を振り上げているシーンを想像し、それはそれで悪くないのだが、まぁTPO。
古賀さんのブログで「がんばれ」の言葉の危険性に触れられているのを読んでふと。
» 鬱病による自殺が減りますように。 (長文) – 愛の日記 @ ボストン

肉食草食

土曜の夜にtsutayaにいった。コーヒーを買いに。けやき坂の下のいつものtsutaya。
ふらっと2階のカウンターやテーブルを見てみると、人が詰まって座っていた。構成を見てみると、女性が1人か、男女のカップルだった。だいたい女性1人が5人くらい、カップルが7組くらいだったろうか。
ポーカーや花札ならぱっとしない組み合わせだけど、麻雀ならまぁ悪くないかも、といった程度の。不思議なことに男性が1人で座っているのは見かけなかった。うーむ、映画のタイトルだとsinglesってのがありそうだ、と思いながら、歌のタイトルとしては野暮ったいな、と思う。時に、英単語は映画性を持つものか、音楽性を持つものにわかれるに違いない。
ともあれ、そりゃそこにいらっしゃる女性。資格の勉強に忙しいのかもしれないし、あるいは、夜中から男性と六本木で落ち合うのかもしれないし、あるいは、今日はたまたま1人でいたい気分なのかもしれないけれど、なんだか、普通に社会の構図を考えて機会損失がいろいろ起こっているのではないかと、余計なお世話を考えた。1人の男性は部屋でこもっているのかもしれない。いずれにせよ、そのtsutayaでは、1人女性比率が高く、アンバランスな性差環境を作り出していた。
それを見て、ふと思い出す。最近、恋愛だか婚活だかの業界の話で、「肉食/草食」といった人を区分するボーダーがあり、もはや一般用語として使われるようになっている。
いつかの先日も「原田君は、肉食?草食?」と聞かれ言葉に窮した憶えがある。1つは、あまり自分がどちらに属するかを考えたことはなかったし、もう1つは、ここで何と答えるのかが適切なのかがわからなかったからだ(ちなみに回答は近くにいた人が代弁してくれたので事なきを得た)。
そして思い返してみるに、周りの女性では、恋人がいない人が昔に比べて多いような気がするということに気づいた。これは相対的な話で、学生時代は、もう少し「恋人いる」という女性が多かった気がする。これは、「妙齢」と呼ばれるセンシティブでアンタッチャブルな領域の話ゆえの現象か、あるいはこの景況感によるものか、あるいは、メディアが言うように「草食系男子が増えて来た」的な現象に寄るものかわからないけれど、いずれにせよそういう傾向があるような気がする。ただ、もう1つの説としては、「恋人はいない」と当人の自白のみの話なので、実際のところはいる可能性があるわけで、そういう意味では、年齢を経るとともに「いる」という公言することのメリット・デメリットの観点から「いない」という人が増えているだけの可能性もあるけれど、詳しくは調査していないのでわからない。
ただ、さらに思い返してみるに、男性も恋人がいるケースはあまり聞かないな、という気もする。ただ、よく考えると、それは単純に「恋人がいるか?」と聞いてないから、しらないだけなのかもしれない。あるいは結婚という古来から議論されている仏教的禁忌的な契約関係に従事している人は、「恋人」という関係性よりも、もっと別の言葉で表現される何かの関係性に属しているから、恋人という話はあまり聞かないのかもしれない。ただ、周りにいる男性は往々にして上記の区分でいわれるところの「肉食」も肉食、なんというかむしろマンイーターという表現の方が適切な人の方が多い気がしていて、そう考えるとメディアが言う「男性が草食だから、恋愛する人たちが少ないのだ」的な言説は当てはまらないような気もしている。ただ女性の言うところにいうと確かに「肉食男子がいい」という声も少なからず聞くので、本来ならば、そこではしかるべくしてマッチングは発生しているはずだが、それでもこのギャップがあるのは、何によるものか。もしかすると彼らはtoo much肉食すぎるゆえに、彼らはそのような区分を超越してしまっているのかもしれない。ふむ。あるいは肉食という概念と恋愛という概念のベン図は必ずしも被っていないのかもしれない。アーメン

Art

最近、周りでアート関係の話が出ることが多い。たとえば、純粋にアートが好きでしょうがない人から、空き時間には絵を描くようなプレイヤー、それを投資対象と考えている人から、CSRとしてのビジネス兼アート業界勃興に携わっている人からアプローチの方法はそれぞれだ。
思い返せば、ここ数年、とみにそのような話を聞く機会が増えてきた。実際、美術館の人気や写真・絵教室などの人気などを鑑みるに、それなりの妥当性があるのではないか。そこで考えたのだが、2通りの考え方がある。
・潜在的にアートに興味がある人は一定数がいる。そして、私が会う人が年齢的に、20代後半から30代前半になる。そして、そのような年代になると、上記の一定数の人はアートへの関心を発露する、ないし、公言するに至るという考え方
あるいは
・ここ数年、そのようなアートに興味がある人が増えてきた
という考え方
そして、どちらかというと後者の方が正しい気がしている。前者としても、ある程度はその傾向があるような気がするが後者の方がインパクトとして大きいような。理由としては、特にない。肌感覚である。
そして、その場合、「なぜ」最近、アートに興味がある人が増えてきたか、と考える。
シンプルな国内の変化を考えるに「閉塞感」「経済の停滞」「将来への不安(少子化などに纏わる問題、婚活の問題等)」などが思い当たる(異論もあるとは思う)。そしてかりに、このような「ネガティブな前提(=社会の変化)」と「アートに興味があること」の相関関係を考えてみる。
そうすると、1つの仮説ができあがる。
これまでGDP一辺倒の社会(いわゆるマテリアルワールド=資本主義社会)の流れできていた昨今。しかし、日本は、それに限界があることが見えてきた。そこで、その経済という指標のアンチテーゼとしてアートの存在が浮かび上がる。
もちろん、アートとビジネスは結びついている。しかし、ロックの源流が社会のアンチテーゼでもあるが同時にそれは経済活動の流れの1つとして取り組まれているように、時に、「指向性」と「現状」の矛盾は両立して存在する。
そして、そのような社会のミクロな変化は、上記のようにマクロの環境要因から推測できると同時に、そのミクロの変化をマクロの変化に還元する推測も可能である。そうした場合、アートが好きな人が増えてきた場合、どうなるか?
1つはアートの市場が確立される。絵や写真などでメシを食える人が増える。それは可能性としてはありうる。では、私の関心どころである国際政治で見た場合はどうか?上記のやっつけ仮説が正しいとすれば「経済が停滞すればアートに興味のある人が増える」ならば、今後、ますます、そのようなアートに関心を持つ人が世界レベルで増える。なぜなら、いけいけどんどんの経済成長は新陳代謝として、先進国から後進国に移るのが、諸行無常の世界の流れだからだ。もちろん、最先端でかけ続ける国もあるけれど、いつしかそのような国には停滞がくる。そしてアートへの自己同一性の投射先ニーズが高まる。ここでのポイントは「経済的に停滞感があるからアートへの関心が高まる、のではなく、『一度この世の春(=経済成長)を経験した国が停滞に向かう』場合に起こるという仮説(=中年の憂鬱現象)」である。
そうすると、世界でアート同士の競争が起こる。そして、それが経済と結びつく。しかし、本質として経済へのアンチテーゼがアートであったが、それが経済に取り込まれ、それが一定数になると両立していた矛盾は崩壊し、いつしか、それへの乖離が始まる。しかしながらも市場は出来ているので、ある程度のアート分野での国際競争が起こり、そして、それは再度、市場への取り組まれる(たとえばブルースの歴史のように)。
だから何?というのはない上に、こんなつまらない話をしてもしょうがないのでアート関連で聞いた興味深い話をいつか。うろ憶えかつ、それが正しいかどうかは未確認なのでご容赦をば。
油絵で塗料が使われる。その塗料は絵の具のように均一価格ではなく、塗料によって値段は大きく異なる。塗料は石などを削ってつくられる場合などがあり、その石の希少性が値段などに反映される。その中で「本当の赤」というようなものは値段が高いとかとか。なんだかロマンチック。
その中で1つ「クラインブルー」という青がある。イブ・クラインという人が編み出した「青色」だ。Wikipediaによると

1957年に、黄金よりも高貴な青「インターナショナル・クライン・ブルー」(International Klein Blue, IKB)と呼ばれる深い青色(右の画像は近似色)の特許を取得し、

とのこと。色にも特許があるというのは、なんだか色々考えさせられる上に「黄金よりも高貴な青」といえば、黄金よりも価値のある胡椒を思い出させて、なんだかロマンを感じざるを得ない。
また、印象派で人気のあるルノワール。そのルノワールの絵は、独特の肌感を表す色合いが有名だが、その色は、真珠を使った塗料が使われているとかいないとか(都市伝説の可能性あり)。
または、アルゼンチンは独特の色合い(カラフル)な家の色で有名だが、それの経緯は、もともと船着き場だったアルゼンチン。その港町では家家があったものの色を塗るペンキがなかった。そこで、船の色を塗ったペンキのあまりで家の色を塗っていった。そして、いつしか、町は船の色を表すようなカラフルな町となっていった、とか。
芸術という不明瞭な(中立的な意味で)市場に、新しい「何か」を見つけ出す人が増えるというのは、アーティストがキャンパスに「何か」を見つけ出すというフラクタルな構造を何か想起させてコリン ウィルソンの「アウトサイダー」における「見えてしまう人」を思い出させた。そして、あのCMのこのフレーズを思い出す。

彼等は人と違った発想をする。
そうでなければ、何もないキャンパスの上に芸術作品は見えて来るだろうか?