月別アーカイブ: 2018年11月

引き伸ばされた未来

教養としてのテクノロジー―AI、仮想通貨、ブロックチェーン (NHK出版新書 545)
伊藤 穰一 アンドレー・ウール
NHK出版
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上記の本にかかれていて、なるほどな、と思ったのが、「我々は2020のオリンピック後の物語を求められている」という文節。

つまり、いまは2020年の東京五輪に向かって、皆が高揚している。しかし、それが終わった後は?残るものは何もない。まるでゴールデンウォーク終わりみたいだ。次の祝日まで2ヶ月以上ある、というような。

不動産は値下がりし、意識としても「楽しみにする先」がなく。

しかし、そんな中、大阪で万博が決まった。めでたいことだ。これで、クリスマスの後に正月ができたようなものだ。少しだけ延命された。

では次に2025年の後の物語について考えるとしよう。

睡眠を取ること

ある世捨て人の物語: 誰にも知られず森で27年間暮らした男
マイケル・フィンケル
河出書房新社
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上記の本を読んでいる。タイトルのままだが、27年、森で誰にもコミュニケーションせずにいきた人間の話。とても興味深い。

その中で、ジャーナリストである上記の筆者は問う。「その経験の中で得られたものはあるか?」と。彼は答える。

「よく睡眠をとることだ」と。

ちょうど、この間「大変なことがあればとりあえず寝るんだよ。じゃあ朝、起きたら、問題は解決してないけど、問題の大きさは小さくなっているから」みたいな話が聞いたところだったので、それとリンクして。

よく寝ること。

深いなー。

富の再分配の問題

以下の記事を読んで思い出した

»お金持ちを、ほめよう!|深津 貴之 (fladdict)|note

大学での専攻が政治ということもあり、富の再分配の仕組みを考えたことがある。その時に思ったのは「お金」は1つの尺度しかないので、そのお金を分配する代わりに、それを分配した人に別の尺度の何かを戻す仕組みがあれば良いと思った。

お金は絶対的なものではなく「ものをかえる手段」でしかないわけで、人はお金を使って何かを買う以上、そのお金に値するものが何かあるわけである。いわば「お金A=何かB」の等号が成り立てば良い。1つは上記の記事にかかれているような名誉欲はそうかもしれない。神社に寄付した人の名前の灯籠などがあるのは、昔からそういう仕組があったとも考えられる。

ただ、名誉欲は少しわかりにくい。価値の尺度を図りにくいのだ。つまり「お金A=名誉B」の計算がなりたちにくいというか。そういう意味で、もっとプラグマティックな尺度の還元があってもいい。

たとえば、以前、誰かがいっていて「なるほど」と思ったのは「税金を多く収めている人は市役所の対応をちょっとだけ早くする(ファストレーン)」みたいな仕組みだ。人よりもお金を多く払っているわけだから、そのロジックは理解できなくもない(心情的に理解できるかは別として)。いわば、飛行機のファーストクラスと同じ仕組みである

あるいは、警察の対応とかの公共の制度を少しだけグレードアップするような仕組みがあってもいいかもしれない。それらの仕組みを成り立たせるためのお金をたくさん払っているわけだから、ちょっとだけ、その制度を優先的に使える仕組みである。

ただ、別の研究でそもそも、上記とは別の考え方を読んだことがあって、それはそれで面白い。それは「幸せ度」の尺度で考えるというものである。

その研究によるとお金を多くもっていたからといって必ずしも、それに比例して幸せ度があがるわけではない。それは人は自分の環境に慣れていくからであろう(同じ問題として、蛇足ながら、苦痛もなれるという仕組みがあり、人間はどんな良いことも、悲しいこともなれていくというフレキシブルな機能を備えているのは興味深い)

人はお金を持つと無駄なことにお金を使う。しかし、それにお金を使うなら税金として払って、インフラがよくなったり社会をよくする方が、結果的にその人の幸せ度があがるという話である。

※ちなみに、それがかかれていたのは「成功する人は偶然を味方にする--運と成功の経済学 | ロバート・H・フランク」

そう考えると、「税金を払うことが結果的には自分の幸せになる」というロジックがなりたち、それはそれで、社会がハッピーになることやな、と思いました。

お金はどこからくるか

以下のツイートを拝見し、ふと思ったこと。

たしかに、今までは「経済成長」と労働力は相関がある時代だった。人が多い方が、より労働力になり、より経済成長をうむ。

経済大国のUSでも、中国でも、人口はかなり多い。インドの今後の可能性も、人口を元に考えられることが多い。

よって、最近では日本でも「少子高齢化における日本では、労働力としての移民が不可避」といった議論も行われる(ちなみに、この論点自体は、大学時代にも研究をしたことがあって、その場合、日本がもっているソーシャル・キャピタルの観点も踏まえて考える必要があるという学びをえた)。

しかし、今後のロボティクスやAIが普及した世の中では、労働力と経済力が比例しないタイミングがくるかもしれない。実際、イタリアではファッションなどのブランドものの産業が大きくこれは労働力と比例しないモデルが存在していて、別におかしい話ではない。しかし、テクノロジーが一層、その労働力と経済のモデルを変える可能性を持つ。いわゆる「パラダイム・シフト」と古典用語で呼ばれるようなものがくる。

昨今のベーシックインカムなども考え方は近い。ベースになる活きるのに必要な費用は、他の生産性向上によってなりたつのではないか、という問いが重要になってくる。

ちょうど以下の記事でもそのようなことを聞いた。

私は、労働人口が減っても、生産性は下がらないと考えています。それはAIなどのテクノロジーによって生産性を上げられると考えているからです。

»メルカリの組織は達成型?ティール型?これからの社会における組織開発とは – メルミライ – 未来を見るメディア

これを考えるに、おもいあたるのが「価値(お金)というものの源泉はどこか」という問である。

つまり、あなたがコンビニで働いた時に得られる時給1000円は、どこからくるのか?というものである。まず、明確なのはそのコンビニの売上の販管費という考え方である。いわば、安くものを仕入れて、高く売る。その差分がコンビニの粗利であり、この「高く売る」ための仕組みを成り立たせるのが、コンビニの立地であったり、売る人である。

これは理解できる。しかし、そうした場合、そのコンビニのものを買った人のお金はどこからくるのか?たいていは給料だろう。では、給料はどこからくるのか。給料は各産業の売上の販管費として存在する。

このようにしてお金は循環する。しかし、仮に世の中の人の給料が1/10になった場合は、どうなるか。倒産する会社はでてくるだろう。飲食店には人が入らなくなるし、エンタメにお金を使う人も減るかもしれない。人は最低限、生きるためのことだけにお金を使う。そこで削減されるのは、いわば経済の「付加価値」であって、価値の根源的な源泉ではない可能性が高い。

そういう時に最後に残るのは「衣食住」といわれるように人間がいきるのに欠かせない産業となる。「食べるもの」「きるもの」「すむところ」。特に食べ物が最後に残るだろう。裸でもいきていける。家がなくてもいきていける。しかし、食料は食べないといきることができない。

そう考えた場合、価値の源泉は「食べ物をつくる、とる、運ぶ、整理する」といった産業になるのではないか、という仮説にいきつく。

価値の食物連鎖で考えた場合、「食産業」が一番上にきて「着るもの」「住むところ」がある。これがいきるのに必要な産業であり、ベーシックインカムの対象となる分野である。あるいは「治安維持」に関するものも命にかかわるものなので必要になってくる。あるいは医療も必要なものかもしれない。その下に、本能に近い「性産業」などもくるかもしれない。そして、それ以外は、基本的に付加価値のビジネスとも整理できる。ゆえに、極端にいえば、この産業は0になっても、人類はいきていける。この産業がAiやロボティクスで効率化されれば、確かに、「ベーシックインカムはテクノロジーによって担保される=働かなくてもいきていける」という世界は成り立つ。

そう考えた場合、この「なくても人はいきていけるけど、あると便利だからなりたっている産業」は、まさに「働きたい人が、自己実現のために働く産業」になるのかもしれない。

そんなことを昨今の移民の議論などをみていておもいましたー

意思決定してきた数

最近、「経営陣(VPとか)」に求められる要素は(それがなんであれ)、どのように得ることができるかという話を聞いて。

1つは「意思決定してきた数ではないか」というものがあった。

つまり、いままで数多くの失敗、成功の意思決定をしてきたので、「どういうところに気をつけないといけないか」といったマイナス面のヘッジもできるし、また「これだとこういう着地するだろうな」と予測もできる。

そのようなものは経験を経ないとわからないものである。もちろん本を読んだり、人から話を聞いて、様々なサンプルデータを集めることはできるが、ただ、その意思決定には、ありとあらゆる要素が関係してくるので、そう簡単には定理化できない。

その意思決定自体がどのようなものか、それの環境、それに関連する人、それの意思決定の責任者、市場環境などなど、主要なものだけでも10以上、細かいのも入れれば、数百、数千ものパラメーターが存在するだろう。ゆえに、「勝ちパターン」は出しにくい。特に会社によってカルチャーや関係者が異なれば、勝ちパターンが変わることもかなり多い。

Googleの方法が日本の大企業には当てはまらないのと同じで。

昔「なぜ、日本は年功序列で、年齢が上にいく人が給料があがるのだろう」と思っていた。1つは、年齢があがるごとにスキルが身につくからだと思っていた。ただ、この世の中では、必ずしも経験とスキルが比例するわけではない。役職者になるからという道理もあるが、役職者でないパターンもあるだろう。

そう考えた時、「意思決定の数が、その人のアウトプットの精度を高める」という前提があれば、年功序列も納得がいく。年齢が上(=経験が多い)の方が、意思決定の数は多いことが多いからだ。

ゆえに、数多の本では、「権限委譲をしろ」「失敗をさせることも糧」といわれているのは、こういうモデルがあるからかな。ちなみに、最近、ユニクロの柳井さんの以下のような言葉を聞いた。

「部下が提案した案が、自分の思いついた案よりも少しだけ悪いくらいならば、部下の案を採用せよ」と。これはマネージメントの意味合いでもあるし、あるいは、「自分の案を絶対基準にしない」という効用もあると思われる。そして、その不確実な部分こそが組織としてスケールする伸びしろになるのかも。Amazonの「disagree and Commit」の方針にも近い部分もあるかもしれない。

amazon payを使おうとしたら「3rd party cookie」の問題でひっかかった

BASE FOODをかってみようかと思い、決済画面へ。Amazon payが使えるとみて「こりゃ便利!」と。

しかし「3rd party cookieが無効になってるから使えません」というエラーが。ブラウザ上のエラー画面から、許可して再読込しても解決せず。

手動で、そのドメインを打ち込んでも解決せず。

↑しょうがなく、設定画面から「3rd party をブロックしない」という設定に。

すると、Amazon payの問題はクリア。今後、これにひっかかる人ふえそうな印象。

僕らはスタバで生まれ育った

ノイズキャンセリングのヘッドホンなどが数年前から人気だ。会社でも、普通にそれらをつけている人が増えた。

ノイズキャンセリングとは名前の通り「騒音がない」イヤホンである。ぱっと聞くと「耳栓のこと?」と思い浮かぶが、効用としてはそれが近い。騒音が消えるのだから。

ただ、仕組みは耳栓とは大きく異なる。耳栓は、耳に詰め物をして、外からの音が入ってこないようにする仕組みだ。

ノイズキャンセリングは、音を出して騒音を消す。具体的には、こうだ。まず、音は波だ。すなわち、あがっている波に下がっている波がぶつかれば、波が消える。+とマイナスがぶつかって0になるように。この波の仕組みを利用している。

ノイズキャンセリングは、外から入ってきた音を認識して、それと逆の波を発信し、音をぶつけて騒音を消し去っている。いわば、ノイズキャンセリングは、騒音と逆の音を出しているのに、それが無音を生み出している。

音を出して音を消す。まるで禅問答のようだ。

ただ、「無音」よりも、少しの騒音の方が人はリラックスできる人もいるという。会社の人でも「カフェの騒音を録音したYouTube動画を聞いている」という人もいれば「テレビの砂嵐の音を聞いている」という人までいた。母数が6人の中で。「テレビの砂嵐を見る」というのは、昭和における「エッチなビデオを見ていたら、急に子供が起きてきて、慌てて消したから残っているテレビの砂嵐」の比喩表現だと思っていたのだが、現代では、実際にその音を心地よいと思う人がいるらしい。

あとカフェの音は、個々人の音声が漏れているので個人情報はどうなるのかは気になった。売られているものならば、ダミー音声だろうが、実際に録音されている音もあるようだ。うかつに外で人の話できないな。将来、声紋検索ができるようになったら、自分がどこかで喋っている声がアップロードされていたら、気づけるんじゃないかとか。

音といえば、「うみやまあひだ」という動画を以前、先輩に教えてもらったことがあるのだが、そこでのエピソードが興味ふかかった。

人間が知覚できない音の領域がある。たとえば、スーパーソニックサウンドで、いわく「可聴域を超える周波数成分を持った音」。しかし、この音が人には心地よいという。ただ耳では認識できない音なので、肌で感じるというのだ。人は音を耳で聞くだけにあらず。肌で聞く。ゆえにフェスのウーハーや、まつりの太鼓が気持ち良いのかもしれない。

そのスーパーソニックサウンドはアマゾンの奥地で最もきけるという。そして、それが日本でもっとも聞けるのが、伊勢神宮
だという。パワースポットと言われていることに科学的説明がつけられるようになった。

人間がこの音を心地よいと思うのは、やはり地球は昔は山林で、その中で生まれ育ったからなのかもしらんなー。いま、僕たちがカフェの雑音が気持ち良いと思うのも、僕たちは、スタバで生まれ育ったからかもしらん

少子高齢化の社会で投票はワークし続けるのかとかとか

先程の投稿でも書いた「年金」の仕組みにふと思いをはせたり、こないだ名著、サンクチュアリを5度目くらいに読み返していて、さらにいえば、「ハウス・オブ・カード」もみていて、頭が少し政治脳

いまの民主主義制度の仕組みである投票は、原則、「未来は明るい」前提になりたっている制度なのではないかと思った。つまり、人口は増え続ける前提にたっているのではないかと。

なぜなら、いまの日本のような逆ピラミッドの場合、投票で反映されるのは(ひとしく全員が投票するとした場合)、上の世代の民意である。上の世代は、経済学の前提である「合理的人間」を前提にすれば、「死ぬまでに逃げ切ればいい」というモチベーションになるので、「年金のあと送りは嫌だし、社会保障は増やして欲しいし、若い世代の税金は多くしてほしい」というようになる。つまり若い世代に負担をかける仕組みになりやすい。そして、それは「いまだけがよければいい」という仕組みになる傾向にある。これは、「そうなっている」というのではなく、「自分の利益を最大化する」という制度を取り入れるならば、そうなるだろう、という話である。

逆に、人口が増え続けるなら、若い世代の民意が反映されるから、「未来を考えたもの」になる上に、「若い世代のその利益は、次の世代に渡される」ということなので、利益はバトンパスされていく。上の世代にふっかけた負担はいずれ自分たちがかぶることになる。それはそれでうまくバランスが効く結果となる。

日本のこの少子高齢化の社会では、この「民主主義」が国の制度を壊す仕組みになるんではないかなぁとかつれづれに思って(さらにいえば、世界は、いずれ、どこかで人口が頭打ちになると仮定すれば、世界中で起こる問題になるんじゃないかなぁとか)。別に日本の批判をしたいのではなく、制度のバグとして。

そんなことを考えていたら、「若い世代の票の重みを増やす」という投票の仕組み(いわば、年代別の一票の格差是正)が必要なんじゃないか。大学時代でそんなの習ったかな、と思って、検索したら、まさにそのような論文を発見

»「余命投票方式」の移行可能性に関する一考察

「現行の投票方式」から「余命投票方式」に移行できた場合、政治的意思決定の時間的視野が
長くなることから、政府投資割合は増加し、勤労世代や将来世代の効用が改善する可能性
があることが分かった

おー。やはり〜。

※ねんためですが、上記の所感は、いまの与党どうこうや上記の社会方針をどこかの政党に重ねる意図はない

60年はたらく時代

年金受給年度の繰り上げが検討されている

»厚労省:年金受給開始の繰り下げ試算 月10万円増も – 毎日新聞

私たちが年金をもらう頃には、70歳が当たり前になり、場合によっては80歳になっていることもあるかもしれない。寿命が伸びれば、その分だけ年金が必要になり、バランスをとるためには、受給を遅らせる必要がある。しかしながら、医療が発達し、健康度もあがれば、働ける年齢も長くなり、それにそって後倒しになるのは、合理的といえば合理的なのだろう。

ただ、年齢があがったとて、世の中にそれに応じて必要な仕事が増えるわけではない。IT企業が若者が主軸なように、新しい産業には若い力が求められる。仮にIT企業で考えた場合、今後、ある程度、平均年齢はあがったとて、70歳や80歳が主力であることは少ないだろう。特に、IT企業などの新興企業は旧来の事業よりも栄枯盛衰が激しい。現時点では、その人のスキル以外に、「長くその会社にいる」ということが力を持つ場合もあるが(例:誰に何を頼めばいいかわかる、その会社のルールに従って事業をすすめる)、それも意味を持たなくなる。また少子高齢化を考えると、いままで成り立っていた「若い労働力を安く使う」という仕組みも破綻していく。

ましてや終身雇用は終了し、会社の雇用の方針も代わり、流動性はますます高くなる。

そう考えると、多くの人たちにとって、「その会社でずっと働ける」という選択肢はなくなり、常に、自分の市場価値が求められることになる。経験がそのまま価値に紐付けられていればいいが、同時に加齢とともに革新性などは失われるので、それを埋め合わせる必要もある。

そう考えると、一般的には、これからの日本で働くひとたちは、どこかの年齢を分水嶺にして、「いまよりは給料が下がる」という分岐がくる。ずっと右肩あがりで給料があがるような仕組みは、上記を元に考えると、なかなか成り立ちにくいからだ。

回避するには
・上記の通り、衰えゆく基本能力を埋め合わせる以上の経験を積む
・海外など、市場自体が盛り上がっている市場に戦いの場を移す
・副業など、働く時間を増やす
・お金の現在価値を生かして、いまもっている資金を資産運用にまわして、それを武器にする
くらいだろう。

もっとも、AIが普及し、ベーシックインカム的なものが普及すれば、それはそれで別のランドスケープがあるかもしれないが、それはベストシナリオとしてとっておくべきだ。

もちろんこれらはすでに各種の議論や本で述べられていることに目新しさはない。ただ、実際に、「20歳から80歳まで60年働く」ということを前提に、働いている人は少ないように思う。

もし、それを前提にするならば、経験と効用が比例しやすいスキルを選ぶべき(例:10年で、そのスキルが最高になってしまうような職業だと、50年間は給料があがらないということになる)だが、そうもあまり見えない。AIでなくなってしまう仕事が数多く議論されているが、それの多くは実際に起こることだろう。ネットが登場してここまで普及したように、あるいはモバイルの歴史でもいい。テクノロジーの進化はおうおうにして1次関数で進む。つまり、偶発的な革命ではなく、じっくりちゃんと起こっていく。そう考えると、その産業にいる人たちは、今の痛みを覚悟してでも、60年労働社会を見据えて、キャリアを選んだ方がいい。もっとも家庭の問題や、いまの就職事情がそんな簡単ではないので、安いことではないだろう。とはいえ、それと引き換えに、「20年後、なくなるかもしれない産業に、あと60年働き続ける」というワーストシナリオは覚悟する必要がある。

30年後、その仕事が、「蒸気機関車のかま焚き」のように今は消えてしまった職業になる恐れは、いまの時代、どの産業にもあるのかもしれない。逆に考えれば、2000年前からある、「語り部(占い師)」「銭湯屋」「風俗」なんかは、今後、1000年たってもあるかもしれないが。

そんなことを、このニュースをみておもつた