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めんどくささの美学

最近になって「めんどくささの美学」とでも言うようなものを理解できるようになった。少しづつだけれど。

どういうことかというと、人は元来めんどくさがりやである。あらゆるものは理路整然と綺麗に効率的に並べられている方が好まれる。オペレーションエクサレンス。ロジスティクス最適化。

たとえば、机から手の届く範囲に本棚があると便利だし、システムキッチンな合理性、ないし、帰社時にあるコンビニの便利さ、とかとか。

で、個人的にも従来は、そのような効率性原理主義でした。

でも、最近、ふと「めんどくさい(遠回り/手を煩わせる)」ということが大切な時もあるような気もしないでもない、と思う時がある。

たとえば。わかりやすい例で言えば収納。

机の周りに全てをおいておけば便利である。しかし、そうすると机の周りがモノだらけになる。

あまり使わないものは、戸棚へ。あるいは収納へ納めておく必要がある。

あるいは靴。靴をメンテする人がいる。

汚れを落として、ワックスを塗って、ブラシで磨いて。

これって、使い捨ての靴には必要ない。メンテはめんどくさい。でも、このメンテが楽しかったりもする。

あるいは、手巻きの腕時計。毎日まかなければいけない。非常にめんどくさい。

でも、その巻くことが自分にリズムを造り、ロイヤリティを高める。

このような「手を煩わせる感」というのが、味があるというかなんというか。

これってば、心理学的に言えば、恋愛にだって(わがままを評価する)、買い物にだって(手に入らないものほど欲しい)起こりうる。

もちろん物語(映画/小説などなど)だってそうだ。障害がある方が盛り上がる。

料理だって、「手の込んだ」という前提が、味という本質よりも価値を持つ場合があるし旅行の「行くのが大変」というプロセスに重視をおく人もいる。

こうかけば当たり前で、だから?となるのだけど、効率性原理主義者としては、実はこういうことが「なるほど」という発見だったわけです。

A地点からB地点までをタクシーと自転車でどっちが早いかを考えるよりも、時には散歩することの方が価値がある、ということにやっと気づくような(誇張あるけど)。

もっと言い換えるならば、不便性の美学というか。

たとえば、モノって多くを持っている方がいいわね、と考える価値観が戦後とかはあったかもしれない。

でも、これだけモノが溢れる現代では「モノがない」ということの方が、実は尊いんじゃないか、なんてことを思ったりする。

たとえば、どこまでモノを減らせられるか、というような。あるいは出来るだけ少ないモノで効率的に多くの用途を満たせるかというような(例:十徳ナイフ)。

そんなことを思いながらモノをどんどん減らしていったりする。本ってないのは不便だけど、iPadで代用できるならば、そっちを取るというか。

カロリーだってそうだよね。陳腐な例だけど、平安時代などはふくよかな方が美しいとされていた(最近までだっけ?)。でも、過食(手垢にまみれた表現)の現代においては、逆にカロリーコントロールできた方が素敵な感じとされることも多い。

つまり、「めんどくささを除外すること」に文明が進んでいるからこそに、その逆行の方が尊いという見方もあるというか。

なーんてことを思って、今日はトランクを捨てた。