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秋である。

秋といえば、読書の秋である。

しかし、通勤をしなくなって、めっきり読書をする時間が減ってしまった。せいぜい飛行機を取る時くらいのものである。

あるいは、スマートフォンの普及で、空き時間でもさくっと本を読めるようになった。

エレベーターをまっている時間や乗っている時間。またはランチをまっている時間。はたまたパソコンが立ち上がる時間。

今まで分散していた細切れ時間に、ポケットからふっとスマフォを出すだけで読書が可能になった。

これは読書のイノベーションである。

今まではハードカバーはおろか携帯性を持たず、文庫本とはいえ、常に持ち運ぶには課題があった。

しかし、スマフォに電子書籍さえあれば、いつでも読むことができる。

また、急に電車やタクシーに乗る時も、本いらずである。あまりカバンを持ちたくない1人としては、ポケットに入りにくい文庫本の携帯方法は課題だったのだが、これで解決することとなった。

どうでも良いが、最近、iPhoneで読んだ本としてはパラレルがある。非常に名作である。※自炊した

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しかし、同時に、長い物語よりも短い物語を好むようになる。

なぜなら、1冊の本を読むのに、仮に90分かかるとすれば、エレベーターの時間だけで読み進めていると、エレベーターが片道1分で帰りと合わせて2分としても、90分を割ると、45日もかかってしまうからである。

さすがのこの遅遅としてすすみでは、最後のエピソードにたどり着く頃には、最初の伏線を忘れてしまっている。

よって短編や、ないしはショートストートリーが重視される。

ということで、昨今は短編を読むことが多い。

一説によると、短編は「のめり込むまでに時間がかかり、のめり込みそうになったら話が終わっている」と言われることもある。

しかし、同時に短編だからこそ完結する世界もある。つまり、それは短編を長編の一部と見るか、ないし短編はいくらのばし重奏にしても、長編にはたどり着かないという考え方である。

基本は後者の考えが主流だろう、と想われる(手法も含まれ)。しかし、同時に村上春樹の蛍のように、短編から長編を紡ぐ物語だってある。

CMソングもサビだけを造って、そこからフルコーラスが生まれることもある。

この短編のあり方が個人的には好きだ。というのも、人生は、そういうもので。

街中で人を見かける。誰かを待っている人もいれば、花束を買おうとしている人がいる。ほろ酔いの人もいれば自転車でジムに急ぐ人もいる。

彼らを見かけている限りは、そこからどこにもたどり着かないけれど、一つ想像力を使えば、そこには彼ら/彼女らの人生がある。

たとえば、職場で隣の席の誰かが「秋ですね」という。そして「紅葉だね」なのか「学園祭」なのか解らないけど、何かしらの話が加えられる。

それは短編で言うならば「秋」の物語はそこで終わる。しかし長編的に見るならば、隣人がいった「秋」は、いろいろ彼/彼女の人生を背景に持った秋で。

たとえば、その前日に恋人と「スポーツの秋に関して、フットサルの話」をしたのかも知れないし、出社前にニュース番組で「秋祭り」のニュースを見たのかも知れないし、あるいは、その日の夜に「食欲の秋」と称して鍋でも囲むのかも知れない。

ないし、背景なんて何もないけど、とりあえず隣人と会話をしたかったのかもしれないし、あるいは、たまたま秋という言葉が出てきたのかも知れない。

なんてことを考えていると、今日も1日が終わる。

六本木にて

仕事帰りに六本木を通る。

六本木は、ファンキーな人が多い町である。よって、ファンキーな光景を多々見かけることもある。

たとえば。

たとえば、先日見かけたのは、ある休日の24時くらいの出来事。あるイタリアンの店が閉まっていた。そして、シャッターが閉まっていた。

しかしシャッターには除き穴がついていた。それを覗く人がいる。

カップルだった。男の人が、そのシャッターの中(=イタリアンの店内)をのぞき込み、そして、彼女(らしき人)が、「やめなよ、早くいくよ」と腕を引っ張っていた。

何度か彼女が彼の腕を引っ張る。彼は見続けている。そして、諦めて彼はシャッターの穴から目を離し、道に出ようとする。

すかさず彼女がシャッターの穴をのぞき込む。彼も慌てて、それに追いつき、一緒に穴をのぞき込む。

あの穴の中に何があったのかは知らない。情事なのかもしれないし、新しいピザのお披露目会なのかもしれないし、もしかすると何もなかったのかも知れない。

おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ

とのたまったニーチェ先生の言葉の如く、彼らは僕に覗かれていて、でも、覗いている僕は、その彼らが覗いている先のものは解らなくて。

今でも、たまにそのイタリアンの店の前を通ると、シャッターの穴が気になるけれど、マルコビッチになるのが怖いので覗かない。

またある金曜日の夜の話。

またも仕事帰りの25時か26時の頃。ぐでんぐでんに酔っぱらったカップル。西麻布方面だと、実際に寝ている人もいるけれど、そのカップルはまだそこまでは酔っぱらっていない。

男は40から50歳、女性は25から30歳前後。場所と服装を鑑みるに、夜の仕事中の女性とお客の仕事帰りの男性なのだろう。

彼女の手を引っ張り、六本木の地図の看板に彼女を押しつけ、戯言をしゃべる男。まさに「タワゴト」という表現がこれほどしっくりくる場所もない。

そこで彼はいう。「俺の名前は何だ。言ってみろ」と。そして口づけをしている。

なんとも、風情のある言葉である。

千と千尋のラストシーンを髣髴させるような、そして、そこからアニメ繋がりで「美女と野獣」まで思い出し「おお、彼の名前をきちんと言えれば、彼は美男子に戻るのか」という想像までたどり着くこと請け合いである。

あるいはRihanaのWhat’s My NameをBGMにしながら、

hey boy I really wanna see if you can go downtown with a girl like me

といったフレーズがダブって見える夜で。そんなこんな。

恐らく昔の六本木の華やかさとは違うのだろうけど、それでも、なんだか色っぽい町だなぁ、と思う昨今でした。

議論のセクシーさ

数年前のメモを見ていたら「正しさを主張すると色気がなくなる」ということを書いてあった。

誰か周りの人の言葉だったりしたらごめんなさい。出典の記載漏れです。

いずれにせよ、なかなか興味深い観点やね、と思った。

というのも、時に、議論というのは「正しい」「正しくない」という判断基準では収まらないことが多々あるからだ。自明の断りとして。

たとえば、「上が黒といったら白でも黒」だかなんだかという言葉があるように、時に「上が言っているかどうか」が議論の焦点である場合もあり、あるいは「賛同できるか」がポイントになることもある(cf アメリカの陪審員制度を扱ったハリウッド映画)。選挙の場合は「どれだけ多くの人がYESといっているか、でもある。

そんな折「その立ち位置がセクシーであるかどうか」という軸もあるような気がしている。

そういえば関係ないけど、マーケの大家ゴーディン氏も「トム・ピーターズのサラリーマン大逆襲作戦〈2〉セクシープロジェクトで差をつけろ! (トム・ピーターズのサラリーマン大逆襲作戦 (2))」で、セクシーという言葉を使っている。

「セクシーなプロポーザル」というのは、いわば、「ぐっとくる」軸を攻めた立ち位置であり、それは「正しさ」を度外したところに価値がある。

それが冒頭の表現で言うと「正しさを主張すると色気がなくなる」とも繋がる。

いわば「正論を貫いても物事は動かない」ということにも似ているかもしれない。世の中には「正論」原理主義の方もいらっしゃり、「べき論」を多様される。

で、それに対しては「正論では物事が動かない」という意見も、「それを踏まえつつも、正論は貫き通すべきだ」という意見もあるだろう。

いずれにせよ間違いないのは「正論」にはセクシーさがないのだ。いわば、ヒンドゥー教とイスラム教、ファンダメンタルとテクニカル、グリーンピースと捕鯨業者、ドラクエ派とFF派、男性と女性、これらのポジショニングトークの響きのような。

もし正論を貫くならば、「正論を落とし込む」ところに色気を振りまくべきであって、「正論の正論性」に力を注ぐのは、「数字の2は1より大きく3より小さい」と声を上げているように聞こえる、気がする。「So what」となるような。

誰かの話で、「寿司好き?」「温泉好き?」と女性に聞くのは愚問である、という話を聞いたことがある。いきとしいける女性はおしなべて「温泉」と「寿司」が好きだからである。

ゆえに「寿司好き?」の質問は「So what」ではなく「Shall we」であるべきであり、そういう意味において「べき論」よりも「たられば論」の方がセクシーである。もしもあなたが「寿司が好きならば」みたいな。

ちなみに2011年は「「セクシー素数」の年」だそうだ。さらに、蛇足すると森博嗣の「すべてがFになる」によると、孤独な数字は 7である。よって、孤独さ(7)とセクシーさ(6)は、隣り合わせ。

なんて。

トマトはドM

トマトはドMだそうである。

どういうことかというと、トマトは厳しい環境下で育てた方が、よりしっかり育つそうだ。

そんな話を聞いて、厳しい調教を受けているトマトを想像する。

村上春樹の小説で「明治屋の野菜は、夜中、調教を受けている」というようなフレーズがあった。実際、明治屋の野菜価格プレミアムは、そのような特殊な技能による価値なのかもしれない。

そもそもトマトの赤みが猥雑ささえも持っているように誤認してしまう。そしてあのキッチュな赤色とあの卑猥な曲線との組み合わせは、アールヌーボーとポップアートの邂逅かとまで勘ぐってしまう。嘘だけれど。

いずれにせよトマトはもっと評価されてしかるべき食べ物である。

たとえばカプレーゼ。あのトマトのシンプルかつパンチの効いた効用は、トマトでしか果たせない大役である。そして何よりモッツァレラとの絶妙なる色の配合は最早、自然の神秘とでも言えよう、とか云々。

そういえば、最近、トマトに関する本を読んだ。

確か、ブラッディマリーに関する物語だ。

ブラッディマリーは、ご存じカクテルの一種。ウォッカとトマトジュースの配合で、タバスコをプラスアルファ。

そのカクテル名「ブラッディマリー」に関する物語。

そうそう。Story Seller〈2〉 (新潮文庫)だ。この中の沢木さんの物語。

蛇足だけど、このSutory sellerの1を友人から進めてもらって読んだのだが、めっぽう面白かった。

有名作家の中編集だが、どれもパンチが効いている。その中でも、有川浩の「ストーリー・セラー」 がオススメと伺ったのだが、これがまた何とも秀逸。是非、ご一読下さい。

話を戻すと、そのブラッディマリーの名前には、ブラッディ(血)のメタファーがトマトに使われている。いわば、トマトは血を表すのである。

だからこそトマトは何かしら妖艶さを持っているのかもしれない。

よく考えると料理にトマトってよく散在しているような気がする。

オムライス(ケチャップ)、カレー(生トマト)、パスタ(トマトベース)、ピザ(ソース)etcetc。

ああ、イタリアンや洋モノには活躍するってことか。そういえば、世界三大祭りといえば、リオのカーニバル、岸和田のだんじり祭り(嘘)、スペインのトマト祭りですが、そう考えると、まだトマト祭りだけ参加できておらず、一生のToDoに入っています まる

あとフルーツトマト。あれは最早、トマトの領域を凌駕して、次世代トマト領域に入ったのではないだろうかと日々考えている。

野菜なのにフルーツという二律背反を違和感なく両立させてしまうハレンチさは、トマトだけが許される横暴なんではないだろうか。

とかなんとか阿呆なこといってないで寝よう。よきトマトライフを。

めんどくささの美学

最近になって「めんどくささの美学」とでも言うようなものを理解できるようになった。少しづつだけれど。

どういうことかというと、人は元来めんどくさがりやである。あらゆるものは理路整然と綺麗に効率的に並べられている方が好まれる。オペレーションエクサレンス。ロジスティクス最適化。

たとえば、机から手の届く範囲に本棚があると便利だし、システムキッチンな合理性、ないし、帰社時にあるコンビニの便利さ、とかとか。

で、個人的にも従来は、そのような効率性原理主義でした。

でも、最近、ふと「めんどくさい(遠回り/手を煩わせる)」ということが大切な時もあるような気もしないでもない、と思う時がある。

たとえば。わかりやすい例で言えば収納。

机の周りに全てをおいておけば便利である。しかし、そうすると机の周りがモノだらけになる。

あまり使わないものは、戸棚へ。あるいは収納へ納めておく必要がある。

あるいは靴。靴をメンテする人がいる。

汚れを落として、ワックスを塗って、ブラシで磨いて。

これって、使い捨ての靴には必要ない。メンテはめんどくさい。でも、このメンテが楽しかったりもする。

あるいは、手巻きの腕時計。毎日まかなければいけない。非常にめんどくさい。

でも、その巻くことが自分にリズムを造り、ロイヤリティを高める。

このような「手を煩わせる感」というのが、味があるというかなんというか。

これってば、心理学的に言えば、恋愛にだって(わがままを評価する)、買い物にだって(手に入らないものほど欲しい)起こりうる。

もちろん物語(映画/小説などなど)だってそうだ。障害がある方が盛り上がる。

料理だって、「手の込んだ」という前提が、味という本質よりも価値を持つ場合があるし旅行の「行くのが大変」というプロセスに重視をおく人もいる。

こうかけば当たり前で、だから?となるのだけど、効率性原理主義者としては、実はこういうことが「なるほど」という発見だったわけです。

A地点からB地点までをタクシーと自転車でどっちが早いかを考えるよりも、時には散歩することの方が価値がある、ということにやっと気づくような(誇張あるけど)。

もっと言い換えるならば、不便性の美学というか。

たとえば、モノって多くを持っている方がいいわね、と考える価値観が戦後とかはあったかもしれない。

でも、これだけモノが溢れる現代では「モノがない」ということの方が、実は尊いんじゃないか、なんてことを思ったりする。

たとえば、どこまでモノを減らせられるか、というような。あるいは出来るだけ少ないモノで効率的に多くの用途を満たせるかというような(例:十徳ナイフ)。

そんなことを思いながらモノをどんどん減らしていったりする。本ってないのは不便だけど、iPadで代用できるならば、そっちを取るというか。

カロリーだってそうだよね。陳腐な例だけど、平安時代などはふくよかな方が美しいとされていた(最近までだっけ?)。でも、過食(手垢にまみれた表現)の現代においては、逆にカロリーコントロールできた方が素敵な感じとされることも多い。

つまり、「めんどくささを除外すること」に文明が進んでいるからこそに、その逆行の方が尊いという見方もあるというか。

なーんてことを思って、今日はトランクを捨てた。

安上がりの幸せ

今日、靴下を干すハンガーを新調した。
元々はプラスチックのものだった。引っ越しした時に、とりあえずで買った一品だ。色もイマイチだったがリニューアルまで至らなかった。
しかし、先日、太陽の光を存分に浴びたソレは、いつしか朽ちていった。パラパラとつまむところが落ちていった。
こりゃいかん、と新調した。
ステンレスのシルバーの一品。雨にも強いし、色も、タオルハンガーと同じだ。気持ち良い。
これで靴下を干すのが少し楽しくなった。
小さな幸せ。
村上春樹は「小確幸」という概念を提唱していた。
「小さな、確実な、幸せ」ということで、例示として「早朝のまだ誰もはいっていない、静かなプールで泳ぎだす一瞬」などを上げていた。
そのような小さな幸せは、時に静かに人生を色付ける。
大きくはないし、イベントではないし、人と共有するものでもない幸せなのだけれど、そういうものたちが人生を結局のところ彩るのだ。
毎日結婚式が行われるわけではなし、毎週運命の出会いがあるわけではなし、毎年家を買うわけではなし。
そうではなく、日々に埋もれる小さな出来事の総体を人は人生と呼ぶ。
たとえば、個人的には(前も書いたかもしれないけれど)、休日に朝シャワーを浴びて、外に出ると、初夏の風が吹いていて、そして太陽がまだ強く差さないけれど暖かく降り注ぐ頃の光を浴びるということが好きで。
あるいは、ブランチのコーヒーの匂いや土曜日夜のカウントダウンTV(最近は見ることもなくなってしまったけれど)や、映画の予告編やそんなものが小さな幸せだけれど、欠かせない幸せだったりする。
そして、どれだけそのような小さな幸せをかき集めることができるかが、モチベーション管理にも繋がるのではないかなぁ、と思ったりする。
宝クジで1億円をあてる幸せを願うより、朝食べるフルーツトマトの冷たさに幸せを感じる方がなんだか健全だ。
よく考えれば、私がマラソンを続けているのも、終わった後に飲む水のうまさのお陰かもしんない。

乾杯

かつて、とある人たちとお酒を飲む機会があって。
その時に乾杯を「サルー」と言う人がいて。
「スペイン語だ」というと「常識だ」と仰る。
「イタリア語と英語は?」と聞くと「cin cin, Cheers」と言う。
「凄いやん」というと「常識だ」と仰る。
よく聞いてみたら、六本木の高級飲食店でサーブをしているそうだ。
得心した。ネタを明かせば枯れ尾花。
それで、乾杯に関するコネタを思い出した。
ドイツ語で乾杯は2種類ある(3種という人もいる)
「Prost」「Zum Wohl」の2つ。で、ニュアンスももちろん違う。
そこでこのエピソード。
ある日本人の女性とドイツ人の男性がいた。Webで出会った2人で、ドイツ人は初めて日本にきた。観光だ。
リアルで初めてであった彼と彼女はいい感じで交流した。しかし、お互い、お互いの気持ちはわからない。
帰り際、最後の晩餐でドイツ人と彼女は乾杯をした。
ドイツ人は「Zum Wohl」といった。乾杯は「Prost」だと思っていた彼女は「何が違うの?」と訪ねた。
彼は回答しなかった。
ドイツ人が帰った。彼女はその意味をわからなかった。
しかし、その後、彼女は教えて!gooで違いを知る。
以下のような違いを。

PROSIT は豪快な感じなんです。
大きなビアジョッキをカツーンとぶつけあって太ったドイツのおじさんやおばさんがガハガハと笑いなが
ら陽気に飲み合う感じ。
しかし、灯りを少し落としたムーディな場所でステキな異性とのデートのような時にはおいしい白ワインでしんみりと恋を語りたいものですからそうした場合にはZum Wohl  なんです。
この場合は、チン!とグラスを鳴らしあった後、かならず相手の目を見詰め合って(恋人や異性でなくても)にっこりと微笑むのがマナーです。

乾杯の言葉の違いで、ちょっとした思いを伝えるってのが小粋だと思ったわけですが。
なお、こちらの挿話はここで見かけたネタを脚色してアレンジさせてもらいました。
ポイントは「乾杯の言葉の違いが見方の違い」って面白いわね、と思った。
ちょうど、「男性が自分に対して興味があるかどうかをアンパイに調べる方法」という命題を2件ほど別々で耳にしたことがあるので、こういうことをふと思い出しましたとさ。
あと、そういえば、先日、満員電車の「記事」を書いた後で、「男性が痴漢のえん罪に」というネタを耳にした(映画にもなったよね)。
で、現状、男性がもし疑惑をかけられた場合、自己の潔白を証明する方法は第三者の証言以外はほとんど難しい。
で、そこで「何かないのかな?」と考えていたところ、こういうことを思いついたのですがどうでしょうか。
痴漢をしている人は性的興奮を覚えていると仮定する。
そして性的興奮を覚えている人は平常時と異なった何かがあるとする(それが前後3分くらいは継続すると仮定)。
ならば、「痴漢です!」と言われた人で、黒の場合とシロの場合で、その差分をチェックすればいいんじゃなかろうか。
たとえば「ドーパミン」とか(可視化できなさそうだけど)。もっと分かりやすい方法もあるけどうやむやにして終わらせる。

音楽に泣くということ。

昔、音楽を聞いて、涙を流した人がいた。
それは歌詞の力だった。初めて聞く曲なのだから。
でも、それを見て「音楽は力を持っている」と思った。
またある時。車に乗っていた。
週末の六本木通りだった。ラジオから音楽が流れた。
Day Dream Believerだった。個人的にとても好きな曲だった。
横に座っている人がそれを口ずさんだ。
なんだか今度は自分が涙腺が刺激された。
別の話。
坂本龍一が若い頃は、邦楽をほとんど聞かなかった。
でも、ある時、北海道だかどこかに仕事にいってゲームセンターにいる時のこと。
音楽が流れ出した。それを聞いた坂本龍一は涙した(確か)。
中島みゆきの曲だったそうだ(うろ覚え)。
音楽は、記憶を揺さぶる。
それは時に歌詞によって。あるいは、海馬に埋め込まれていたメロディによって。はたまた、遺伝子に組み込まれたリズムへの同調によって。
その時、僕はモロッコのカサブランカにいた。
宿で出会った人が英語を学ぶモロッコ人の女優だった。彼女に連れられて、同行者と「その人の師匠」がいるホテルに遊びにいった。
上海の浦江飯店のような伝統と古さがこびりついたホテルだった。フロントの前には、大きなフロアがあり、そこがバーになっていた。
ピアノの生演奏があった。そこから、Let it Beが流れてきた。
遠く異国で聞くその曲は、それはそれでいつもと違うシナプスを刺激した。
またアフリカのガーナにあるケープ・コーストという場所にいた。
エビが美味しい街だった。海辺だった。奴隷時代の面影を残した街だった。
そこで、夜、マラリア蚊を気にしながら道を歩いていた。
すると、道ばたで踊っている人たちがいた。
道にウーファーを出して、がんがんに音楽をかけて、渾身の笑みで彼らは踊っていた。巨体を揺らしながら、そして太鼓を叩きながら。
村上春樹のスプートニクの恋人に出てくる太鼓はこんなリズムだったんじゃないかと思えるほど誘われるような響きだった。
遠目に長めながら、私はその光景を7年後の今思い返す。
小説でいえば、伊坂幸太郎の小説に「ボブディラン」のBlowin’ In The Windが使われていたものがあった。
その曲を一時期、帰宅途中に集中的に聞いていた。今でもこの曲を聴くと、六本木一丁目から六本木に抜ける坂道を思い出す。
アメリカにいる時に同級生に台湾の方がいた。
その日は初夏の気持ち良い日で、カリフォルニアの光が教室に差し込んでいた。控えめにいっても、とても気持ち良い午前だった。
卓上には、カフェテリアでいれたコーヒーと、幅の広いルーズリーフが置かれていた。先生を待っていた。
突然、彼女が「夏の思い出」を歌い出した。
夏が来れば思い出す遙かな尾瀬遠い空、と。
なんだと混乱しながら、その素朴なメロディが頭にこびりついて、今でも離れない。
音楽って素敵だわね、と思う。

マラソンする人に悪い人はいない

いつだか「マラソンをする人に悪い人はいない」という言説を耳にした。
そういう見方もあるかもしれない、と思った。
それは恐らく、「その人の周りでマラソンをしている人に悪い人がいない」という帰納的な判断と、もう1つは「あんな苦しいことを好きでやるなんて、おかしい。よって悪い人ではないかもしれない」という演繹的な判断があるのではないか。
もちろん、万事には例外があるもので、たとえ、ユナボマーがマラソンをしていても、別段、驚きはしない。
ただ、人は、人を判断するにあたり「絶対性」を求めるのではなく「仮定性」を求めるものである。
つまり、相手がどんな人なんかなんて、究極的には一切、わかるはずがない。自分でさえも分からないのだから。
よって、人の見立ては「いろいろな要素を組み合わせて、その人がどうである」と同定していくしかなく、そして、それは流動的に変化するものになる。いわゆる「いい人だと思っていたけど違った」というようなものや「悪い人だったけど、こういう面もあったんだ」的な話である。
同じ話は、マラソンに限らず「血液型」「話方」「表情」「目つき」「年齢」「出身地」「勤め先」「趣味」「学歴」「好きな音楽」「休日のToDo」「好きなブランド」「体系」などなどあらゆる要素で、人は、その人を判断する要素とする。
よく聞く例としては「新潟美人」「AB型だから変わり者」「食べるのが早い人だから、○○も早い」「アムステルダムとイスラエル、ラオスにいってるからあの人は○○だ」「携帯で絵文字を使いすぎる人は○○だ」「目が3つあるから邪眼だ」のように、人は「クラスターの傾向」を利用して、人を判断する。これは、良い悪いなく、そういうものだ。
個人的には「水族館(特にクラゲ)」「ロシア文学」「ヒューグラント」「パッカー(特に山)」「深爪」「自転車」あたりの属性を持つ人は「いい人評価」をしてしまう傾向にあります(当方バイアスによると)。
そして、「ビッグイシュー」をホームレスの方から買う見知らぬ人を表参道交差点で見かけて「へえ」と思ってしまうのです。良かれ悪しかれ。

見えない敵と戦う少年

先日、信号待ちをしていた。
隣で小学生1、2年生とおぼしき少年がいた。
少年はジャンプを繰り返し、たまにパンチを繰り出していた。
何と闘っているのだ?と見ていたところ、どうやら車の影と闘っていたようだ。
車の影をジャンプで交わして、その影に攻撃していた。
見えない敵と戦う少年がいる、と思った。
この話は別段、少年に限らなかったりする。実は「見えない敵と戦う人」は少なからずいる。
たとえばジャーナリストの知人は「真実を暴く!」という信念で戦地にも向かう。そこにいるのは、局地的には「政府」「隣国」などがあるかもしれないけれど、大きなところでは「見えない敵」と闘っている。
政治や国営に携わる知人もそのような人が多いかもしれない。
ブログなどのWebメディアでも「おうおう、そんな喧嘩腰にならんでも」と思うほど牙をむきだし闘う人たちがいる。時には不正であったり、邪悪(evil)であったり、あるいは偏りであったりするけれど、いずれにせよ、長期的には何かしら「巨大な見えない敵」と闘っていたりする。
そんなことを考えながら交差点を渡って、道を折れた。少し進んだ。
その道では、男性と女性が2人歩いていた。男性はスタスタと道を渡った。その道は2車線の2方面で信号機のない場所だから、少しタイミングが難しい。
女性はそんな折「渡れないよ」と男性に声をかけて、男性は中央分離帯で止まっていた。
道を渡るということの是非はともかくとして、そこで「渡ろうとチャレンジ」するかどうかが1つの闘いでないかとふと思った。
いわば「何かへの挑戦」が1つの見えない敵との戦いになるのかもしれない、と思う。
以前、「人生は差分だ」と書いたことがあるのだけれど、もしかしたら、人生は「挑戦の総和」で決まるのかもしらんな、とふと思った。