毎週、決まった曜日に走る人がいた。
そして、毎回きっかり同じ距離を走る。5キロ程度を30分くらいで流す。距離はわからない。コースが一定、というだけだ。
かれこれ10年近くになる。
昔はタイムを付けていた。すると風邪を引いている時でも、体調がいい時でも時間は3分以内の違いに止まった。雨であろうと、真夏であろうと3分以内の誤差だった。
ある習慣化された出来事というのは、その行為者のコンディションや環境に左右されず、愚直に邁進していくものだ、という哲学を彼はひっそりと心に閉まった。きっとそれを口に出して言えば、反証や例外が出されて、彼が持つささやかな走る哲学は少し濁ったものになってしまう。
自分の哲学というのは信じるために存在するものだ。それは一種の信仰にも近い。学問としての哲学は議論によって洗練を身にまとうが個人の哲学は真冬の指先を温めるアンカのように、ひっそりと存在すべきものなのだ。
その曜日に彼は走ることを欠かすことはなかった。雨の日は音楽再生機をタオルに巻いて走った。スニーカーは3度代わったけれど、それも彼のタイムを変えることはなかった。
走り終えると、定期的なエクササイズを行う。20パターンのストレッチと腕立て・腹筋・背筋の20回を3セット。きっかり行う。これを終えないと走るという行事は終わったことにならない。正月におみくじが欠かせないように、走るという行為には適切なエクササイズが欠かせないのだ、というのも彼の信仰の1つだった。
「痩せてるね」と言われることがあるかもしれない。でも彼は「走っているから」とは言わない。「そう?」と返す。走るという行為は彼の聖なる儀式であり、それと体系や体調と切り離して考えているからだ。
雨の日やクリスマスに誰かが言うかもしれない。
「雨の日くらい休んで、明日、走れば?」と。
あるいは「クリスマスなんだから振り返れば」と。
「そうね」と彼は応えるかもしれない。でも、黙って走りに行く。いつも通り、音楽再生機を右手に、左手に鍵を。
「そういうことじゃない」と彼は自分に呟く。「この曜日に走る」と決めたら、走れる限りは走ろうと思う。もちろん天災や外部要因によっては走れないこともあるかもしれない。でも、走れるうちは走るのだ、と決めている。
「やるところまでやって、だめだったらその時考える」という別の信仰を彼は持っていた。とりあえず走れるなら走るのだ。
もっともその曜日に海外に居たり、仕事の都合でどうしても走れない時は、すぱっと彼は走るのを辞める。ただ、走れるならば、とことん走るのだ。
コーヒーを飲む時も彼は信条を持っていた。
1杯目は、入れ立てのコーヒーをブラックで飲むというものだ。ポイントは「入れ立て」という点だ。
それは、どれだけ熱くても入って1分以内に彼はそれに口をつける。「アツッ」と決まった台詞のように彼は呟く。
しかし、そろそろと彼は熱いコーヒーを口に運ぶ。
「さましてのんだら」と誰かが言うかもしれない。でも、彼は「そういうことじゃない」と独りごちる。これはもはや、コーヒーとの対峙なのだ。コーヒーが熱くあるならば、彼はそれを受け入れようと思う。
熱がるのはこちらの都合で、コーヒーが熱いのは当たり前だ、と思う。
「ミルクを入れたら」という人もいるかもしれない。
「そうじゃないんだな」と思う。ただ「できだけのコーヒーを熱いうちに飲む」という哲学は、多分そういうことではないのだ。
※この物語はフィクションであり、かつ寓話であろうとする話です。
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内在する戦争
以下のニュースを見かけた。
» 「あけおめ!」イランがイスラエルに新年挨拶メールを誤送信 イスラエル側も返信「ことよろ!」:アルファルファモザイク
いい話だ、と「後で」思ったが、その前に「そういうこともあるのか」と思った。
というのも、イスラエルとイランだからだ。説明するまでもなく、深い深い溝を持った国同士。幾多の血が流れてきた歴史を持つ国。
戦争というのは、現代の日本においては、「海の向こうの話」という意識が強いから、どうしても希薄になるのだけれど、戦場は現代にも存在する。
私の拙い経験でも、やはり中央アジアや東アフリカ、イスラエルなどでは戦争があった。それが戦争という言葉で表現できるものか、あるいは、内戦という言葉で隠匿されているものかなどの違いはあれ。
血は止めどなく流れるし、死というものが日常にある。
蛇足だが、以下の村上龍氏の「海の向こうで戦争が始まる」というタイトルは秀逸だ。村上龍氏はネーミングセンスが素晴らしい。
講談社
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全てが淡々と並列
神経にピリピリくる描写にしびれる
技巧的には作者のキャリア・ハイか。
ビジョン
水墨画と詩人
そして、戦争という言葉で思い出す。
経営とは戦争だよ
という言葉。これは古来から言われているし、また、何人かの先輩からも耳にする。
実際、これは、戦争の定義をどうとらえるかによるけれど、戦は戦であろう。
ただ、それよりも問題は、今、日本に内在する見えない戦争である。
上記の「経営は戦争だ」という理論を国に当てはめてみれば、当然「経済戦争」という現実は、不適当な例えではない。
国を挙げて、経済の総力戦で各国が争っている。
戦争といえば、武器があり、主権同士の闘いがあり、または血が流れる。そのようなイメージとは違うから、気づきにくいけれども、日常で、国同士の戦いは常に生まれ、そしてどんどん進捗していく。
帝国主義時代のように領土をとられることはないけれど、お金を生命線ととらえるならば、そのお金が外に出て行き、また、戦力のKPIである頭数が減っているという現状は、戦争のメタファーから考えるにやぶさかではない。
ただ、これは今更言うまでもないことだし、日本の栄光の10年からその戦争問題は繰り返し議論されてきた(車の貿易戦争やタイムズスクエアを筆頭とする企業の買収戦争等など)。
しかし、ポイントは「そのような経済戦争は問題として正しいのか?」という思いである。
個人的に、国同士の闘いの正当性がいまいちわからない。政治学を学んだ1人として国の存在価値や、その「国民の利益を最大化するという理念」から考えれば、国をよりどころとする人々が、その帰属意識を高揚させるのは理にもかなったことである。
しかし、同時に国というのは、生まれながらに付与されてしまう所与条件であり、そのような先天的な条件をベースに戦をするというのは、なんだかフェアではないような気がする。
少なくとも個人のイデオロギーが国の総論でない以上、いくら前提条件が民主主義の制度によって国の総意が国民の総意と同義されていても、実質問題としては、建前でしかない。つまり、ベストプラクティスとしては、「人は自分のイデオロギーに沿って、自分の帰属を決定できるべき」という選択肢がある以上、上記の建前は、ベストエフォートでしかない。
つまり、「たまたま日本に生まれた」からといって、その国をベースに、経済戦争を闘うというよりどころがイマイチわからない。
スポーツを考えてみると、「チーム」は、自分の意思で決めることができるものであり(大枠は)、生まれながらにチームに所属するものではない。
とかくで、私は「国をつくる」という夢を叫ぶに至っている(端的にいえば、後天的に選択できる国籍による、帰属意識のポートフォリオ分散)。同時に私のライフワークであるブランド国家論も上記の経済戦争の問題をヘッジする方法の1つとしてしているに至る。まぁこれも別問題。これらは理論であって、現実問題はそれはそれとして別で考えなければいけない。
いま、我々が生きるのは現実であり、建前や理論の世界ではないからだ。
そこで、話を戻すと、「経済戦争が起こっている」という点は事実で正しいとする。そして、それの是非を議論するのは、別問題なので(価値観の闘争は神々の闘いに回帰するといったヴェーバー先生の箴言の通りに)、それも所与条件とする。
その上で出すべき問いは「戦争の相手は他の国なのか」あるいは「それ以外なのか?」という点である。
つまり、日本が経済で勝負しているのは、仮想敵国としては中国やアメリカをベンチマークしているような気がするけれど、それは正しいのか?という点である。もちろんこの前提に異論もあるだろうけど、大枠はそのような流れのような気がする。この辺りになってくるとマクロ経済学なので私の専門領域を超えてしまうのでツッコまれどころが増えるのだけれど、確か、国際経済は必ずしもトレードオフの力学ではなかった記憶があるが、そうならば、必ずしも敵国を想定する必要はないはずで、いわば奪いあうべきパイはかつては領土だったゆえに、排他性を持っていたけれど、経済や豊かさ、幸せなどは、不思議なことに、排他性を持っていない。もちろんある程度の排他性のメカニズムは働くけれど、それはもはや心理学の分野なので、ブータンのGNHを参考にすべし、という言葉で逃げる。
元来、アメリカは、仮想敵国をベースに成長してきた。たとえば、「フロンティア」であったり、「石油」であったり、あるいは「経済戦争」であったりした。またハリウッド映画でお約束の宇宙人や災害も、「外敵」を作ることに力を入れてきた。でないと、アメリカという人種のサラダボールはまとまらないからだ。そして、昨今は「エコ」を掲げ、「そのようなもの」に対する取り組みを国家プロジェクトで行うことで国民の共同幻想を作り出してきたし、また、それによる経済進捗を生んできた。
こんな馬車馬のような国は敵を必要とするのはわかるのだけれど、日本は、従来、農業で自分の食い物を育ててきた民族だ。ゆえに、必ずしも、戦争相手を外部に設定する必要はないのではなかろうか。もちろん、競争や相対化は学習の基本的なインセンティブのため、設定した方がイノベーションは生まれやすいから、それを否定するつもりはないけれど、もっと別の座標軸を持った方が日本らしいのではないか、と思う。
思い切り、脱線するけれど、昔から気になっているのが「お金の源泉とは何か?」という問題がある。
つまり、古来は「食べ物」がお金の変わりだった。それに貯蔵の技術が生まれ、そして、代替性として貨幣が生まれた。ここまではイメージしやすい。お金の源泉とは、農業である。
しかし、昨今は、食事をするだけならば、かなり低いコストで生きていくことができる。そう考えると、お金の源泉は農業ではない。
つまり、何を言いたいかというと、今、バイトを探せば何かはみつかるだろう(選ばなければ)。それで800円だかをもらうことはできるだろう。しかし、その800円の仕事を10億人がしたい、とすれば、その800円の仕事はなくなる。
つまり、800円の仕事の総和は限られている。では、800円の仕事の総和を増やすにはどうしたら良いか?800円の仕事をより増やすしかない。それをするには、資本家からの視点でみれば、800円の投資が800円以上のリターンを生む公式が成り立っていればよい。
よって、800円の仕事を1増やすには、800円以上の仕事を1増やす必要がある(もちろん、赤字を出す場合もあるから、実際問題は違う時もあるが、原則論はこうでないと経済が成り立たない。経済は合理的人間を前提に考える学問だ!)。
そうすると、800円以上の仕事1を増やすには・・・とエンドレスでそれは続く。よって、経済は、常に膨張を求める(ないし、労働人口の減少を必要とする)。エントロピー増大の法則みたいだ。まぁフーバーダムから言われていることだけど。
そう考えると、経済の源泉というのは「消費を創り出すこと」になるわけで、消費ってのは、競争力なんだっけ?(つまり、それは武器の代替品となるものなんだっけ?)という話に行き着く。
よって、ここでも経済戦争の問題って、何すれば誰が嬉しいの?という哲学的な問題にたどり着く。それは別段、「経済成長って善なんだっけ?アフリカの民族みたいな暮らしをしていた方がよかったんじゃね?」という牧歌的な問いかけではなく、競争力のコアって何だったけ?という素朴な疑問である。
企業でいうとコアコンピタンスだのの言葉で言われるコアな部分は定められているけれど、国レベルではそのようなものは設定されていない(国のグランドデザイン云々はあるものの、明文化はされていないし、原則的に、そんなアジテーションは企業の合理性と結びついた時にだけ有効なのであって、だからこそ政府と企業の癒着が起こるのは必然である)。
そもそも論でいえば、日本の国益さえも確か定義されていない。国の存在意義が「国益を守ること」なのに、「国益ってなーに?」とお子様に尋ねられると、日本人は誰も答えられないのだ。決まっていないんだもの。
よって結論としては、「日本の経済の敵ってなんだっけ?」「そもそも競争力の源泉ってどこに軸があるんだっけ?」というのが、最近、定義づけた質問でした。
質問が正しければ、回答はおのずと決まるという大江健三郎氏の名言に従うと答えは出ていない以上、質問の問いが悪いのかしら。ただ少なくとも1つの解は「国をつくる」のつもりだけれども。
そんなこんなをふと考える新春でした(いつぞやか「国つくる」の話をする機会があったので、ふと思い立って、一筆書きで書いてみました)。
なぜあの人は別れたのだろう?という問いに対する答え方
たとえば、友人Aと食事に行く。すると、共通の友人Bの話になる。友人Bは、最近、恋人と別れたばかりだ。
そこでたとえばこのような問いがでる。
どうしてBは分かれてしまったんだろうね
と。
この問いに対して、回答する人の傾向は2種類に分かれる。
1つは、「理由は○だよ」と明確な回答を答えたがる人。
もう1つは「理由は○○なんじゃない」と推論を重視する人。
もちろん前者は回答を知らないと出来ない回答だから、回答比率として推測が多くなるのは当然なのだけれど、傾向としては、前者の方が多い気がする。
つまり「本人がいたら聞く人」と「聞く前に仮説を立てる人」のような。
他にもたとえばこういうこと。
友人と食事をしているとする。その店の利益を知りたくなったとする。
その場合、推測が始まるわけだが、その個々の要素(賃料/人件費/回転率/顧客単価/収容人数/原価などなど)の「本当の数字」を知りたい人と「仮説を置いて推測したい」人の2種類いるような。
こういうたとえ話を聞いたことがある(前にも書いたかなー)
あるパーティでテーブルの上にのったワイングラスが倒れた。とある推理小説家は、「そのワインがなぜ倒れたかを推測」する。しかし、あるSF作家は「そのワインがどう倒れたら面白いか」という着眼点で考える。
つまり、何が言いたいかというと、会話で「ファクト(事実)」を求める人と「プロセス」を楽しむ人のようなくくりでわかれるのではないかと。
一般的に、会話において、男性は「結論」を求め、女性は「プロセス」を重視するという。そのため、女性のとりとめもない会話に男性は辟易することになり、女性は男性の剛直な結論への意思に飽き飽きするという(伝聞推定)。
いずれにせよ、この会話の嗜好性はけっこう重要な差な気がしていて。この指向性が違うと、会話で色々ミスマッチが起こりそうな気がしないでもない。
シンプルさと寒さ
書くネタがなかったので、とりあえず時候のネタをピックアップしてみた。
クリスマスねえ。なんかあるかな。そうだ。
中学生の頃のクリスマスのお話。
その頃は学生で。学生は平日も祝日も関係がないから、クリスマスは平日であろうと祝日であろうと、セレブレートされるべき存在だった。
1年生の頃だっただろうか。友人たちとクリスマスに出かけることになった。いわゆるグループで、そこには女性もいて。
1人は男勝りな人で、もう1人は勉強が出来た女性だった。
大阪に出来た南港というモールのようなところに行った憶えがある。学校がどうだったのか憶えていないが、朝早くから出かけたと思う。朝の寒さだけがうっすらと記憶に残っている。多分、8時なんかに家を出たハズだ。
休みの日に8時からどこかに出かけるなんて、若さゆえだろう。10時以降がデフォになって大きな年月が過ぎてしまった。
いずれにせよ、男性3人、女性2人のそのメンバーで、南港をぶらぶらした。中学生が、モールなんざいってもすることはない。それに今思い返すと、なぜ「3対2」という組み合わせなのかイマイチよくわからない。その辺の法則さえも無視するような頃合いだったんだろう。
写真を撮るのを楽しんで(使い捨てカメラだったように思う。その頃は、プリントに出すという伝統的な文化が重宝されていた時期だ)。そして食事をしてゲームセンターをいって、もしかすると映画くらいは見たのかもしれない。天使にラブソングはその頃だったろうか。
そして、帰宅してメンバーの1人の家でわいわい話をした。その頃、事件が起こった。
とある発言により女性が怒り、家を飛び出してしまった。
私がその人を追いかけることになった。中学生らしからぬ、思いやりである。
自転車で出かけたその人は家の外にはいなくなっていた。その頃の自転車と今の自転車は多分、自転車の持つ意味合いが違うような気がしないでもない。その頃の自転車はいわばジュディーアンドマリーの曲にある自転車だったのだ。
いずれにせよ。
そして、私も歩いてそこかしらを探した。結局、見つけられなかった。多分5時間くらいは探しただろうと思う。
いる確率が1%を切っている場所を延々と探すのは、なかなかタフな仕事だった。ただ、その「行為」が恐らく大切だと感じていた私は、徒労という言葉を踏みつぶして歩いていた。寒い1日だった。
部屋に残された友人と女性はしらけて、適当に散会したようだ。携帯電話もない時代で、連絡も取れず、ひどいクリスマスだったように憶えている。
全てが回りくどく、厄介で、4文字熟語である「紆余曲折」という言葉を邁進するような出来事だった。
その女性がなぜ怒ってでていったのか、今でもイマイチ理解できないし、理解する努力もしていないのだが、多分、それは、そういう時期だったんだと思う。
村上氏の言葉でいう「台風がきたら、じっとして通り過ぎるまで待つんだ」というような。
でも、その頃は村上氏の書籍はしらなかったし、そもそも、世の中が複雑だなんて知るよしもなかった。
その頃に比べて物事は幾分シンプルになったような気がするけれど、この時期の寒さだけはずっと変わらぬまま年をとっていく。
毎日ベッドで横になり普段はあまり気にしないけど、朝はガミガミとわめき散らすもの
件名の答えは「目覚まし時計」なんだけれども。
何が言いたいかというと、世の中の「コト」「モノ」というものは、「端的に言える」存在であることが多い。
たとえばニュース。ニュースは「件名だけで内容を把握する」ということが多い。それは古来から新聞の見出しの力としてもそうだったし、ないし、昨今はWebのニュースのタイトルもそうだ。
「○○容疑者が逮捕された」というニュースは、その一行が全てを表していて、内容はその説明や詳細となる。いわゆる「釣りタイトル」だと、そのタイトルと内容が乖離するが、これは上記の「タイトルの総括性」を逆手にとった仕組みなので、包括的には、上記の法則に則っている。
何が言いたいかというと、物事や出来事は、本来、とても「シンプルで在る」ことができる存在なのに、いろいろな説明や背景や修飾や形容により、時に複雑になり、時に重奏となる。
それはそれで何も悪くないし、それを否定すると世の中では「物語」というものが存在しない。
ユリシーズだって「人の思考をトレースした前衛的な物語」で終わってしまうし、失われた時・・だって「マドレーヌの挿話が有名なあるフランス人の長い話」で終わってしまう。「アンナカレーニナ」だって、「恋愛小説」の4文字でポイントは押さえられてしまう。もちろん、そこに「ロシア文学を代表する冗長ながらもその冗長さが癖になる濃厚小説」という形容を付け加えてもいいし、あるいは「最後悲しい物語」というサブタイトルをつけてもいい。
※一応注釈しとくと、上記はある種の諧謔であり、本来は上記の一行で表せるものではない
ただ、物事は「シンプルなポイント」と「そのポイントを拡大したその他全て」の2つから成り立っているような気もする。共産主義を理解するのに「必ずしも資本論」を読むことを必須としないように(そりゃ読んでるに超したことはないけれど)、あるいは、物語を書くのに百科事典を全て頭に入れておく必要がないように、物事は「必要なポイント」があり、それの付加情報で成り立っている。もっとも、その必要なポイントは人によって異なることが多いゆえに、物語は常に長くなっていくのだけれども。
昨今のミニブログと呼ばれるtwitterなどの隆盛は、そのような「ポイント」と「その他」の文脈で考えてみると面白い。140文字以内での投稿という制約は、必然的に人に「ポイントだけを述べよ(What’s the point?)」ということを強いる。英文が、最初に総論を述べることを強いるように、時に日本人にとっては、その「ポイントだけ述べる」という行為は新しい思考を求めるかもしれない。
というのも、日本語や、あるいは日本のカルチャーは往々にして、「まどろっこしい」ことが美徳とされることがある。たとえば「京都のぶぶ漬け」や「本日はお日柄も良く・・・(時候の挨拶とかも)」、「いやいやよもスキのウチ」「これでよろしかったでしょうか?」などなど例示にはいとまがない。
多分、それはそれでとても尊いもので。少なくとも、世界が「ポイント」だけで済んでしまうならば、そもそも「人生」でさえも、余剰のたまものであることを考えると否定すべき存在になってしまう。
でも同時に「ポイント」も重要で。たとえば、こういう世界だろう。海外に行ったときに「知っている語彙だけで会話する」というような。「私 これ 欲しい」「私 ここ行きたい」「高いよ」「買わない」といった簡潔で明瞭な言葉だけがコミュニケーションを支配する。それはそれでシンプルで何か気持ちの良いものだ。つまり、シンプルさはコミュニケーションを豊穣にする。日本では、「重厚なる文章」が高貴とされているのに対し、アメリカでは「より平易でシンプルな文章」が重宝されるのにも似ているかもしれない(一元化は危険だけれど)。つまり、わかりやすさは、より多くの人との意思伝達を可能にし、そして誤解を減らすことになる。
「妹の父親を育てた人の奥さんの孫」という説明よりも「私の妹」と説明できた方が、時には便利であるように。
土曜の夜に電話するやつに碌なやつがいない
これも、メモから引用。
土曜の夜に電話するやつに碌なやつがいない
恐らく1年以上のメモなので詳細不明。多分、書籍か誰かの話の引用の気がするのだが、例のごとく不明。
ただ、ここから何かしらの物語を想像してしまう。
前にある女性からこういう話を聞いた。男性とアポを入れる時は、その親密度によって提示する日時のオプションが変わるということだ。
- 1.親密度低の下
- 2.親密度低の上
- 3.親密度中の下
- 4.親密度中の上
- 5.親密度高
平日/金のランチ
平日の夜、食事
金夜、食事
土日祝のランチ
土日祝の夜、食事
なかなか興味深い、と思った。
何が興味深いかというと、「金の夜」よりも「土日のランチ」にアポを入れる方がハードルは高いという点である。
理由は、「土日はプライベートだから」らしい。この辺りの判断基準は人によって変わるだろうが、まぁ、一例として。ただ、確かに思い返してみれば「週末は基本的に異性との予定入れない」という話は、ちらちら聞いた記憶もあるので、そういうものなのかもしれない。
もし、諸兄が、誰かと食事行く時は先方から提示されるオプションから、角度を見極めてみるのはいかがでしょう(謎
あと蛇足ながら、別の人は「食事」「映画」「カラオケ」「遊園地」などの各アクションごとの親和性を算出していた。いわく、一番、親密度が高いのは「ドライブ」だそうだ。ふむ。
まぁ、ともあれ、このように「土曜日」は、聖域らしく。土曜の夜は、ゆったり食事して、ゆっくり風呂に入って、音楽でも聴いて、パックなんかをしながら読書をしているわけである(しらんけど、想像)。
よって「土曜の夜に電話する奴に碌な奴はいない」という言葉が導きだされるわけである。もう少し正確にいうならば「土曜の夜に、突然に電話をかけてくる異性に碌な奴はいない」ということなんだろう。
ロックな感じで。
ペットボトルで水を飲む
先日、打ち合わせで表参道を歩いていた。
すると、表参道の交差点を少し代々木よりに入ったところの石に座っている人がいた。外国の方だった。1リッターのペットボトルの水を直接、飲んでいた。
ワイルド、と思った。
確か、Evianだったと思う。手にはオニギリを持っていた。旅行なのかしら?と思ったけれど、わからない。
リッターのペットボトルの水を街中で飲む人はあまり見かけないな、と思った。だから、なぜかとても印象に残っていて。
別段、それが悪いわけではまったくなく(直接くちをつけてリッターの水を飲むことにマナー云々はあるとしても)、あるいは外国人だからそういうことをするのだ、という先入観があるわけでもなく。ただ、インパクトがあった。
なぜ、ペットボトルなんだろう?と考えた
自分の記憶として、街中でペットボトルの何かを飲んだのはスーダンのハルツーム近辺と、サハラ砂漠を越える時にモロッコのダグラからモーリタニアのヌアクショットへ移動前後あたりが強く印象に残っている。むしろ、某国では、歩きながら頭にペットボトルの水をぶっかけていた記憶さえある。
それらは、熱いためにそうしていたのだ、と考える。しかし日本は熱くない。
そうすると、喉がものすごい乾く人だから、か、あるいはペットボトルの方が量効率が良いから、などが考えられる。他にも、その水で街中の観葉植物に水をあげるからとか、それはいざとなったら枕にしてiPhoneの行列に並べるからとかも可能性としてはありうるが、かなり限定的だろう。
理由はわからない。
その人は女性だった。男性だったらワイルドで済む問題だろう。しかし、女性はあまり「ワイルド」の形容詞で呼ばれることは少ない(相対的に)。そう考えると、その飲み方は、一般的には、控える傾向にあるものだ。しかし、彼女はそんな社会通念を吹き飛ばすがごとく、グビグビと水を飲むわけである。角度的には、70度くらいの角度だろうか。そのような勢いで水を咽喉に垂直吸飲されていたわけで、なんというか、勇ましかった。
ペットボトルの水を、街中でグビグビのむというのは、何かしら蠱惑的な気がした。
それはたとえば他人に貸した歯ブラシがどこに置かれるかの問題やシュシュの存在意義とその可能性に纏わる課題にも相似した要素を含んでいるような気がした。
まったくメッセージ性もオチもないのだけど、何となく最近、記憶に残ったペットボトルでした。
Art
最近、周りでアート関係の話が出ることが多い。たとえば、純粋にアートが好きでしょうがない人から、空き時間には絵を描くようなプレイヤー、それを投資対象と考えている人から、CSRとしてのビジネス兼アート業界勃興に携わっている人からアプローチの方法はそれぞれだ。
思い返せば、ここ数年、とみにそのような話を聞く機会が増えてきた。実際、美術館の人気や写真・絵教室などの人気などを鑑みるに、それなりの妥当性があるのではないか。そこで考えたのだが、2通りの考え方がある。
・潜在的にアートに興味がある人は一定数がいる。そして、私が会う人が年齢的に、20代後半から30代前半になる。そして、そのような年代になると、上記の一定数の人はアートへの関心を発露する、ないし、公言するに至るという考え方
あるいは
・ここ数年、そのようなアートに興味がある人が増えてきた
という考え方
そして、どちらかというと後者の方が正しい気がしている。前者としても、ある程度はその傾向があるような気がするが後者の方がインパクトとして大きいような。理由としては、特にない。肌感覚である。
そして、その場合、「なぜ」最近、アートに興味がある人が増えてきたか、と考える。
シンプルな国内の変化を考えるに「閉塞感」「経済の停滞」「将来への不安(少子化などに纏わる問題、婚活の問題等)」などが思い当たる(異論もあるとは思う)。そしてかりに、このような「ネガティブな前提(=社会の変化)」と「アートに興味があること」の相関関係を考えてみる。
そうすると、1つの仮説ができあがる。
これまでGDP一辺倒の社会(いわゆるマテリアルワールド=資本主義社会)の流れできていた昨今。しかし、日本は、それに限界があることが見えてきた。そこで、その経済という指標のアンチテーゼとしてアートの存在が浮かび上がる。
もちろん、アートとビジネスは結びついている。しかし、ロックの源流が社会のアンチテーゼでもあるが同時にそれは経済活動の流れの1つとして取り組まれているように、時に、「指向性」と「現状」の矛盾は両立して存在する。
そして、そのような社会のミクロな変化は、上記のようにマクロの環境要因から推測できると同時に、そのミクロの変化をマクロの変化に還元する推測も可能である。そうした場合、アートが好きな人が増えてきた場合、どうなるか?
1つはアートの市場が確立される。絵や写真などでメシを食える人が増える。それは可能性としてはありうる。では、私の関心どころである国際政治で見た場合はどうか?上記のやっつけ仮説が正しいとすれば「経済が停滞すればアートに興味のある人が増える」ならば、今後、ますます、そのようなアートに関心を持つ人が世界レベルで増える。なぜなら、いけいけどんどんの経済成長は新陳代謝として、先進国から後進国に移るのが、諸行無常の世界の流れだからだ。もちろん、最先端でかけ続ける国もあるけれど、いつしかそのような国には停滞がくる。そしてアートへの自己同一性の投射先ニーズが高まる。ここでのポイントは「経済的に停滞感があるからアートへの関心が高まる、のではなく、『一度この世の春(=経済成長)を経験した国が停滞に向かう』場合に起こるという仮説(=中年の憂鬱現象)」である。
そうすると、世界でアート同士の競争が起こる。そして、それが経済と結びつく。しかし、本質として経済へのアンチテーゼがアートであったが、それが経済に取り込まれ、それが一定数になると両立していた矛盾は崩壊し、いつしか、それへの乖離が始まる。しかしながらも市場は出来ているので、ある程度のアート分野での国際競争が起こり、そして、それは再度、市場への取り組まれる(たとえばブルースの歴史のように)。
だから何?というのはない上に、こんなつまらない話をしてもしょうがないのでアート関連で聞いた興味深い話をいつか。うろ憶えかつ、それが正しいかどうかは未確認なのでご容赦をば。
油絵で塗料が使われる。その塗料は絵の具のように均一価格ではなく、塗料によって値段は大きく異なる。塗料は石などを削ってつくられる場合などがあり、その石の希少性が値段などに反映される。その中で「本当の赤」というようなものは値段が高いとかとか。なんだかロマンチック。
その中で1つ「クラインブルー」という青がある。イブ・クラインという人が編み出した「青色」だ。Wikipediaによると
1957年に、黄金よりも高貴な青「インターナショナル・クライン・ブルー」(International Klein Blue, IKB)と呼ばれる深い青色(右の画像は近似色)の特許を取得し、
とのこと。色にも特許があるというのは、なんだか色々考えさせられる上に「黄金よりも高貴な青」といえば、黄金よりも価値のある胡椒を思い出させて、なんだかロマンを感じざるを得ない。
また、印象派で人気のあるルノワール。そのルノワールの絵は、独特の肌感を表す色合いが有名だが、その色は、真珠を使った塗料が使われているとかいないとか(都市伝説の可能性あり)。
または、アルゼンチンは独特の色合い(カラフル)な家の色で有名だが、それの経緯は、もともと船着き場だったアルゼンチン。その港町では家家があったものの色を塗るペンキがなかった。そこで、船の色を塗ったペンキのあまりで家の色を塗っていった。そして、いつしか、町は船の色を表すようなカラフルな町となっていった、とか。
芸術という不明瞭な(中立的な意味で)市場に、新しい「何か」を見つけ出す人が増えるというのは、アーティストがキャンパスに「何か」を見つけ出すというフラクタルな構造を何か想起させてコリン ウィルソンの「アウトサイダー」における「見えてしまう人」を思い出させた。そして、あのCMのこのフレーズを思い出す。
彼等は人と違った発想をする。
そうでなければ、何もないキャンパスの上に芸術作品は見えて来るだろうか?
斜線
部屋から首都高が見えて。
芝公園だかなんだかの入り口から入ってくる車がいて。でも首都高の車の流れは早くて。スムーズに入れず合流地点で車が一度とまっていた。そして、車の流れが途切れるのを見計らって、入っていった。
アメリカのハイウェイだかフリーウェイを思い出した。アメリカでは、確か、すごい勢いで合流する仕組みだった気がするけどCA独特のものか、あるいは記憶間違いかもしれないけど、入るときに一度とまって入るという記憶はあんまりないような気がする。渋滞していたときは別だけど。たとえば朝のサンタモニカやパサデナだかどこかで一度とまったかもしれないけど、いずれにせよ、アメリカのハイウェイはとてもスピーディだった。それは車線の多さも関係しているのかもしれない。あるいは気質が関係しているのかもしれない。
大きな流れに飛び込むときは、一度じっくり考えて、立ち止まって飛び込むのか、あるいは勢いのまま、ぐんとアクセルを踏んで合流するのか、というか。
高速道路は何かしら哲学に満ちているな、と思った。村上春樹は、「カミソリにも哲学がある」と看破したが、そういうことなのかもしれない。あるいは、伊坂幸太郎は「人はあらゆるものを人生に喩える。川の流れだって」と看破したが、そういうことなのかもしれない。
カープールの話。日本人にはなじみがないけれど、アメリカのハイウェイのシステムで、複数人(2人以上だっけ?)の車両だけが走ることが許されたレーン。渋滞している時はそのレーンを走ると、すいすいと進むことができる。つまり、渋滞を緩和(車は複数人でのって車の数を減らそうぜ)させるための仕組みなんだと理解していた。つまり、大きな流れですいすい生きたいときは1人ではなく、複数人が良いのかもしれない、なんというか。
カーナビの話。車に乗っていて、カーナビの曲がる場所がいまいちわからず戸惑うことがある。三本の道が前にある時にどの道を指しているのかわからない時や、あるいは、角が複数あって曲がるタイミングを見計らうとき。すると、横に乗っている人は本だか音楽再生機を見ているはずなのに、「そこの道」と指摘する。そして、運転手は、戸惑いを解消し、正しい道を進むことができる。「なぜ、前を見てなかったのに、運転手がカーナビで戸惑っていたかわかったの?」という問いには、「運転のリズムが変わったから」と答える。時に、人はリズムで世界の流れを把握する。それがメロディなのか、拍数なのかは知らないけれど。
あるいは、運転している時にクシャミだか、咳き込むだかで、口に手をのばしたときに、ほんの一瞬、ハンドルから運転手の手が離れるときに、そっと助手席から横から手をのばし、そのハンドルを支える人がいるという、一説によると。男であろうと女性であろうと。
ある車においては、ある一定のスピードが出ている方が車体がぶれないという。あるいは、ある程度、車のスピードが出ているときに止まるならば、一気にブレーキを踏まず回数をわけてブレーキを踏む方がいいともいう(ポンピングブレーキだっけ?)。あるいは、エコカーにおいては、動くことでエネルギーを蓄えて、それをさらに動くエネルギーとする。それらを何に喩えるかは自由だとしても、いずれにせよ、見方によっては含蓄深い存在だ。
パスカルが看破した「人間は考える葦」というのは、現代の人間の足である車にも当てはまることなのかもしれない、と思ったり思わなかったり、いや思わないのだけれど、でも、車は何かしら赴き深い
ということには、一票を投じたい。
半分の人生
人生も折り返したってわかれば、なんだかがんばろうって思えるのだけど
と言った人がいた。iPhoneのJazzが少し空気を穏やかにし、缶ビールのヘコミが少し時間の流れに緩急を付けていた。
平均余命から考えれば、あと10年くらいかかるんじゃない
と誰かが言った。
人生の半分か、と私は思った。年を取ると、時間の流れが幾何学的に加速するという話があって。それは「一般論」としてよく口上に語られるものなのだろうけど、当人にとっては、それは個別論でしかなくて。
たとえ皆がそう感じていても、つまるところの時間の早さに少しばかりのため息をついていたとしても、やはりため息をつくのが自分か、その他の誰かでは大きな違いがあって。結局のところ、物語や談話というのは主観性でしか評価できないものなのだろう。
人生の折り返しに関しては村上氏が過去に短編を書いていた。あるいは、過去に「自分の寿命は30までと定義する」という人と議論をしたこともあった。人は誰しも時間と共に生きる。時に時間に抗いながら、あるいは時に流されながら。
しかし、時間にも良い点が一つだけあって。それはまごうことなきの公平性、少し小粋な比喩を使うところの「時間の我々に対する誠実性」とでも言うべきもの。
つまりは、誰しも森羅万象、等しく時間を過ぎる。もちろん体感速度の差異はあれど、あるいは相対性理論から鑑みるところの誤差はあれど、総体の並べて平らにして、くゆぶらせて見るところ、それはどう考えても平等に時間が過ぎていく。
だから、私はつい、コンビニに行くにも走ってしまうのだけれど。でも、人生を折り返したいかどうかという質問を投げかけられたら、「定義による」って逃げてしまうんだろうな、と思うのだ。