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土曜の夜に電話するやつに碌なやつがいない

これも、メモから引用。

土曜の夜に電話するやつに碌なやつがいない

恐らく1年以上のメモなので詳細不明。多分、書籍か誰かの話の引用の気がするのだが、例のごとく不明。
ただ、ここから何かしらの物語を想像してしまう。
前にある女性からこういう話を聞いた。男性とアポを入れる時は、その親密度によって提示する日時のオプションが変わるということだ。

  • 1.親密度低の下
  • 平日/金のランチ

  • 2.親密度低の上
  • 平日の夜、食事

  • 3.親密度中の下
  • 金夜、食事

  • 4.親密度中の上
  • 土日祝のランチ

  • 5.親密度高
  • 土日祝の夜、食事

なかなか興味深い、と思った。
何が興味深いかというと、「金の夜」よりも「土日のランチ」にアポを入れる方がハードルは高いという点である。
理由は、「土日はプライベートだから」らしい。この辺りの判断基準は人によって変わるだろうが、まぁ、一例として。ただ、確かに思い返してみれば「週末は基本的に異性との予定入れない」という話は、ちらちら聞いた記憶もあるので、そういうものなのかもしれない。
もし、諸兄が、誰かと食事行く時は先方から提示されるオプションから、角度を見極めてみるのはいかがでしょう(謎
あと蛇足ながら、別の人は「食事」「映画」「カラオケ」「遊園地」などの各アクションごとの親和性を算出していた。いわく、一番、親密度が高いのは「ドライブ」だそうだ。ふむ。
まぁ、ともあれ、このように「土曜日」は、聖域らしく。土曜の夜は、ゆったり食事して、ゆっくり風呂に入って、音楽でも聴いて、パックなんかをしながら読書をしているわけである(しらんけど、想像)。
よって「土曜の夜に電話する奴に碌な奴はいない」という言葉が導きだされるわけである。もう少し正確にいうならば「土曜の夜に、突然に電話をかけてくる異性に碌な奴はいない」ということなんだろう。
ロックな感じで。

ペットボトルで水を飲む

先日、打ち合わせで表参道を歩いていた。
すると、表参道の交差点を少し代々木よりに入ったところの石に座っている人がいた。外国の方だった。1リッターのペットボトルの水を直接、飲んでいた。
ワイルド、と思った。
確か、Evianだったと思う。手にはオニギリを持っていた。旅行なのかしら?と思ったけれど、わからない。
リッターのペットボトルの水を街中で飲む人はあまり見かけないな、と思った。だから、なぜかとても印象に残っていて。
別段、それが悪いわけではまったくなく(直接くちをつけてリッターの水を飲むことにマナー云々はあるとしても)、あるいは外国人だからそういうことをするのだ、という先入観があるわけでもなく。ただ、インパクトがあった。
なぜ、ペットボトルなんだろう?と考えた
自分の記憶として、街中でペットボトルの何かを飲んだのはスーダンのハルツーム近辺と、サハラ砂漠を越える時にモロッコのダグラからモーリタニアのヌアクショットへ移動前後あたりが強く印象に残っている。むしろ、某国では、歩きながら頭にペットボトルの水をぶっかけていた記憶さえある。
それらは、熱いためにそうしていたのだ、と考える。しかし日本は熱くない。
そうすると、喉がものすごい乾く人だから、か、あるいはペットボトルの方が量効率が良いから、などが考えられる。他にも、その水で街中の観葉植物に水をあげるからとか、それはいざとなったら枕にしてiPhoneの行列に並べるからとかも可能性としてはありうるが、かなり限定的だろう。
理由はわからない。
その人は女性だった。男性だったらワイルドで済む問題だろう。しかし、女性はあまり「ワイルド」の形容詞で呼ばれることは少ない(相対的に)。そう考えると、その飲み方は、一般的には、控える傾向にあるものだ。しかし、彼女はそんな社会通念を吹き飛ばすがごとく、グビグビと水を飲むわけである。角度的には、70度くらいの角度だろうか。そのような勢いで水を咽喉に垂直吸飲されていたわけで、なんというか、勇ましかった。
ペットボトルの水を、街中でグビグビのむというのは、何かしら蠱惑的な気がした。
それはたとえば他人に貸した歯ブラシがどこに置かれるかの問題やシュシュの存在意義とその可能性に纏わる課題にも相似した要素を含んでいるような気がした。
まったくメッセージ性もオチもないのだけど、何となく最近、記憶に残ったペットボトルでした。

Art

最近、周りでアート関係の話が出ることが多い。たとえば、純粋にアートが好きでしょうがない人から、空き時間には絵を描くようなプレイヤー、それを投資対象と考えている人から、CSRとしてのビジネス兼アート業界勃興に携わっている人からアプローチの方法はそれぞれだ。
思い返せば、ここ数年、とみにそのような話を聞く機会が増えてきた。実際、美術館の人気や写真・絵教室などの人気などを鑑みるに、それなりの妥当性があるのではないか。そこで考えたのだが、2通りの考え方がある。
・潜在的にアートに興味がある人は一定数がいる。そして、私が会う人が年齢的に、20代後半から30代前半になる。そして、そのような年代になると、上記の一定数の人はアートへの関心を発露する、ないし、公言するに至るという考え方
あるいは
・ここ数年、そのようなアートに興味がある人が増えてきた
という考え方
そして、どちらかというと後者の方が正しい気がしている。前者としても、ある程度はその傾向があるような気がするが後者の方がインパクトとして大きいような。理由としては、特にない。肌感覚である。
そして、その場合、「なぜ」最近、アートに興味がある人が増えてきたか、と考える。
シンプルな国内の変化を考えるに「閉塞感」「経済の停滞」「将来への不安(少子化などに纏わる問題、婚活の問題等)」などが思い当たる(異論もあるとは思う)。そしてかりに、このような「ネガティブな前提(=社会の変化)」と「アートに興味があること」の相関関係を考えてみる。
そうすると、1つの仮説ができあがる。
これまでGDP一辺倒の社会(いわゆるマテリアルワールド=資本主義社会)の流れできていた昨今。しかし、日本は、それに限界があることが見えてきた。そこで、その経済という指標のアンチテーゼとしてアートの存在が浮かび上がる。
もちろん、アートとビジネスは結びついている。しかし、ロックの源流が社会のアンチテーゼでもあるが同時にそれは経済活動の流れの1つとして取り組まれているように、時に、「指向性」と「現状」の矛盾は両立して存在する。
そして、そのような社会のミクロな変化は、上記のようにマクロの環境要因から推測できると同時に、そのミクロの変化をマクロの変化に還元する推測も可能である。そうした場合、アートが好きな人が増えてきた場合、どうなるか?
1つはアートの市場が確立される。絵や写真などでメシを食える人が増える。それは可能性としてはありうる。では、私の関心どころである国際政治で見た場合はどうか?上記のやっつけ仮説が正しいとすれば「経済が停滞すればアートに興味のある人が増える」ならば、今後、ますます、そのようなアートに関心を持つ人が世界レベルで増える。なぜなら、いけいけどんどんの経済成長は新陳代謝として、先進国から後進国に移るのが、諸行無常の世界の流れだからだ。もちろん、最先端でかけ続ける国もあるけれど、いつしかそのような国には停滞がくる。そしてアートへの自己同一性の投射先ニーズが高まる。ここでのポイントは「経済的に停滞感があるからアートへの関心が高まる、のではなく、『一度この世の春(=経済成長)を経験した国が停滞に向かう』場合に起こるという仮説(=中年の憂鬱現象)」である。
そうすると、世界でアート同士の競争が起こる。そして、それが経済と結びつく。しかし、本質として経済へのアンチテーゼがアートであったが、それが経済に取り込まれ、それが一定数になると両立していた矛盾は崩壊し、いつしか、それへの乖離が始まる。しかしながらも市場は出来ているので、ある程度のアート分野での国際競争が起こり、そして、それは再度、市場への取り組まれる(たとえばブルースの歴史のように)。
だから何?というのはない上に、こんなつまらない話をしてもしょうがないのでアート関連で聞いた興味深い話をいつか。うろ憶えかつ、それが正しいかどうかは未確認なのでご容赦をば。
油絵で塗料が使われる。その塗料は絵の具のように均一価格ではなく、塗料によって値段は大きく異なる。塗料は石などを削ってつくられる場合などがあり、その石の希少性が値段などに反映される。その中で「本当の赤」というようなものは値段が高いとかとか。なんだかロマンチック。
その中で1つ「クラインブルー」という青がある。イブ・クラインという人が編み出した「青色」だ。Wikipediaによると

1957年に、黄金よりも高貴な青「インターナショナル・クライン・ブルー」(International Klein Blue, IKB)と呼ばれる深い青色(右の画像は近似色)の特許を取得し、

とのこと。色にも特許があるというのは、なんだか色々考えさせられる上に「黄金よりも高貴な青」といえば、黄金よりも価値のある胡椒を思い出させて、なんだかロマンを感じざるを得ない。
また、印象派で人気のあるルノワール。そのルノワールの絵は、独特の肌感を表す色合いが有名だが、その色は、真珠を使った塗料が使われているとかいないとか(都市伝説の可能性あり)。
または、アルゼンチンは独特の色合い(カラフル)な家の色で有名だが、それの経緯は、もともと船着き場だったアルゼンチン。その港町では家家があったものの色を塗るペンキがなかった。そこで、船の色を塗ったペンキのあまりで家の色を塗っていった。そして、いつしか、町は船の色を表すようなカラフルな町となっていった、とか。
芸術という不明瞭な(中立的な意味で)市場に、新しい「何か」を見つけ出す人が増えるというのは、アーティストがキャンパスに「何か」を見つけ出すというフラクタルな構造を何か想起させてコリン ウィルソンの「アウトサイダー」における「見えてしまう人」を思い出させた。そして、あのCMのこのフレーズを思い出す。

彼等は人と違った発想をする。
そうでなければ、何もないキャンパスの上に芸術作品は見えて来るだろうか?

斜線

部屋から首都高が見えて。
芝公園だかなんだかの入り口から入ってくる車がいて。でも首都高の車の流れは早くて。スムーズに入れず合流地点で車が一度とまっていた。そして、車の流れが途切れるのを見計らって、入っていった。
アメリカのハイウェイだかフリーウェイを思い出した。アメリカでは、確か、すごい勢いで合流する仕組みだった気がするけどCA独特のものか、あるいは記憶間違いかもしれないけど、入るときに一度とまって入るという記憶はあんまりないような気がする。渋滞していたときは別だけど。たとえば朝のサンタモニカやパサデナだかどこかで一度とまったかもしれないけど、いずれにせよ、アメリカのハイウェイはとてもスピーディだった。それは車線の多さも関係しているのかもしれない。あるいは気質が関係しているのかもしれない。
大きな流れに飛び込むときは、一度じっくり考えて、立ち止まって飛び込むのか、あるいは勢いのまま、ぐんとアクセルを踏んで合流するのか、というか。
高速道路は何かしら哲学に満ちているな、と思った。村上春樹は、「カミソリにも哲学がある」と看破したが、そういうことなのかもしれない。あるいは、伊坂幸太郎は「人はあらゆるものを人生に喩える。川の流れだって」と看破したが、そういうことなのかもしれない。
カープールの話。日本人にはなじみがないけれど、アメリカのハイウェイのシステムで、複数人(2人以上だっけ?)の車両だけが走ることが許されたレーン。渋滞している時はそのレーンを走ると、すいすいと進むことができる。つまり、渋滞を緩和(車は複数人でのって車の数を減らそうぜ)させるための仕組みなんだと理解していた。つまり、大きな流れですいすい生きたいときは1人ではなく、複数人が良いのかもしれない、なんというか。
カーナビの話。車に乗っていて、カーナビの曲がる場所がいまいちわからず戸惑うことがある。三本の道が前にある時にどの道を指しているのかわからない時や、あるいは、角が複数あって曲がるタイミングを見計らうとき。すると、横に乗っている人は本だか音楽再生機を見ているはずなのに、「そこの道」と指摘する。そして、運転手は、戸惑いを解消し、正しい道を進むことができる。「なぜ、前を見てなかったのに、運転手がカーナビで戸惑っていたかわかったの?」という問いには、「運転のリズムが変わったから」と答える。時に、人はリズムで世界の流れを把握する。それがメロディなのか、拍数なのかは知らないけれど。
あるいは、運転している時にクシャミだか、咳き込むだかで、口に手をのばしたときに、ほんの一瞬、ハンドルから運転手の手が離れるときに、そっと助手席から横から手をのばし、そのハンドルを支える人がいるという、一説によると。男であろうと女性であろうと。
ある車においては、ある一定のスピードが出ている方が車体がぶれないという。あるいは、ある程度、車のスピードが出ているときに止まるならば、一気にブレーキを踏まず回数をわけてブレーキを踏む方がいいともいう(ポンピングブレーキだっけ?)。あるいは、エコカーにおいては、動くことでエネルギーを蓄えて、それをさらに動くエネルギーとする。それらを何に喩えるかは自由だとしても、いずれにせよ、見方によっては含蓄深い存在だ。
パスカルが看破した「人間は考える葦」というのは、現代の人間の足である車にも当てはまることなのかもしれない、と思ったり思わなかったり、いや思わないのだけれど、でも、車は何かしら赴き深い
ということには、一票を投じたい。

半分の人生

人生も折り返したってわかれば、なんだかがんばろうって思えるのだけど

と言った人がいた。iPhoneのJazzが少し空気を穏やかにし、缶ビールのヘコミが少し時間の流れに緩急を付けていた。

平均余命から考えれば、あと10年くらいかかるんじゃない

と誰かが言った。
人生の半分か、と私は思った。年を取ると、時間の流れが幾何学的に加速するという話があって。それは「一般論」としてよく口上に語られるものなのだろうけど、当人にとっては、それは個別論でしかなくて。
たとえ皆がそう感じていても、つまるところの時間の早さに少しばかりのため息をついていたとしても、やはりため息をつくのが自分か、その他の誰かでは大きな違いがあって。結局のところ、物語や談話というのは主観性でしか評価できないものなのだろう。
人生の折り返しに関しては村上氏が過去に短編を書いていた。あるいは、過去に「自分の寿命は30までと定義する」という人と議論をしたこともあった。人は誰しも時間と共に生きる。時に時間に抗いながら、あるいは時に流されながら。
しかし、時間にも良い点が一つだけあって。それはまごうことなきの公平性、少し小粋な比喩を使うところの「時間の我々に対する誠実性」とでも言うべきもの。
つまりは、誰しも森羅万象、等しく時間を過ぎる。もちろん体感速度の差異はあれど、あるいは相対性理論から鑑みるところの誤差はあれど、総体の並べて平らにして、くゆぶらせて見るところ、それはどう考えても平等に時間が過ぎていく。
だから、私はつい、コンビニに行くにも走ってしまうのだけれど。でも、人生を折り返したいかどうかという質問を投げかけられたら、「定義による」って逃げてしまうんだろうな、と思うのだ。

花火

時事ネタということで花火。
夏ですね、そうですね。
夏といえば花火ですね。先週末も今週末も花火ですね(伝聞推定)。
思えば最近、花火を見ていないな、と思った。いつぞやか隅田川の花火大会にいって、あの牛歩戦術に辟易した記憶がある。
花火というのは、不発弾が込み込みのような世界だそうだ。友人が、最近、花火の打ち上げをしてきたそうで、そんな話を聞いた(免許関係はクリアしながら)。
最初から、咲くことのできない花火とは、いささか寂しいな、と思った。でも、咲いたとて、咲かないとて、それらの総体が花火なのだから、それはそれで良いのかもしれない、と思った。
つまりは、明治維新を先導したのは一握りの人かもしれないけど、そこの途中で息絶えた人もそのうねりの一つだったように。あるいは、メキシコはメキシコシティから成り立っているわけでもないように。
でも、いずれにせよ花火は花火の良さがあるな、と思う。
究極まで圧縮されたエナジーのビックバン的爆発が何かしら人のDNAを刺激し、それは、ベタな例えでのリビドーとの飽和点と氷結の関係にもいささか似ていて、風情があるだけでなく、人が従来から持っている太鼓のリズムにも似たリズムが花火の音が彩り、太陽にも思える火の光が生肌を容赦なく照らすことによって、夏の、その真夏の蒸気の中で蒸された体温によって猛禽類のような臭気を放つ汗との猥雑な混じり合いが全ての五感を刺激し続け、それでもやむことのない重低音と光と、そして気が狂ったようにあふれかえる人の波の中でもまれる正気が蠱惑的で淫靡なアウラを創り出し、それはいささか、夏だからこそ、そして、雑踏のあふるる川縁だからこそ起こりうる刹那の風情がなんとも言えない。
「僕らはいつか飛び出す瞬間を待っている」
とは誰かの言葉だった。
つまり、花火が「一瞬で咲く」ということに自分が持つ何かを重ね合わせ、人はそれに代償としてのカタルシスを得る。
そして我々はいつか自分のスターマインを待っているのだろう
なんちて。

信号が点滅前に走る人

ふと思ったのだが、世の中には2種類の人間がいて、それは
・信号が点滅する前に走る人
・信号が点滅してから走る人
の2種類である。
あなたは、その道を渡りたい。できれば信号でひっかかりたくない。距離は50メートル。青に変わって数秒は経っている。うまくいけば、このまま歩いて信号を渡れるかもしれない。できれば走りたくない、かっこわるいし。
そんな時に。
走る人、と、点滅してから走る人の2種類いる。
前者はリスクをヘッジすることが好きな人だ。後者はばくち打ちで「うまくいったら、走らないで済む」場合は走らないで良いのだから、それを前提に動くということになる。あるいは、点滅してから走っても間に合うかもしれないのだから、今から走る必要はない、と考えているかもしれない。
両方とも期待値をならせば、前者は常に走るために、「信号にわたれる(+5)」でも「走る(-5)」のリターンゼロで、後者は「信号にわたれる(+5)」が5割の確率で起こるとすれば後者の方がリターンは大きくなる。ただし後者も「ギリギリに結局走る」ということもあるわけだから、数値は変わってくる。また、信号にわたれるリターンと、走る場合のコストが同じということはあり得ないので(それならば最初から走らない)、実際は、前者もゼロにはならない。ただ、後者としては5割以上の確率で走らずに済む経験をしており、なおかつ、わたれなかったコストがそこまで大きくない人かもしれない。
ただ、いずれにせよ、まぁ、そういう2種類の人がいる。
そして、こんな違いが時に、人生を大きく、大きく変えることだってある。それは1つの違いによるものかもしれないし、あるいは蓄積された違いのインパクトのこともある。
誰だって経験があるだろう。
「あの日、あの時、偶然なあれが起こっていなければ、あれはなかった」というような経験が。もちろん、起こらなかった場合を体験できない以上、「起こった場合」と「起こっていない場合」を比較できないので、どちらが良いというものではないが。
ただ、いずれにせよ、そのようなちょっとの違いが人生を分かつこともある(くどいようだが、起こってない場合はわからないので、起こっていない場合も同じ人生もあることもあるが、ただ、傾向として、偶発性の再現は確率的に非常にレアなので、仮定として上記をおく)。
たとえばそれが
・メールアドレスの間違いで、届いたメールを返信したがために仕事の交流が始まった
・飲み屋で横に座っていた人が、自分の興味のあるニッチな話題の話をしていたので、思わずはなしかけたら共通の友人がいることがわかり、友達になった
・旅行先で、たまたま見かけた日本人に道を聞いたら一緒の旅路となり長いつきあいとなる
・たまたま友人が送ってきたFYIのメールがとあるWebサービスの招待状で、忙しかったのでみそびれそうになったけど、思い直して見てみると、結果的に、それがとある専門性を持ったサイトでその道に進むことになる
・ふとなんかに誘われて、その日は買い物にいく予定だったのだけど、なんとなくそっちにいったらほげほげ
みたいなものだ。
それは、「たまたまのキッカケを能動的に行動することで発生した何か」ということであり「単なる偶然」などの話ではない(たとえば、いつもいってるカジノで100万円当てたとか、受験の山勘があたって通ったとかではない)。
これはいわゆるセレンディピティの話とも同じで、「イノベーションや発明は、偶発的に起こる。でもその偶発性は、普段の傾向によって準備される」というような(違ったらすいませn)。運命の女神は前髪しかないとかいう例えも、つまりは、何かしら起こった時にすぐに行動できる何かしらが必要という例えではないか。
まぁいいや。こんな抽象的な話をしたいのではなく。
自分は、信号に向かって走る人かあるいは友人は走る人かどうかをふと考えたり。

名もなき週末の物語

先週末の金曜日、3人の女性を見かけた。知らない人だし、こんごも知ることのない女性だろう。ただ、おそらくその人たちにはその人たちの時間軸があり、そしてそれを彩る物語があり、そして、その物語を私は想像する。
■女性1
渋谷の文化村通りを歩いていると、1人の女性と1人の男性に擦れ違った。19時頃だから、これから飲み会に行くのだろうか。スーツ姿の男性とスーツ姿の女性。少し小雨の中をささっと歩く。男性が「だから、そこで僕が」なんとやらとつぶやいて、女性は視線を水平線から30度ばかり落とした先を見つめたまあ、うなずく。2人が平行して歩く時、お互いはお互いを見ながら歩かない。電信柱にぶつかるからだ。前を向きながら、「聞いているよ」という仕草もなく、ただ声だけを頼りにコミュニケーションを続ける。新入社員よりは少し歩き方が疲れていて、そして、バリバリのキャリアよりは1歩、歩みが遅くて、ただ目線が渋谷の地面を撫でて、そして男性のコミュニケーションが雨の後の地面をなめて。そして、週末の夜に向かって少しづつ視線は落ちていった。
■女性2
新一の橋近くのファミリーマートがある角で佇む女性。誰かを待っていた。5分裾のレギンスに7分袖の空色ボーダTシャツ。赤いナイロンのバッグを肩にかけて、UFJ銀行の辺りを眺めていた。日差しが強いのか、あるいは知り合いに会うのが怖いのか、角より少し路地に入った場所で、しゅらっと立っていた。平日の時間を考えると学生だろうか。他の可能性としては、スチュワーデスや主婦、平日休日のアパレル店員など何でもありえるとしても確率論から言えば、学生の可能性が濃厚だろう。彼女は恋人を待っているのかもしれないし、友達を待っているのかもしれない。ただ14時20分という時間帯はあまりにもアバウトな待ち合わせだ。30分に待ち合わせして10分前に付いたのかもしれない。でも、それなら、こんな時間から対岸を眺める必要はなかろう。あるいは、コンビニで雑誌でも立ち読みしておけばいい。それとも14時の待ち合わせで、まだ来ぬ人を20分待っているのだろうか。あるいは、時間は関係ないのかもしれない。自宅で待ち人を待っていて、「今タクシーにのった。ファミマでピックアップするから待ってて」と言われたのかもしれない。いずれにせよ、少し不安げなまなざしと少し猫背のシルエットは初夏の麻布十番に違和感なく収まっていた。
■女性3
時間は20時前。金曜日。飲み会に向かう人たちが電車を埋める。あるいは、疲れ切ったスーツの人々が帰路に着く。あまり混まない麻布十番も週末の夜は少しばかり混む。渋谷や新宿に比べるまでもないけれど、それでも改札が一つなのは混む要因になっているんだろう。でも、その分、改札前の待ち合わせを間違うことはないのだろうけど。南北線と大江戸線さえ間違えなければ。その中で、小走りに走る女性がいた。プリーツのワンピースをはためかせながらぱたぱたと。PASUMOを改札でビビっと鳴らし、小声で「すいません」とささやきながら人をかき分ける。モバイルSuica使えばいいのに、と余計なお節介を考えながら、彼女は3番出口に向かって走っていった。エスカレータも使わず、小走りに。左手にSuica、右手に何かの紙。これから飲み会でもあるのかもしれない。その場所のプリントアウトなのかもしれない。でも、この時代にそんなに飲み会の時間を厳守するなんて、なんともジェントル。もしかすると幹事なのかもしれない。あるいは、恋人を待たせているのかもしれない。あるいは、ブルーマンの幕があがるのかもしれない(20時だともう遅すぎる気もするけれど。知らないが)。そして彼女はどうして遅れたんだろう、と考える。仕事が長引いたのかもしれない。出る間際に電話やメールがかかってきて、送らなければいけない資料ができたのかもしれない。明日でいいや、と思っても週末だということを気づいて、週末に持ち越すのが嫌でやっつけたというセンシティブな性格なのかもしれない。あるいは、駅を乗り過ごしたのかもしれない。間違って赤羽橋までいってしまって、タイルの違いに違和感を憶えたのかもしれない。小走りに走るのは久しぶりで少しヒールが足を擦りむくだろう。
良い週末を、と誰かがつぶやくかもしれない。

村上春樹的「平和」な一日

本棚の整理をしていて、久しぶりに村上春樹の一冊を手に取った。村上春樹の小説の醍醐味は、「何気ない日常をなにげあるような一日として再構成」する点にあると考えている。そんなことを思いながら、過去のある一日を記す。
その日は、朝から晴れていたような気がするけれど曇っていたのかもしれない。記憶に残るような日差しの強い一日ではなかったのは確かだ。春にしては暖かく、夏にしては肌寒くというと陳腐な表現だけれど、いわば、「so so」「そこそこ」どこにでも転がっている気候の一日だったということだろう。時に気候は何の役にも立たないし、結局、役に立ったところでそれは後日論でしかない。天気というのは、結局のところ付随条件でしかないのだ。必要条件にたどり着くことのできないドアオープナーとしての存在を人は天候と呼ぶ。
久しぶりに会う友人だった。4年ぶりくらいだろうか。遠くからの距離でもぱっと気づけるということは、きっとその人の外形が記憶に残っているのではなく、もっと別の何かしらを記憶しているのだろうか、と思う。所作というものや立ち振る舞いというような何か。それを人はケビンスペイシーでもない限り、うまく消すことはできないのだろう。髪の毛を茶色から黒く塗り替えただけで主人を見間違う犬の世界とは違った世界に私たちは生きる。そして同時に引きこもりの私としては久しぶりに関係者以外で会う「他者」だった。
たどり着いたのは、少し階段をあがって少し階段を下がって、そしてもう少し階段を上がったお店。喧噪から少し離れ、それでも静寂からはほど遠く、ただそれでも幾ばくかは世知辛い細菌と日常に溢れた雑踏から逃れるように、のれんの奥に広がるエアポケットのような空間に逃げ込んだ。
同僚であれ、同級生であれ、友人であれ、同じサークルであれ、一時の時間を共に過ごした人間は、たとえ両者/関係者を分かつ時間が増えても、その関係性の希薄化の程度は、その空いた時間に比例しない。おそらく1ヶ月くらいの空き時間と5年の空き時間は1.1倍ほどの違いでしかない。逓減は1ヶ月くらいで臨界点に達し、あとは誤差の範囲での平行線をたどるのだろう、と思う。
とある国の話をした。特定の国ではないのかもしれない。しかし、その国はきっとどこかにあって、そして両者にとっては、追い求める国の一つだったのだろう。日本とは関係のない国で、おそらく新聞には週に1回も出ないような国。NHKのニュースになんか1年に1回も取り上げられないかもしれない。
相変わらず、その人は、そんな国を追いかけていて、そして私も違う形でその国を追いかけていて。でも、それに対してどのようなアクションをとれるかは不明確で、そしてマイルストーンも見つからなくて。そもそも、その国が特定できないのだから、リサーチさえも無意味で。でも、方法はきっとどこかにあって、その方法を探しあぐねる。たとえ話でいうならば、新大陸に向かうコロンブスのような。黄金の国はきっとどこかにあって、でも、どこにあるのか、どのような国なのかはわからなくて。それでも彼女はそれに短くない時間を費やし、そして私もまた闇夜に紛れて、その国への思索に耽る。
平和に関する話を聞いた。浅学非才の私の知識では、平和とは「戦争のない状態(byクラウシェビッツだったっけ?)」だった記憶があるのだけれど、もう少し最近の学問では、「貧困、抑圧、差別などの構造的暴力がない世界」を「積極的平和」として見なすらしい。「万人の万人に対する戦い」の中に平和が定義づけられんとしている。ねえなんともロマンチックじゃありませんか。たとえ、それがどこにもたどり着かないエルドラドだとしても、そこに一筋の光はきっとあって。大海原でさまよってサブイボたてる我々も光の差す方に向かっていて。
なぜか国際政治の話をしていると私は高揚する。もっとも軍事やいわゆるところの「戦略論」のようなものではなく、やはり、今後1000年の間でどのような世界が待っているか?というような論点だ。国という定義はおそらく変わり、「グローバリゼーション」は死語となり、そして、何かが変わり、何かはきっと変わらない。
大学時代に学んだことは、今の実務では直接的に役だってはいないかもしれないけれど、きっとこの世界には私を引きつける何かがあって。それが例え青臭い議論だろうと、あるいは理論に裏打ちされたどこにも届かない海上のレコンキスタだとしてもそこには常に何かしらのよりどころがあって。そんなことを思いながら、ヴェーバー先生の「イデオロギーとは神々の永久闘争だ」との箴言は今でも私の生活にまとわりつく。

夜鳴く鶏

タイトルに他意はなし。思いつき。でも、夜に鳴く鶏がいてもいいんじゃないかと思う。でも近所迷惑だから排除されるかも。鶏の世界において、鳴く時間の多様性は淘汰されてしまうのだ。しかし、そもそも鶏は飛べないのに鳥という非常にユニークで独創的な確固たるアイデンティティを持っているので、それはそれで差異化を生み出しているのだから、それ以上の分化は避けるべき定めなのかもしれない。でも、それってばアイデンティティではなく、独自の個性であり、あるいは、機能なのかもしれない。日本画は、空白を描くという素晴らしい特性を持っているが、鶏も飛べないという「欠落」が独自の機能として作用しているのかもしれない。彼ら(ないし彼女ら)が、なぜ飛べないのかは、私はあずかり知らぬところだけれど、調べる意欲もないけれど(こういう時にPoPInは便利なのだろうか)、まぁ鶏が飛べないというのは、このように人口に膾炙するという点で、PRにおけるフックというかスパイクになっているのだろう。ただし、鶏が知名度をあげたところで、生存における価値はなかなか上昇しないから、結局はROIを無視した戦略になるのかもしれない。ただ、希少価値が高まるとペットとして飼う人もでるゆえに、そこにおける生存可能性(ないし、ベターな生活)は確保されると考えても良いかもしれないと思うが、結局、それは間違いで希少価値が高まれば生産する人が増えるという市場原理が働くので、結局比率は同じに落ち着くのだろうと思う。ただ、種の保存の観点から言えば、頭数が増えれば、種の保存も確保される傾向にあるので、そう考えると、鶏が飛べないというのはちゃんとした理にかなったものかもしれない。ただ、ここで気をつけたいのは、「飛べない」ということの利点が「不利益」を上回る必要があるということだ。つまり、飛べないということで、他の生き物に食べられたり(犬とか人とか)、あるいは馬鹿にされるというネガティブ名声を受ける不利益を利益から差し引かなくてはならない。そう考えると、結局、イーブンな気もしてくるが、それの数値化は厄介なので避ける。ただ、思うに、オムレツはおいしいので鶏さんにはがんばって頂きたい。