激動の時代と文化と

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以下の記事を読んだ。
【ウェブ立志篇】米ミューズ・アソシエイツ社長 梅田望夫 – MSN産経ニュース
不景気で大変だけど日常を生きなくちゃいけなくて。24時間サバイバルすることはできなくて。そして以下、という文脈。

だからこそ文化や芸術が大切だということである。

確かに、と。文化とは、もちろん好景気の時も、人気を博すわけだけど、本領を発揮するのは、このような不景気の時ではないかと。
そして歴史という洗礼を受けた文化は、多くの不況や不景気、災害を受けた時代をこえ人々を救ってきた。
それは歌であり、言葉であり、踊りであり、あるいは建築物かもしれない。たった一冊の本に救われたという話はどこにでも転がっているし、上原隆さんの本では、そのような「ヘビィ」な状況を超える人々の話が盛りだくさん。
そうなんだな、と。
文化は人を時に救うのだ、と思った。そして、救われることを望むのは、まさに不景気の時代。それゆえに三段論法として文化は不景気の時にこそ求められる。とはいえバブリーな時代に咲いた文化(バロックを見よ!)もあるので簡単には言えないかもしれないけど。
リバーフェニックスは、

人を救うのは家族や恋人、友人など身近な人たちのたった一言だったりするんだ

と行っていた気がするけど、それも真なりだけど、同時に、その一言は文化が代替する。文化とは、身近な人の言葉の現身であるのだらうか。
と、ここまで数週間ほど下書きで放置していた記事を、なんとなく追記して公開。
人はツライ時に何に助けを求めるのだろう、と思った。人、という話はよく聞く話で。たとえば恋人とのいざこざやあるいは会社の愚痴、ないし泣き言を言いたいときは人は、その言葉の受け皿を人に求める。時には、それは不特定多数のネットかもしれないし、あるいは、犬や猫のヒト科以外の生き物かもしれないけど、いずれにせよ、人は生きていくと、色々な澱みを抱え、それをはき出す先を必要とする。それを誰かは「澱(おり)」と表したけれども。
ただそれはアウトプットでありインプットとは少し異なる。もちろん人の言葉やリアクションは大きなインプットとなる場合もあるだろう。たとえば公共広告機構のコピーで

命は大切だ。命を大切に。 そんなこと、何千何万回言われるより、 「あなたが大切だ」 誰かがそう言ってくれたら、 それだけで生きていける。


という有名なものがあるが、まぁそういうことだろう。
人にも頼るが、同時に人は文化に寄る。人はパンのみで生きるにあらず。
それは宮澤賢治の詩かもしれないし、風の声を聞く歌かもしれないし、Juergen Tellerのポートレイトかもしれないし、ファンキーな映画かもしれないし、いずれにせよ、それは何かを求める人に、場合によっては何かを提示する。間違った正解かもしれないし、正しい誤解の時もあるけれど、人はそこから何かをくみ取る。まるで身近な人からの助言のように。
ということで、最後に、あんまり脈絡なく「花咲く旅路」おいていきますね。激動の時代における、以下の言葉を何かの代弁として。

世の中は ああ 世の中は
なぜ こんなに急いてと流れてく

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