10時頃、シャワーを浴びに自宅へ戻る。
もう日差しは強く、初夏なのか「少し弱い夏」なのかどちらかわからない。梅雨だというけれど、いつも梅雨の間は雨に参りながらも、梅雨が終わると雨の日々は忘れている。「のど元過ぎれば」というけれど、それは、人間が生得的に備えている「ポジティングシンキング」の表れなんじゃないかな、と思う。
シャワーを浴びると、思考回路は仕事から日常に切り替わる気がする。「ああ整髪料かっておかなくちゃ」とか「クリーニングにいかなきゃ」なんてことがぽんぽんと頭をよぎる。誰だったか、一番アイデアが出るのはシャワーを浴びている時だ、と言っていたような気がする。シャワーとは、頭の何かを切り替えるスイッチの役目を果たすのかも、なんてことを考える。
部屋を出て、クリーニングにシャツを預ける。いつもと変わらぬ婦人といつもと変わらぬクリーニング代に心ばかし安心しながら、店を出ると一風が私を撫でる。
熱い日差しの中の一陣の風。その風が、とても気持ち良く、ああ、幸せだな、と思った。昨今話題の村上春樹は、このようなことを「小確幸」といった言葉で呼んだ気がするが、このような話はなんらめずらしいこともなく、つまり、「日常の幸せ」というものは、時に社会はフォーカスする。
たとえば、いつもと変わらぬ朝のコーヒーの匂いや、あるいは寝る前のちょっとした読書、はたまた毎年変わらず来る特定の誰かからの年賀状だったり。そのような小さな日常のようなものを、人は抱えていきる。ただ、日常という定義上、それは普段は忘れ去られ、戸棚の奥にしまわれる。
だからこそ、たまにそれらのありがたみに気づき、人は「ああ、日常って良いわね」と独りごちる。普段からそれらに感謝し続けるほど人は時間に余裕があるわけではないし,日常も普段からそんなに感謝されても困るだろう。
アフリカでの日々を思い出す。そこでは日々がそこそこ愉快なサバイバルだった。戦場という意味ではないにせよ、なんだか全てが大変だった。言葉はフランス語だから買い物の計算が大変だし、電車はどこから乗らなくちゃいけないのか知らないし、そもそもやたら暑いし、お子様はおねだりをねだるし、そもそも移動ばかりで身体ぐだぐだなのに宿が見つからないし、そもそも夜になるとデスマッチ開始だから熱があっても油断できないし。まぁ、いずれにせよinterestingとう意味では楽しい日々だった。しかし、その時に欲したのは、何も変わらぬ日常だった。土曜日の多摩川のランニングと近所のスーパーへのエビの買い出し。そして、少しクタビレタ布団と蚊取り線香の匂い、のような。
受験の頃は「トーストと朝読む新聞」で、小学校の頃は「世界不思議発見」で、新卒の頃は「金曜日の夜更かし」で、なんだか、そのフェーズにあった「日常と呼ばれるべきもの」が、何かしらの礎になっていたし、あるいはよりどころとなっていたし、今となっては、tinyだけどcuteな思い出になるわけで。
日常ってのは、あんがいあなどれがたし、と思うわけです。
風呂上がり
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