メールの不達とツイートと

電子メールは不達の時がある。
たとえば、相手の迷惑メールに振り分けられている時や、相手が今は利用していないアドレスにメールを送った時、サーバのエラーなどだ。
そんな時、メールはどこにもたどり着かず、放浪の文となる。
そして、かなしいことには、自分にとっては、どのメールが不達か知るよしもないのだ。
仕事のメールなら、まだいい。返事がなければ「届いていますか?」や「電話」で対応することができる。けれども、プライベートのメールならば、そしてそれが時に「重たい」メールならば、「届いたか?」と確認することさえ憚られるだろう。
そして、送った方は、相手がメールを返していないという記憶を持ち、相手は読んでもいないのだから、知らないままそのメールは時空の狭間を彷徨うことになる。
なんて悲しい。
そんなことをふとtwitterのDMを見ながら思った。というのも、たとえば当方ではtwitterのDMスパムがけっこうな量になっており(1日30を超えるかも)、そもそもメールの通知も切っている。
だから、もしDMで誰かが連絡をくれても見逃すだろうなぁ、と思ったのだ。
そして、それは決してtwitterだけの話ではなく、メールや時に携帯メールでさえもそのようなことは起こるかもしれない。
見られることを前提としない文章はそれで存在意義があるが、宛先がついたメッセージが誰にも見られないとは、なんとももの悲しい。
たとえば作家のフランツカフカ。
彼は遺書に未完の原稿を燃やすことを記した。しかし、友人はそれらを燃やさず出版した。それらの中には、かの「城」や「アメリカ」「審判」なども含まれている。
もし友人が従っていたら、これらの物語は日の目を浴びることなく世界から消えていた。悲しい。
でも。
でも、たとい時にいくつかのメールが不達で埋もれてしまったとしても、それは何かしら人生の出会いと同じで「そういうもの」なんだろうなぁ、とも思う。
人生で、「たまたまの街角での出会い」があるように、逆に「本来起こるべきだった何か」が起こらなかったということもありうる。
twitterのタイムラインを見ていると、そのような岐路が色々紛れているなぁ、と。
ツイートの流れに「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」という川の流れを見たりして。
たららん。

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