花火

時事ネタということで花火。
夏ですね、そうですね。
夏といえば花火ですね。先週末も今週末も花火ですね(伝聞推定)。
思えば最近、花火を見ていないな、と思った。いつぞやか隅田川の花火大会にいって、あの牛歩戦術に辟易した記憶がある。
花火というのは、不発弾が込み込みのような世界だそうだ。友人が、最近、花火の打ち上げをしてきたそうで、そんな話を聞いた(免許関係はクリアしながら)。
最初から、咲くことのできない花火とは、いささか寂しいな、と思った。でも、咲いたとて、咲かないとて、それらの総体が花火なのだから、それはそれで良いのかもしれない、と思った。
つまりは、明治維新を先導したのは一握りの人かもしれないけど、そこの途中で息絶えた人もそのうねりの一つだったように。あるいは、メキシコはメキシコシティから成り立っているわけでもないように。
でも、いずれにせよ花火は花火の良さがあるな、と思う。
究極まで圧縮されたエナジーのビックバン的爆発が何かしら人のDNAを刺激し、それは、ベタな例えでのリビドーとの飽和点と氷結の関係にもいささか似ていて、風情があるだけでなく、人が従来から持っている太鼓のリズムにも似たリズムが花火の音が彩り、太陽にも思える火の光が生肌を容赦なく照らすことによって、夏の、その真夏の蒸気の中で蒸された体温によって猛禽類のような臭気を放つ汗との猥雑な混じり合いが全ての五感を刺激し続け、それでもやむことのない重低音と光と、そして気が狂ったようにあふれかえる人の波の中でもまれる正気が蠱惑的で淫靡なアウラを創り出し、それはいささか、夏だからこそ、そして、雑踏のあふるる川縁だからこそ起こりうる刹那の風情がなんとも言えない。
「僕らはいつか飛び出す瞬間を待っている」
とは誰かの言葉だった。
つまり、花火が「一瞬で咲く」ということに自分が持つ何かを重ね合わせ、人はそれに代償としてのカタルシスを得る。
そして我々はいつか自分のスターマインを待っているのだろう
なんちて。

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