先日、中学校の同窓会があった。小さいものは今までも開催されていたのかもしれないが、東京に住む私としては20年ぶりの初めての同窓会。
幹事が獅子奮迅の活躍で100人以上の参加者を集めてくれた。先生も10人以上参加し、壮大な同窓会となった。なぜかテレビ局まで入っていた。4次会だか5次会だかの14時間コースだった。
そこで思ったこと
- 一時期、一緒の時間を過ごした人は、それからどれだけ間が開いても、すぐに距離は縮む
- 参加できない人用にプライベートUst配信してた。幹事すごい
- 特定の同窓会用SNSを事前に利用して、空気を温めていた。幹事すごい
- 今はFacebookがあるので、同窓会後のキャッチアップが容易
- 飲み会のコールが地元の祭りの掛け声で笑った
- 当時の合唱んコンクールで歌った歌を歌った。指揮は当時の音楽の先生。ハーモニーに感動した
一般的に「思い出話をする人間は老いている」という言説がある。その含意としては、「人間は過去の話をするようになったら、過去の栄光にすがっているということで、未来はない」というような趣旨だ。
それは一理あるにせよ、それを逆説的に考えれば、「思い出話」というのは、非常に贅沢なものだということもわかる。つまり、この「思い出話」とは、思い出話自体は何も価値を生まず懐古主義でしかない。だからこそ、それは尊い。そして、思い出を共有した人としか話できないという点でも希少性が高い。
ちょうど、誰かの本で「思い出話は贅沢だ」という文脈を見かけた記憶があるが、すなわちはこのような意味合いを含むのだろう。そういう観点で、この同窓会の思い出話を肴にお酒を飲むという行為は、何事にも代えがたく貴重である