タクシーの渋滞という新しい時代の幕開け

世の中でもっとも忌するべきものはタクシーの渋滞であることに異論はないと思う。なお、間違えないでいただきたいのは、タクシー自体は尊重すべきもであり、神々しいものである。なんせ乗ればどこかに連れて行ってくれるのだから、どこでもドアと呼んでもよかろう。22世紀に残したいイノベーションである。

しかし、そのタクシーに渋滞がかけ合わさると、もはや珈琲にめんつゆを入れたような破壊的な組み合わせとなる。いくら色が似ているからといっても混ざらない。メントスとコーラのような破壊的力を持ってしまう。

何が由々しき問題か。

まず「料金があがる」。という問題がある。座っているだけなのにお金が取られていくという行為は、頭では理解しつつも、身体は納得せず、心と身体の不協和音を起こす。人によっては蕁麻疹がでて、あるいは、エコノミー症候群になるだろう。不祥事を起こした株ホルダーの気分である。ストップ安へのまっしぐらをただ指を加えてみているしかない。着々と減り続ける資産の額。サルトルのいう嘔吐とはこれだったのか、と痛感できる。「ああ、世田谷公園にあるカンナのかき氷代が消えた」「ああ焼肉代が消えた」「ポケモンのルアー3個分が消えた」と、値段があがる度にあなたは自分の財布からお金が減っていくのを実存的存在として感じることになるだろう

次に「急いでいるのに、止まってしまうというジレンマ」。タクシーを使うという時は、急いでいるからである。世の中で急いでいないのにタクシーを乗る人は貴族か殿だけであろう。ゆえに99%の人は急ぐからタクシーを乗るのである。なのに、渋滞とは何事か。もはやタクシーにのった意味をなしていない。それはまさにホテルでスイートルームをとったのに、遅刻して深夜2時に着いた時のような。「だったら普通の部屋でよかったやん」というか。自分の意思決定を呪いたくなるだろう。「なんで、タクシーなんかを使ってしまったんだ」と。自分の頭と頬を殴打しながら無間地獄で後悔し続けるがいい。自分の不適切でセンスがない意思決定を。自分の全否定の浴びせ蹴りを食らうが良い。

そして、問題としては「自分の無力さを実感する」という点も忘れてはいけない。渋滞のタクシーの中であなたができることは何もない。1ミリもない。叫んでも、座席で地団駄を踏んでも、あるいは、携帯で助けを読んでもどうにもならない。何もできない。ミッションがインポッシブルしている。これをキルケゴールは死に至る病(=絶望)と呼んだ。こんな絶望なタイミングは、「快速の中でお腹が痛くなった時」くらいだろう。あるいは、MTGの5分前にパソコンがクラッシュするとか。もはや、このようなものは天災認定されるべきである。この境地は、もはや修行僧の苦行にも近いもので、渋滞が20分を超えると、なんとなく解脱する気分になってくる。このいらだちを抑えるには、菩薩なみの精神力が必要であり、その戦いはまさに仏への道。

ということで、タクシーの渋滞は、こんなにもたくさんの社会的、形而上的問題を抱えているということがわかった。しかし、1つだけいいことがある。上記にも書いたように、この苦行を経て、あなたは1つ成長するだろう。

よりよきタクシー渋滞ライフを!

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