下記の記事を読んで、改めて思ったこと
»落合陽一×古市憲寿「平成の次」を語る #1「『平成』が終わり『魔法元年』が始まる」 | 文春オンライン
日本の今後を考えるにあたり
・(やはり)、落合陽一さんや古市憲寿さんの考えをもっても今後明確な希望は見出しにくい状態にある
という状況が現状。
これは、私自身も大学から考えているテーマでとても関心がある(少子高齢化&負債が積み重なる日本で、今後、昭和のような「経済的栄光」はもう戻らない。経済的にダウントレンドの中で、人はどうすればハッピーかというようなテーマ)。ただ20年たっても「新しい希望」の話はまだ聞かない
上記の記事では
・日本の少子高齢化が他の国より進むので、他の国よりテクノロジーを活用/実装を進める可能性がある
・それによって他国より、よりソリッドにテクノロジーの社会活用が進む(そして社会をサステイナブルにしていく)
という希望が提示されていた。
それは1つで、実際に、AI等が普及すれば、ベーシックインカムなどにより、サステイナブルな臨界点は探せるかもしれない。ただ、これは今まで良い社会という希望というより、サステイナブルという状況
それに関して、大学時代に考えた切り口としては
・経済(=人口)という観点で考えるから厳しいのであり、経済というフレームから抜けて世の中を捉えればいいのかもしれない
ということでブランド国家という概念を学んでいた(ブランド=経済とは別の軸で国のプレゼンスを出す)。あるいは、個人というものが前にでることで新しい価値を生み出せるかもしれないという思いで、クラウドソーシングの事業もしていた。
そのような「単位を変える」という考え方として、上記の記事では
・そもそも国という単位が最適ではない時代
という論点もあった。
たとえば、「東京都で都民税、地方で地方税」を払うように、「国には国への税金」を払う。ただ、それとは別でグローバルの1人としての税金は国を超えた枠組みを超えて払っていく。その時にはもはや「日本人」という単位で生きてはいない部分もある
たとえば、「Google」はもはやある種のインフラで、これは従来、国が担っていた道路や水道などに近いものである。しかし、いま、人は「広告を見る」ということで、そのコストを払い、Googleがその代わりに利便性を提供している。
そのように、欧州のように、日本も「国」という単位で捉えるよりも「世界の1人」と捉えることによって、もう少し個人単位でいえば希望は見いだせるのかもしれない
あと、ホモデウスにもあるように、また、昨今のマインドフルネスの勃興などにもあるように
・外界と人の心は別で切り離して考えれる部分もある
(つまり、経済が豊かだからといって心も貧しい人もいれば、逆もしかり)
そういう意味では、「ハッピーに感じるテクノロジー」が普及すれば、いまよりも経済的に困窮しても、幸せになる社会があるかもしれず、それはある種の「経済」というドグマからの脱却になるかもしれない
ただ、それでも残る論点としては
・国が従来になっていた、人を守る
という役割は誰が担うのか(ないし、誰に担ってもらうのか)という議論はまだ残りそう。
政治学において、人と国の関係は「人は税金を払う。代わりに国が医療やインフラ、軍事、警察など人の命を守る役割を追う」という契約を結ぶという(古めではあるが)考え方がある。日本では、治安がいいので、その問題は大きくなりにくいけど、他国では、けっこう重要な論点な気がする。今後、国が経済的な意味で治安維持とかにコストがかけられなくなっていく国は、自衛ニーズが高まりそう。そうすると、Uber securityとかできて、自分専用の身を護るサービスとかが今後増えてくるのかしら。