ふと思っただけなのだけれど。
人が人に惹かれる、平たく言うと好きになる、丸めて言うと恋する、って状況のトリガーの話。
きっとそのトリガーにはいくつか種類があって。たとえば、生理的なものもあれば、種の保存的なものもあるだろうし、あるいは性癖(後天的なもの含む)もあるだろう。
その1つとして、相手が理解できないから好きになる、という状況もあるのではないかと思った。
某アルハブロガーの下記の一行でインスパイアされただけなのだけれど。(ちなみに頭おかしいのはこの人です。確かに)
頭おかしい。惚れた。
つまり、「頭おかしい=理解できない→惚れた」の構図。
これは付加逆で、惚れたからとて相手が頭おかしいとは限らない。
たとえば。
たとえば、村上春樹のピンボール(風のうただっけ?)で「月へ帰りなさいぼうや」と主人公は言われる。それは主人公の現実感のなさ、あるいは不可解さを皮肉ったものだ。
しかし、女はそれでも主人公と共にいる。不可解さが魅力なわけだ、多分。結局、結婚には結びつかないので、悲しいのだけれど。
ともあれ、こういうのってば、世の中に往々にしてある。
自分自身を思い返しても、それが恋愛感情ではないにしろ、理解できない人には、強烈に惹かれてしまうのは、世の理である(男にしろ、女にしろ)。
ただし、条件つきでそれが安全側に倒れた「理解できない」場合に限り(これは森さん独特の表現。安全側というのは、人間が対象をバイアスをかけてみてしまう場合に2種類あるのだが、それが安全側ということ。もう一つは危険側。つまり過大評価が危険側で、過小評価が安全側と考えるとわかりやすい。自分にとっては過小評価されているほうが安全、という意味)。
最近トレンディな(悪い意味で)、ドメスティックバイオレンスも、こういうのと関係しているのかな。全然はなしが違うような気がした。物凄い勢いで。
その理由を考えてみる。
なぜ、人は理解できないものに引かれるのか。
それは多分、人間の生存本能ではないか。人間はとりあえず目に入るものは理解しておきたいという願望がある。だから、理解できないものは、理解しようとしたくなる。
そんな歴史の積み重ねににより、今、人間は河豚が食べれるし、キノコも食べれる。いわば怖い見たさ、ってのがあるのかも知れない。
自然は畏怖すべき対象だけれど、そこに身を投じるのは恍惚でもあるわけで。でも、それは対象を理解しようとするからなのだろうか?ちょっとそれはまた別で、どちらかというと心理学でいうタナトス辺りにかかってくるのかも知れない。あるいは、フロムの自由の概念あたり。権威には、人間はお手上げちゃん。
じゃあ、恋はまた別だな。
護衛本能ではなさそうだな。理解しにくいものは、遠ざけたほうが良いから。
人間のあらゆる行動は、ミーム的な意味での種(時に固体)の保存の原理に基づいているわけだから、きっとそこから解き明かせるはずなんだよな。
あ!そうか。自分が犠牲になったとしても、種(グループ、種族など)としては、対象を理解できるから、問題ないのか。これってば、そういえばザッキーさんが卒論でそういうのを研究していなかっただろうか。
村社会では、キチガイを作ることによって、その村の求心力を高める、というような。つまり、外部があってこそ、初めて内部が生まれるというようなパラドキシカルな構造。
つまり、そう考えると理解できないものを愛するのは、人間全体にとって、それが有意義だからか。
なるほど!心得た。