三連休の中日は、思い切り寝坊して珈琲。

戦友ゆうちゃんのブログで見かけた一文に痺れた。

DailyTokyo:麻布十番はやくざな町か

こちら。

トーキョーではいまこの瞬間も
いろんな誤解が生まれている

おー、そうだよね。と思った。

誤解ほど世の中にスパイスを効かせてくれる厄介で困難な認知バイアスはなくて。その誤解を解くのに人は言葉に言葉を重ねて、さらに誤解を生産していく。

まさに人とはまさに誤解生産機。喋れば喋るほど、なんだか間違った方向に突っ走る。

コミュニケーションたるや、まさに誤解を前提になりたつわけあるよ。

お互いが分かり合えないのを前提に、それでもなんとか徒手空拳で我らは言葉をつむぐ。結局は行間をため息で埋めていくことになるのだけれど。まさに、浜辺で砂山を作るよう。その様は、砂上の楼閣。

で、そんなことを考えていると示唆フルな一文に再度出会った。

sunnyのブログ
 #リンクしていいのかな。まずかったら後で消そう・・・。

ふわふわクラゲ-私のイキかた。

コミュニケーションが発生するにはそれなりの条件が必要となり
もし、それが発生しない場合に発せられるこの言葉。
これに、私はケースバイ、と同じ軽薄さを感じる。

「そういうつもりじゃ、なかったんだよ」

ケースバイって言葉、私もよく使うから気をつけなかんなぁ。ケースを列挙して、その場合の可能性を提示する場合は良いのだろうか。あるいは、全てのケースを包含するルールを出さないといけないのかしら。なんて。

ふーむ。なるほどなぁ、と、思った。

蛇足だけど、抽象的な文章、あるいは複雑な文章を読む時は、その文言を追ってはならないと思った。それより大切なのは、思考のトレースなんだよ。

つまり、どういう意図でこの言葉がでるのか。自分がこれを書くなら、どういう思考プロセスを得るのか、そういう視点で書かないと、その方々の文章ってのは、きっと読めない。

哲学書とかでもそうだけど。
多分。
そんなことをちょっと思った。

まぁいいや。

世の中は誤解で溢れている、それは正だとするならば。

それを前提で生きていくほうが良いのか、あるいはそれを見てみないで生きたほうが幸せなのか。

ケースバイだな、と思った。

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