この本の原作は昔読んだことがあるのだが(2巻くらいまで)、このドラマが始まった頃に友人より
結婚しない君は見た方が良い
というアドバイスを受け(実際はもっとやわらかい表現でしたが)、ドラマを見たら、まぁ他の皆様と同じようにハマった。
これって、脚本が素晴らしくよくできているので、見てる人によってはまるポイントが全然違うという素晴らしさがある。物語が多次元化されている。
たとえば「LGBT」「結婚」「シングルマザー」「未婚」「リストラ」「主婦の価値」などなど。しかもどれも時流にあったもので、ほんとにため息が出るほど。脚本の野木さんすごい。きっと見返すとさらにいろいろな発見があるのだろう。
Web上でも様々な解説があがっており、たとえば以下などは「なるほどなー」と。
»野木亜紀子『逃げるは恥だが役に立つ』最終話 – 青春ゾンビ
ということで、私も興奮した1人として、誰かに思いを共有したく、個人的に刺さった点を記載。
(録画していたのを週末のさっき見たのだ)
罪悪感の肩代わり
主人公たちが契約夫婦であることを従兄弟の人に隠している。しかしバレそうになって「もういっちゃおうか」とガッキーがいった時に星野源が行ったセリフ。
ゆりさんに罪悪感を肩代わりさせるということです
これってあるよねー、と。
自分が告白すると自分は気が楽になるけど、その分、相手にその重さを負担させることになるのよね、と。
それって恋愛だけに限らずプライベートや仕事でもあってなかなか深いお言葉だなぁ、と。「罪悪感の肩代わり」っていう表現がいいよね。
電話を取る間
最終話か最終話のいっこ前か忘れたけど、竹野内豊みたいな人と石田ゆり子がいて。そのシーンの背景としては、2人は好き同士だけど、石田ゆり子は「年齢が離れているので、はまっちゃだめだ」と距離をおいているシーン。
そこで竹野内豊が電話をかける。石田ゆり子は、その電話の着信を5回くらい待って、取る。
この5回くらい(回数忘れたけど)、というのが非常にリアルで。ようは、これは数回のコールだと、だめ。意思決定ができないから取れない。しかし、なり続けるのも違う(取らないということだから)。
電話って、要は「鳴っているこの瞬間にとるかどうかを迫られる」という意思決定を迫る道具で。そこがLINEと違う。
ただ、このシーンではその電話の暴力が非常に活きている。ここでは、LINEだったらきっと無視していたやりとりを電話ではとってしまう。すると物語が進む。
人生って時にこういうシーンがたまーにあり、なんともヒリヒリするシーン。
幸せな50歳を見せてみろ
最終話で、石田ゆり子と男性を取り合っている女の子がいて。その女の子は石田ゆり子を「おばさんが恋しちゃって」的に攻撃する。それに対して、石田ゆり子は「年齢で勝負するのは呪い。自分が年を取るとその呪いに苦しめられる」と軽やかに交わす。
その石田ゆり子への言葉が「幸せな50歳を見せてみろ」という言葉。これは深い。
要は「ここでは自分は身を引くが、あなたがそれで幸せになるならば、将来的に自分がそのような幸せになれる可能性に繋がる」というメタな示唆を含むものであって「すげえセリフだな」と思った。しかもそれが捨て台詞となっているので、キャラクターは壊していない。そして物語にあっている。聞いた時は鳥肌がたった言葉だった。
意思半ば
どこかのシーンで星野源とガッキーが性行為をすると思われるシーンがあり、そこで、星野源の身体の不調で行為にいたれなくなる(ドラマの中では「志半ば」と表現)。
これって、多分、夜中の男性の9割くらいが経験して、トラウマになって、そして、なんとか必死で乗り越えている通過儀礼なんじゃないかと思うのだけれど、そのシーンをど真ん中に描いていて、なんかしびれる。ヒリヒリする思い出したくもない過去を突きつけられるというか。
運命の相手なんてよく言うけど、運命の相手にするの
ガッキーの親が言う「運命の相手なんてよく言うけど、運命の相手にするの」も、セリフだけ取り出していえば、陳腐な少女漫画のセリフなんだけど、これって、現代の日本の結婚観の回答の1つなんだろうな、と思うわけです。
現状、「結婚したいけど相手がいない問題」に関して、解決策は2つだと思っていて(一般論として)。
1つは各所で言われている通り、「自分の条件を下げる」ということ。基本は「男女同数で結婚したい人がいる」と仮定した場合、それはミスマッチ(CVRが悪い)かマッチ機会が少ない(impが少ない)のどちらかの問題でしかない。そして前者のミスマッチする確率を減らすには、自分の条件緩和が必須となる(さらにこれを緩和すればマッチ機会が少なくとも、コンバージョンは増える)。
で、もう1つは「任意の出会いを正しい出会いである」とする仕組み化。ようは「自分の条件」というものをなくして「誰かとマッチして、そのマッチした人を最適な人である」とするメカニズムというか。
つまり「相手が誰であれ、結婚するとそれなりにうまくいく方法がある」という仮説の元にたち、お見合いなり、偶然の出会いなりで出会った人とともかく結婚してしまう、という話。そうすれば、マッチングはあがる。
まぁ、とはいえ、両方とも簡単な話ではないのだけれど、とはいえ、精度をあげるには上記の2つの仕組みは有用だと思っている。ゆえに、「運命の相手なんてよく言うけど、運命の相手にするの」は上記の後者の話にフィットしていて「なるほどなー」と思った
あと「愛してるわよ、お互い努力して」も、なかなか深い。
愛って、「自然と生まれて持続するもの」という共同幻想があるけど、そんなのちゃんちゃらおかしい。恋愛感情は3年という生理的な限度がある以上、それ以上を持続させるのは努力でしかないのである。
「好きじゃなくなる」なんて当たり前のことで、その上でいかに継続するかは知恵が必要であり、意思が必要であり、そして努力が求められるのである。なんちて
手が震えるシーン
ガッキーが、星野源に「性行為をしよう」的な話をした時に、星野源が「そんなんじゃない」的に逃げる。その後、ガッキーは、冷静さを装っているが、飲んでいたグラスを流しに流す時に、その見えない場所で、グラスを持つ手がとても震えている。
これもリアルだよなー、と。男女はすったもんだあり、こうやって恥をかいていきていって、でも、建前があるから(社会的動物として)、平然なふりをして。でも、隠れて手は震えている、と。
待ち合わせ
星野源がプロポーズをする時にレストランの待ち合わせをする。そこでの描写シーンとして、星野源が待っていて、ガッキーが、後ろからゆっくり眺める。
この時間って、とても良いというか。僕も人のカップルの上記のような待ち合わせシーンを見るのが好きなので、このシーンもいいなーと。わざわざこのシーンを描写したってことは、そういうのを言いたかったのよね?このドラマは。恋愛における待ち合わせの重みというか。
自分のブログを検索しなおしたら「待ち合わせ」でヒットする記事が7つほどあって、特に以下では待ち合わせの妙味について書いていた
よっぽど自分は待ち合わせが表現する意味に興味があるんだな、と思った。
いやー、いいドラマだった。