議論のセクシーさ

数年前のメモを見ていたら「正しさを主張すると色気がなくなる」ということを書いてあった。

誰か周りの人の言葉だったりしたらごめんなさい。出典の記載漏れです。

いずれにせよ、なかなか興味深い観点やね、と思った。

というのも、時に、議論というのは「正しい」「正しくない」という判断基準では収まらないことが多々あるからだ。自明の断りとして。

たとえば、「上が黒といったら白でも黒」だかなんだかという言葉があるように、時に「上が言っているかどうか」が議論の焦点である場合もあり、あるいは「賛同できるか」がポイントになることもある(cf アメリカの陪審員制度を扱ったハリウッド映画)。選挙の場合は「どれだけ多くの人がYESといっているか、でもある。

そんな折「その立ち位置がセクシーであるかどうか」という軸もあるような気がしている。

そういえば関係ないけど、マーケの大家ゴーディン氏も「トム・ピーターズのサラリーマン大逆襲作戦〈2〉セクシープロジェクトで差をつけろ! (トム・ピーターズのサラリーマン大逆襲作戦 (2))」で、セクシーという言葉を使っている。

「セクシーなプロポーザル」というのは、いわば、「ぐっとくる」軸を攻めた立ち位置であり、それは「正しさ」を度外したところに価値がある。

それが冒頭の表現で言うと「正しさを主張すると色気がなくなる」とも繋がる。

いわば「正論を貫いても物事は動かない」ということにも似ているかもしれない。世の中には「正論」原理主義の方もいらっしゃり、「べき論」を多様される。

で、それに対しては「正論では物事が動かない」という意見も、「それを踏まえつつも、正論は貫き通すべきだ」という意見もあるだろう。

いずれにせよ間違いないのは「正論」にはセクシーさがないのだ。いわば、ヒンドゥー教とイスラム教、ファンダメンタルとテクニカル、グリーンピースと捕鯨業者、ドラクエ派とFF派、男性と女性、これらのポジショニングトークの響きのような。

もし正論を貫くならば、「正論を落とし込む」ところに色気を振りまくべきであって、「正論の正論性」に力を注ぐのは、「数字の2は1より大きく3より小さい」と声を上げているように聞こえる、気がする。「So what」となるような。

誰かの話で、「寿司好き?」「温泉好き?」と女性に聞くのは愚問である、という話を聞いたことがある。いきとしいける女性はおしなべて「温泉」と「寿司」が好きだからである。

ゆえに「寿司好き?」の質問は「So what」ではなく「Shall we」であるべきであり、そういう意味において「べき論」よりも「たられば論」の方がセクシーである。もしもあなたが「寿司が好きならば」みたいな。

ちなみに2011年は「「セクシー素数」の年」だそうだ。さらに、蛇足すると森博嗣の「すべてがFになる」によると、孤独な数字は 7である。よって、孤独さ(7)とセクシーさ(6)は、隣り合わせ。

なんて。

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