フレンチはソースである、ということ

アートと楽器の話をしていた。

その人はアートは長くしているが、楽器は短かった。そこでこういう。

楽器はしていて「ああ、そういうことか」という世界が見えなかった。アートでは見えたのに

という。

つまり、アート、いわゆるペインティングだが、をしていて、最初は言われたことや偉い人が行っていたことがどういう意味を持つのかはわからない。ただ、ある瞬間に「ああ、そういうことか」とストンと腹に落ちる瞬間がある。そして、楽器ではその「ストン」と来る瞬間が来なかった、という。

そういうことは、誰しも経験したであろう。

たとえば、教訓もそうだ。うちの父親がいう「いつまでもあると思うな親と金、ないと思うな病気と災難」といった箴言は、きっと病気になった時などに「ああ、確かにそういうことなんだな」とまさに体験してこそ気づくものである。

他にもたとえば、自分の例でいえば、会社の経営や組織の話だってそうだ。大学時代に1万円前後もするベンチャーの本を読んだ。行っていることはわかる。しかし、それらの意味の少しづつが、ストンと理解できたのは、やはり自分でその現場を経験するからだ。たとえばマーケティングの「4P」なんて意味を理解するのは簡単だ。しかし、それを自分で使えるようになるには、血肉として使えるようになるには、多くの経験を要する。

アウトサイダー(コリン・ウィルソン)の言葉を借りれば「向こうの世界が見えてしまった人」(うろ覚え)ということであろう。

ちょうど、これに近い経験を先日した。

フレンチとはソースを食べる料理である、という一文だった。「ああ、そういうことか」と得心した。

もちろんこれに反論がある人もあるだろうし、フレンチの定義としてこれは不足しているという趣もあろう。ただ、そういわれると「ああ、確かに、なるほどな」と感じるところもあるのも事実である。

そう考えると、いままで見てきた、食べてきたフレンチの見え方がまったく変わる。ソースがきになる。ソースが表に出てくる。

また、友人がワインを飲んでいるシーンを見て、似たような思いをした。その人は、あるワインを頼んで、匂いを心から楽しんでいた。いや、ワインとは確かに匂いを楽しむ飲み物だと頭は理解していても、あのように満面の笑みで「この香りは最高だ」と言い切れるようなものだとは理解していなかった。「この香りだけでいい」と言い切れるほど、ワインの香りの価値を把握はしていなかった。飲み物の味がそこまで人の表情を豊かにする、ほころばせるとは、一種の驚きでもあった。

きっと、それはワインだけの力だけではその世界は見えず、受容する側、すなわちこちら側もそれを理解する力を求められるのであろう、と思う。フレンチも食べたことがなければ「ソースである」といわれても、「ふむ」となってしまうように。

そう考えると、人が見ている世界は人によって、ほんとに異なるんだろう、と思う。

同じ街を見ていても、たとえば広告の人は広告を見るように、小説家はそこにドラマを見るように、ないしアパレル関係者はファッションを見るように。

同時に自分の見る世界も10年前と今では異なる。さらに10年後では異なるのだろう。そういうことで、いろいろなあちら側を見てみたいと思いました まる

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