せっかちだ、という言われることが多く。
今日、たまたま「いつからそんなのなんですか」と聞かれて、思い返したら、高校生くらいの頃から、時間の価値に関してはこだわりがあったかもしれない。
高校生の頃から、速読と短眠の本はかなり読んでいて。ただ、それって「天才でないならば、努力でカバーするしかない。努力でカバーできるのは時間を効率的に使うことだ」みたいな考えがあったように思う。実際受験のころは3時間睡眠だった。
そんなことをおもいかえしていたら、ふと、思い出した風景があった。小学生低学年の頃にみた習字の大会で。その時の習字のテーマは「時は金なり」だった。その時にいっしょにいたおばあちゃんが「時間はとっても大切なんだよ(平たく言えば)」というようなことをいってくれて。それにとても感銘を受けた覚えがある。
ただ、そういう効率性の弊害というのもあって。
最近の研究で睡眠は、効率と反比例するというデータがたくさんでているので、データ好きとしては、それにのっとって睡眠改革をしている。
あと効率性を失うと、笑顔も失われていくような気がしていて。ゆえに、効率性重視はやめようかなと。吉本 隆明のいう”転向”ってやつだな
ただ、「時は金」というのは事実だとすれば、昨今、メディアでいわれている「高所得者により多くの税金を」という論説に別の切り口も見えてくる。仮に、高所得者が、自分の時間を削って、お金を得ているなら、その人はお金を得ている代わりに時間をなくしている。そして、時間は金だ。ゆえに、そこでは「時間を失うかわりにお金を減る」という等号がなりたっている。もちろん、時間を失わずにお金を得ている人も多いのだろうけど。ただ、もしそういうケースがあるなら、時間もなくなっている人に税金をかけてお金もなくすのって、不平等な気がしなくもなかったりする。
とはいえ、こんなの極論ではありますが、思考実験としてふとそんなこと思いました。時は金なり、というのは、昭和の言葉なのかしら、とかとか。