第16回三島由紀夫賞選評
はてブより。2003年だかの記事らしいけど。
三島由紀夫賞の選評です。「阿修羅ガール」という本の。
書くことが他にないのかと思えるほど男女の愛やデートやセックスの話ばかりであり(何度も言うようだがセックスとは書くものではなくするものだ)
キッタコレ。筒井御大節。
近年、某社からやたらに若い女性の書き手が登場するが、本来的に二十歳以前の文学は無理なのである。
しかし、あの後も女流作家はどんどんでてきていらっしゃいますよ!
最近は、オナコーラというファンキーな人まで!本は面白かった!
タイトルは「私のセックスを笑うな」。何がよかったかって、高橋さんのあとがき!
だいたい井伏鱒二やトオマス・マンが毎年ふたりも三人も出るわけがないのであって、売り出すとすればまさにその年齢でしか書けない感性によるしかないのであろうが、そんな才能だけでいつまでも書けるわけがなく、大学に入ってからの文学修業など知性の末端肥大や混乱を招くだけであって、彼女たちの将来を考えればティーンエイジャーの文学デビューをここいらで打ち切りにした方がよいと考えられる。
これってあれか。
蹴りたい背中のこと?あるいは金なんちゃら何がしの蛇とピアス?
出版社はホリプロではない。ティーンエイジャーの女性文学者だけで「モーニング娘。」を作ってどうするのか。大人の読者を馬鹿にした所業としか思えず、架空の想定による彼女たちの追っかけめいた若い文学愛好者など当てにしてはならない。
この断言かっこいいなぁ。
うん。実際、わたやりささんの本は紀伊国屋で立ち読みしたけど、何がいいのかこれっぽっちもわからなかった。
彼女たちのデビューを邪魔しようとするものではないので、彼女たちに相応しい別ジャンルでの活躍は大いに望まれるが、少なくとも文学を標榜することは慎んでいただきたいものである。
きゅぁかっこいい。てかここまで引用しすぎて大丈夫かしら。
だろ。
師いわく、小説家になるのは30歳でも早すぎるのだ。40歳からっていってたかなぁ。忘れたけど。サラリーマンせずに小説がかけるか的な。
ちょうど、先日、阿修羅ガールについて書いたところだった。蛇足だけど。
2006年、原田の眉間を刺激した小説12冊
いわく、佐藤 友哉と西尾いしんと舞城 王太郎。だったよね?嘘だったらごめん。ノベルスの王者か。メフィストの3人集だった?まぁあやふやな記憶。
いやさ、僕も文学なんかいう気高い言葉を使う気はないけどさ、うなんか、ふわふわしたよくわからんので賞とりはると、「本の底力」ってのが見くびられてしまう恐れがあるのではないかとオムわけだよ。そうすると先達たちへの冒涜になるわけだよ。だから、やはりここは一線をかす必要があるわけですね。
「あれは単にブームでした」というような。
確か、これも筒井さんの言葉だったと思うのだけどね。
SFショートショートの書評で。
「アイデアだけは抜群にある。しかしアイデアだけで本はかけんのだ。基礎ができていないと話にならん」と。なるほど、と思ったことよ。
ほんで、また別のところで、1999年くらいだったと思うのだけど。もう少し前かな。
「今は、小手先だけ上手い人が増えた。しかし、文学というのは、そういうものではない」と書いていて。おおなるほど。と。
これってば、多分、**のときの**さんのことを評してはったんだと僕は認識したのだけど(ともあれ、それは当時のことなので現在の平野さんとは別問題というか、原田は関知せず)。
まぁ、しかし、あれだよ。
セックスは書くものではなくてするものだよ。村上龍御大にいっておいてあげてください(いい意味で)。
しかし、友人いわくセックスはするものではなく、持つものだ、という深い名言はある。
さらにはセックスはアンカウンタブル(不可算名詞)なのに、回数は数えられるという不思議な単語。ゆえにI have a sexではなく I have sexだった気がするけど、これ回数の場合は?timesがつくのね。なるほど。
あと幸せも望むものではなく感じるものです。