ワイルドサイドを歩け

最近読んだ本より。

ワイルド・サイドを歩け (kazlog.jp/book)

この中でなかなか気になる一文を見かけました。

つまり選択肢をともなわない行動では、人間、決して前には進めないわけよ。時間に解釈を委ねるんなら泣き寝入りすればいいだけど、積極的に物事を解決していきたいわけね。
だからぁ、最悪の選択肢もほかの選択肢と同じように扱いたいの。とどのつまり、それができなきゃさ、もう悩むなってことよ。

どうでしょうか。

最近、若干、ブログが哲学チックになってきてそっちに寄り過ぎるのは避けたい昨今ですが、まぁ、その辺りの話しになrのかしら。

んと、ここで言われているのは「自分で選択肢を決めることの意味」だとわたくしめは理解したわけです。

でも、実は人間の人生ってば、選択肢ってそんなになくて。あるように見えても、実は、それはなりゆきで選んだものだったり、はなから決まっていた選択肢だったりして。

個人的に好きな言葉にLet it be(あるがまま)ってのがありますが、これもいい意味では「即天去私」なのだけれど、あるいは、まぁミドルネガティブな意味での「ポジティブ思考」なのだけれど。

それってば、実は選択することをマイルドにヘッジした行為である。つまり「どの選択肢をとっても効果は同じ」と考える。ないし、「どの選択肢であっても、結果的にはOKと考える」という「非常にずるい」考え方なわけです。

で、上記で言われているのは、もっと選択することの大切さ。恐らくこれはハイデガーの言うところのゾルゲと関係しているような気もしないでもないけど、下手なこと言うと危険なので言わない。

で、問題はその選択肢がまやかしのものであっても、効果があるのかってのが個人的に気になるところで。

つまり、この選択肢を選び取ることの大切さは「実質的に選択肢を選び取る」から有意なのか「選択肢を選んだという本人の存在」が有意なのか、という点の違いである。

哲学にたとえば禁忌だがあえていうならば。そうねー、ある囚人が死刑宣告されて。で電気イスと絞首刑を選ばされて。で、ここでの看守の目的とは相手を殺すことだから、いずれの選択肢だって問題ない。しかし、囚人によっては、どちらかを選ぶことはできる。で、これは実質的には何も選んだことにはなっていない。結果論から見ればどちらでも死ぬのだから同じである。しかし、それでもどちらかを選ぶことが大切のか、という問題である。

あるいは、である。あるいは、もう1つ、偽者の選択肢の存在を。たとえば、男が女に告白したとする。で、女は「車を買ってくれたら考える」という。男はがんばって車を買う。しかし女は「考えたけどごめんなさい」という。男はこれを見ると、「がんばって挑戦した」という選択肢を得ている。しかし、女は最初から付き合う気はなかったとする。そうすると男が頑張ろうと頑張ろうまいと、結果は同じである。さきほどの例えと違うのは、さきほどの選択肢は選択肢そのままの価値である背景も等価である。しかし、この例えでいうのは選択肢に見えるBは実はAだった、というまやかしである。つまり背景が異なるわけである。

しかし、この2つのどちらでも当人からすれば選択肢を勝ち取ったという認識になる。これが大切なのか、あるいは「本当に差異が生まれる選択肢」が大切なのか。その選択肢としては、たとえば「大学院にいくか就職するか」のような選択肢でもいいや。まぁ、2つの選択肢が同じではなく、かつ結果的に別々の未来が存在している場合。もっとも、実はこれだって程度論や、主観か客観かに視座を置くことによって「ナンセンスな選択肢」になるのだけど。極論すれば、いずれせによ「50年後は死ぬ」というマジックロジックを使えば「結果は同じ」ということになr。まぁ、しかしそんな間違った達観を使うと話がややこしくなるので保留。ここはあくまでも「程度」を重視すべきである。理由は、実験というのは、一部を切り取ってそれを演繹化できるかどうかに価値があるのであって、その実験がフレームが小さいというだけで拒否されるものではないからである。

で、なぜこの違いが大切かというと、一般的な教育論などもこのロジックを使っている時があるからである。

つまり、最初から答えが決まっている場合でも生徒に考えさせる。「どっちがいいと思う?」と聞く。で、結果はどちらも同じになる。あるいは、先生が決めている結果に誘導する。しかし、生徒にとっては自分が決めたように感じる。それがたとえば教育のモチベーションや自己動機付けの意義に関わってくる問題だから価値があるのである。ここでの意味は「まやかしの選択肢でも価値がある」という見方である。

まぁ、それはそうなんだろう、と思う。なぜなら結局、人間ってのは意味づけに価値を置いているのであり、一般的な心理学も、万物の認識によって生まれる差異の学問である。そのため、環境要因や変数、あるいは効用はまったく別問題として扱う必要がある。

では、そこで出てくる疑問が、「まやかしの選択肢」と「実質的な選択肢」に差異はあるのかどうか、という点である。これが違うならば、人にアドバイスをする時の言葉も代わってくる。まぁいいや。これは傍流だ。

んと最初の引用に戻るならば、選択肢が存在する場合に避けたい選択肢も同等の重みをもって扱う必要がある、とある。これは個人的にはリスクを見極めることだと認識しているのだけれど。つまり、「こっちを選びたい!」というポジティブな選択肢のプラスの側面だけを見て物事を決めるのではなく避けたい選択肢のネガティブな価値とちゃんと相対的に比較して、結果を導き出すことの大切さである。

こうすると何が嬉しいかというと、選択をする、という行為をおもみづける事が可能になってくる。ということでやっぱりリスクの見積もりは大切だ、という結論が個人的には出てくるわけである。

ということで、ゴムはちゃんとしましょう(疲れたので超投げやりな結論)

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