なんか最近、書評多い疑惑。まぁいいか。いつも通り、本多さん。思ったけど、春樹に似ているところ御座いませんか。
ある男性が主人公。終電を逃して泊めてもらおうと彼女の家に行きました。すると彼女にこういわれます。
「今日はどうしたの?」
「人と会ってて終電がなくなっちゃったんだ」
「人?」
「女の子」
「可愛い子?」
「まぁまぁ、かな」
よしよしとうなずいて熊谷は笑った。
そして彼女はこう言います。
「可愛くもない女の子と話しこんで終電を逃すような間抜けはうちに泊めたくない。
ふーむ。
で、次。春樹さん的に言うならばダンスダンスのユキ的な女の子のセリフ。
知らないの?人生って綱渡りなのよ。
タイトロープダンシングって奴ですね。人生が綱渡りかどうかの検証はなかなか興味深いような気がする。まぁ、本人の価値観次第にはなるけれど。でも、綱渡りよりもロシアンルーレットのほうがいいなぁ。
「子供は三歳までであらかたの親孝行を済ませているという考え方もあるそうです。」
「つまり?」
「つまり、3つまでの可愛さで親は十分に喜びを得ている。だから、その後、どんなに子供に苦労させられても、その記憶を頼りに子供を愛する事ができる。
この概念かなりヒットした。すでに2回も他のところで使ってしまった。
~諸事情により略~
「することが変わるわけじゃないでしょ」とサクラは言った。
もっともな意見だったがそんなことを言ってしまえば大概の物語と音楽と絵画はその存在意義をなくす。
あれですよ。「もののあはれ」「をかし」は、もしかするとメタファーから来ているのではないか。あー、そうだ。どっかで引用しただけど、で、いま調べた。あった。「本の読み方 」で書かれていた以下の文。
比喩がきまっている、というのは、提出されたイメージが例えられるべき現実に重層的に対応しているときである。
うむ。つまり、やりまくりたいという言葉を使うならば、それに応じたストーリーが必要だな。それが出来るとそれが芸術になるのではないか。
空の青さに涙を流していられるほど大人は暇じゃないんだ。
そして、涙を流されて困るほど子供でもないんだ(嘘
で、以下はその女の子が下着をデパートに買いにいくということで、ついていかされた主人公の独白。
略
「正論ですね」と 僕の声はいった。
「けれど、僕の知る限り、人は正論では動きません。
そこが問題。では、それを課題とすると、正論を言い続けると人は動くのかどうか?1つは言葉への耐性が出来るので、もはや効用は隠遁するという説。もう1つは、蓄積された言葉がいつか臨界点を超えるという見方。個人的には後者を信じたいけど、これもケースバイだね。というか、毎回同じ正論を言ってちゃ人間の生理的に耐性が出来るのは間違いないから、手を変え品を変え言葉をかえなあかん。ちょうどこないだ読んだこの本に書いてあったことが以下。ヘミングウェイの話。
「老人と海」を2000回も書き直し、「武器よさらば」の結びを44種類書いたといわれる。少しづつ異なったアプローチを続けること。しかし、やり続けることである。
これだな。
略
才能というものが自分の力を信じきることできる能力だとするなら、彼女にはそれが賭けていたのだと思います。
深遠なるお言葉ですね。
2007年、劇的に楽しませてもらった小説12作
最近、あれがアレゲな感じでございまして省エネエントリ。で、2007年に読んだ本のレビューしようと思ったらもう2月ですが、まぁ、そういうことで。 過去のは以…