土曜日を歩く


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完全に独り言です。
麻布十番の夜を歩いた。土曜日の夜だった。
土曜日の夜にも関わらず、相変わらず麻布十番は静かで。そういうところが好きだ。つまりは、私は人ごみは苦手だけれど、そもそも人ごみが得意な人はそうそういないので、結局、この一文は何も言っていないに等しい。いずれにせよ麻布十番は年の3日間だけを除いて(麻布十番祭り)、基本的には混雑していないように思う。特に日曜日の十番の閑散さは讃えたいほど情緒にあふれる。
ともあれ、十番を歩いた。
考えたいことがあって、ふと思い立って歩いた。浮き足だつでもなく、勇み足でもなく、ただ淡々と。たんたんと、の当て字は淡々でいいのだろうか?違うような気もするけど、なんだかその淡さがあっているような気がする。
人は考えるときに歩くことが多い。足の刺激が脳に良いのか、あるいは環境の変化が脳にやさしいのかわからないけれど、歩くことが多い。
そういえば、最近歩いてなかったな、とふと散歩をしながら気づいた。中学生のころは自転車をひたすら乗って考え事をしていたことを思い出す。近くの車が通らない町内を30分から1時間、ぼーっと漕いでいた。
高校生のころからは走ることに変わった。毎日、夜中か早朝に走りながら考えることは、とめどないけれど欠かせないもので、そして、そこには新しい酸素があったように思う。日吉近くの鶴見川や芝公園の東京タワーのまわりをただ、たんたんと走っていた。
社会人になってからは泳ぐことに変わった。六本木一丁目のジムで、朝、外国人と一緒に泳いでいた。走ることもラニングマシーンに代わってしまったせいで、本を読みながら走ることになり、考えながら走るという時間は少なくなっていた。
そんなこんなで最近歩いていないな、と思った。厳密な意味では歩いているし、散歩をしているのかもしれないけれど、1人で、こうして歩くのは久しぶりのような気がする、なんてことを思って、新一の橋から一の橋へ向かい、ウェンディーズから商店街に入り、網代公園を通って、けやき坂まで歩く。
ふと気付けば麻布に住み始めて5年で、それは長いか短いか、どちらでもないかはわからないけれど、まぁ、5年もいれば、それなりに町には思い出が付与される。
それまでは麻布十番は実利面から住んでいたのだけれど、年月による思い出の付与がいつしか、そこには別の価値を付与していた。それがビジネス用語でいえばブランドであり、一般用語でいえば思い出であり、哲学用語でいえば思念なのかもしれない。5年住んで、初めてそんなことを思った。
十番を歩いて、店にそれなりに記憶が付与されていることに気づき、「地元」の力というのはこういうことなのか、と気づく。それまで地理的概念には、そのような主観的な付加価値がつくかどうかはわかっていなかったのだけれど、それはアクションに結びついた記憶とともに、場所に格納される。つまり、Keyは場所であって、時間や人ではないのかもしれない。あるいは、それらもKeyなのかもしれないけれど、いずれにせよValueに場所のKeyは密接に結びついていて、「ああ、場所の力はそういうことか」とひとりごちた。
そして、今まで歩いてきた土地を思った。
日本は当然ながら、世界の道を思った。私は新しい土地に行くと、とりあえず歩く。その土地の空気を吸い込むために、ひたすら歩く。好きなだけ歩く。アフリカではさんざん歩いた。そもそも地図がいまいちで迷子になって歩いたという点もあるのだけれど、あるいはタクシーやバス、電車などの公共機関が不足しているから(タクシーは違うか)、という点もあるのだけれど、アフリカの街中は、なんだか生生しくて。それはコンクリートがないからなのかもしれないし、あるいは「土の上を歩く」という都内では珍しい経験を有することができるからなのかもしれないけど、アフリカではよく歩いた。
ガーナの首都アクラでは、町の橋から橋をただ歩いた。ぼーっと、あるいは、ギンギンと。朝から夜まで、歩き続け、目にしたものに驚き、あるいは果てない道に混乱し、ないしは、アフリカの太陽にめまいをしながら、ただひたすら歩いた。
疲れたら、どこかのカフェで甘ったるいカフェオレ(ミルクではなく練乳)を飲んで、おなかがすいたら町の屋台でバケツごはんを食べた(お風呂桶にご飯とかけるものが入った食べ物)。
だから何?と言われると返す言葉もないのだけれど、歩くということがKeyとなり、アクラと麻布十番が少し近づいた気がした。だから何?とは聞かないでほしいのだけれど。
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ということで、週に1記事はブログを書こうという自分ルールにのっとりがんばってかきました まる

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