毎日ベッドで横になり普段はあまり気にしないけど、朝はガミガミとわめき散らすもの


件名の答えは「目覚まし時計」なんだけれども。
何が言いたいかというと、世の中の「コト」「モノ」というものは、「端的に言える」存在であることが多い。
たとえばニュース。ニュースは「件名だけで内容を把握する」ということが多い。それは古来から新聞の見出しの力としてもそうだったし、ないし、昨今はWebのニュースのタイトルもそうだ。
「○○容疑者が逮捕された」というニュースは、その一行が全てを表していて、内容はその説明や詳細となる。いわゆる「釣りタイトル」だと、そのタイトルと内容が乖離するが、これは上記の「タイトルの総括性」を逆手にとった仕組みなので、包括的には、上記の法則に則っている。
何が言いたいかというと、物事や出来事は、本来、とても「シンプルで在る」ことができる存在なのに、いろいろな説明や背景や修飾や形容により、時に複雑になり、時に重奏となる。
それはそれで何も悪くないし、それを否定すると世の中では「物語」というものが存在しない。
ユリシーズだって「人の思考をトレースした前衛的な物語」で終わってしまうし、失われた時・・だって「マドレーヌの挿話が有名なあるフランス人の長い話」で終わってしまう。「アンナカレーニナ」だって、「恋愛小説」の4文字でポイントは押さえられてしまう。もちろん、そこに「ロシア文学を代表する冗長ながらもその冗長さが癖になる濃厚小説」という形容を付け加えてもいいし、あるいは「最後悲しい物語」というサブタイトルをつけてもいい。
※一応注釈しとくと、上記はある種の諧謔であり、本来は上記の一行で表せるものではない
ただ、物事は「シンプルなポイント」と「そのポイントを拡大したその他全て」の2つから成り立っているような気もする。共産主義を理解するのに「必ずしも資本論」を読むことを必須としないように(そりゃ読んでるに超したことはないけれど)、あるいは、物語を書くのに百科事典を全て頭に入れておく必要がないように、物事は「必要なポイント」があり、それの付加情報で成り立っている。もっとも、その必要なポイントは人によって異なることが多いゆえに、物語は常に長くなっていくのだけれども。
昨今のミニブログと呼ばれるtwitterなどの隆盛は、そのような「ポイント」と「その他」の文脈で考えてみると面白い。140文字以内での投稿という制約は、必然的に人に「ポイントだけを述べよ(What’s the point?)」ということを強いる。英文が、最初に総論を述べることを強いるように、時に日本人にとっては、その「ポイントだけ述べる」という行為は新しい思考を求めるかもしれない。
というのも、日本語や、あるいは日本のカルチャーは往々にして、「まどろっこしい」ことが美徳とされることがある。たとえば「京都のぶぶ漬け」や「本日はお日柄も良く・・・(時候の挨拶とかも)」、「いやいやよもスキのウチ」「これでよろしかったでしょうか?」などなど例示にはいとまがない。
多分、それはそれでとても尊いもので。少なくとも、世界が「ポイント」だけで済んでしまうならば、そもそも「人生」でさえも、余剰のたまものであることを考えると否定すべき存在になってしまう。
でも同時に「ポイント」も重要で。たとえば、こういう世界だろう。海外に行ったときに「知っている語彙だけで会話する」というような。「私 これ 欲しい」「私 ここ行きたい」「高いよ」「買わない」といった簡潔で明瞭な言葉だけがコミュニケーションを支配する。それはそれでシンプルで何か気持ちの良いものだ。つまり、シンプルさはコミュニケーションを豊穣にする。日本では、「重厚なる文章」が高貴とされているのに対し、アメリカでは「より平易でシンプルな文章」が重宝されるのにも似ているかもしれない(一元化は危険だけれど)。つまり、わかりやすさは、より多くの人との意思伝達を可能にし、そして誤解を減らすことになる。
「妹の父親を育てた人の奥さんの孫」という説明よりも「私の妹」と説明できた方が、時には便利であるように。

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