vineが相当面白い

Twitterのミニ動画サービス「Vine」。

これがとても面白い。

TechCrunch」でみたのが、以下のVineの動画集

Vineは、細切れに動画を撮れるサービスなのだが、その細切れの時間にクリエイティビティが凝縮されている

最長でも6秒しかとれない短さが動画に小気味よいテンポをうみだしている

この脳天気な動画は、何度みても飽きない。愛が溢れているとさえいっても良い

他にも上記などの作品もある

ブログを細切れにしたツイッターが、動画も細切れにしてみたこのサービス。まだまだWebサービスは思いつかない切り口があるのだなーと感じた限り

世界をかえさせておくれよ

さっき、CMと音楽の投稿をした時に思いだしたことがあるので連投。

最近、懐かしい曲がCMのBGMに使われることが多い。これは、別に最近だからではなく、昔からあったのかもしれない。しかしながら、構造上、若い人はそのことに気づかない(若い人にとって昔のBGMは知らないので、テレビCMで使われていても懐かしいとは感じない)。あるいは最近はCMの担当者が30代の中堅になってきて、その担当者と当方が同じ世代のため、その年代に刺さる曲がCMで使われているという背景もあるかもしれない

で、最近、耳にしたのがサンボマスターの「世界をかえさせておくれよ」という曲。いろはすのCMで使われている

曲自体は2009年らしいので、古くないのだが、とはいえ、最新曲ではなく、一昔の曲(当時リリース時もいろはすのCMで使われていたそうだが)

で、この曲が「世界をかえさせておくれよ」という相変わらずのサンボマスター節の暑苦しさが2週くらいして気持ち良いのも良いのだが、それよりもこの曲に登場する女性ゲストボーカルの「伊藤歩」が良い。

その伊藤歩が歌うフレーズに「この2時間の君の頑張りから明日の恋が変わるかもベイビー」という青臭いセリフがあるのだけれど、とはいえ、これは、伝説の写真家ロバートキャパの名言「きみの写真が傑作にならないのは、あと一歩、被写体に近づいてないからだ」にも通じるものがあるもので。青かった私は、「なるほど、2時間で世界は変わるのね」とか独りごちた覚えがある(謎

で、当方は別段、サンボマスターのファンでもなく、特に曲もあまり詳しくないのだが、以前、彼らの曲の歌詞をベースとした写真集をたまに手にしたことがあり(たしか新聞の書評欄で紹介されていたのがきっかけだと思う

当時は2006年、渋谷のいまはなきブックファーストで。

そのぬくもりに用がある
山口 隆
角川学芸出版
売り上げランキング: 606,473

それが上記の「そのぬくもりに用がある」という一冊で、写真家は平間至さん。

その中の1写真に非常に衝撃を受けた。それは、「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」という歌詞と合わせた写真なんだが、ある小さい女の子が、地面一面におちたツバキを拾って、手にしているという写真で。その時、当方は「ああ、愛とは、地面一面におちたツバキを拾う心のことを言うのだ」と独りごちたわけで。

ということだ

CMと音楽とLMFAOとKishi Bashiと

YouTubeで本編が始まる前にCMが入っていることがある。

今まで大抵はスキップしてしまうことが多かった。しかし、今回、以下のCMの時だけは珍しく最後まで見てしまった。ちゃんと最後までみた動画広告は初めてかも知れない。

それが、このKDDIの「PLAY SCREEN」のCMである

わたくしめがこのCMのどこに惹かれたかというと音楽だった

LMFAOの「party rock anthem」。一昔前の曲だが、当時はいたるところでかかっていたような気がする。ダンスも特徴的で、街中では、このダンスを踊る人たちもいた(カラオケとか

※参考:以下その公式PV

で、この曲を聴きたい、というよりも、この曲が好きだったので、この曲がCMでいきなり流れて、ついCMを見続けてしまった

勿論、その先で最後までCMを見たのは、CMの構成の力が大きいのだけれど、導入の惹きつけは音楽の力だった

そう考えると、動画CMでは、音楽の力が非常に侮れないのではないかと感じた(少なくとも僕の場合

ただ、当然、そこに生じるジレンマとして音楽は「みなが大好き」というものはなかなか少なく、どうしても音楽を軸とすると、その音楽のターゲットがCMのターゲットに鳴りかねない
(皆が愛する音楽があったとしても、曲の導入部だけで人のアテンションをひくには、その人たちが耳慣れた音楽ではないといけないため

こんなことは自明なのかもしれない。そういえば、最近、CMでも、ブルーハーツや忌野清志郎の懐かしい曲を耳にすることが多く、そんな時はついCMを見てしまうわけで。

ただ、YouTubeのCMの動画で、メジャーな曲を使った事例はあまり記憶にない。もちろんそれはライセンス料の問題が大きいためだろうと思うけれど

さて、蛇足ながら、キャリアのCM曲で個人的に非常に好きなのが、docomoのAscendで水原希子女史が登場するCMにおけるKishi bashiの「Philosiphize in it! Chemicalize with it!」。CM当時は音源がリリースされていませんでしたが、先日にアルバムとしてアルバムとして発売され、iTunesでも販売されています。

ということで、単なるLMFAOっていいよね、という内容のない記事になりました。以上

※埋め込んだ動画は全て公式の動画です

コナミスポーツの目黒店がいいかんじだった

いつもいっているジムがお盆休みだったので、別のジムを探した

すると、コナミスポーツの目黒店を発見した。いってみた

目黒駅から坂を下ったところにそれはある。しかし、非常に風情のある場所にそれはある

なんと雅叙園の隣のビルなのだ

心なしかジムも和風の匂いが漂う。またビルの3階にあるので、窓からも階下を見下ろせる気持ちよさ

プールも光が存分に差し込み気持ち良い。日光浴をしている人たちもたくさんいた

当方、旅行先でプールがあれば入るというくらいプール好きな生き物なのですが、リゾート地を除くと、このプールが一番気持ち良いプールだったかもしれない

ということで、お薦めのジム紹介でした

時計台

何かWebサービスを使おうとする

IDを取れ、といわれる。自分に関係のないIDがいいな、と思い、何か考える

その時に、大抵でてくる単語が「時計台」だ。しかし思い返しても、時計台とゆかりはないし、エピソードも何もない。だからこそ、「関係のないID」で思い浮かぶのかもしれないが、あまりにも飛躍が著しい連想だ

もっともいったことがないわけではない。有楽町の時計台や大学の時計台などでは待ち合わせをしたこともあろうかと思う。ただ、それでも、最初に思い浮かぶ単語が時計台なのは、なんとも解せない

しかしながら、時計台という単語は悪くない単語である、と思う。時計を支える台であり、なんだか、それは昔の地球が亀の上にのっていた、というおとぎ話を想起させるような、なんとも心強く、そして、意味を持たない存在である。ただ、支えている

ただし、存在感はある。待ち合わせでもよく使われるように、時計台は、何かしらの象徴であるのだ。村上春樹ライクなレトリックを使うならば。

ただし、それが何を象徴しているかというと、甚だ心許ない連想しかない

歴史であったり、時の流れであったり、場の匂いであったり、あるいは物事が起こる場所であったりする。たとえば、イギリスのビッグベンや札幌の時計台が持つような。

そう考えていて、1つ、時計台のエピソードを思いだした

ある人と時計台で待ち合わせていた。しかし、僕たちは時計台で落ち合うことができなかった。時計台の場所の認識に齟齬があったからだ。携帯で、結局、別の場所で落ち合った

ここに何かの意味を付与することは可能だけれど、それはあまり意味をなさず。ただ単に「時計台で待ち合わせたけれど、そこでは落ち合うことのできなかった話」というエピソードである。教訓も示唆も何もない。

風立ちぬ

機会があり、ジブリの新作、風立ちぬを見た。

この映画は、なんとも感想を言いたくなる、ないし、かきたくなる映画だ、と思った

良い映画はそれだけで独立して存在するが、ただ、同時に人とのコミュニケーションを促進する映画も、また良い映画である

前者は、たとえば、ショーシャンクやエターナルサンシャインであろうし、後者はたとえばユージュアルサスペクツやパルプフィクションであろう。

往々にして、後者の映画は、人の想像によって完成される作品である。そこには謎があったり、あるいは解釈が求められる

人はそこに意味を持たせたがる。それゆえに、その映画はまさにメディアの文字通り、媒体となって人の口を渡り歩く

この映画も、他のジブリ作品と同じく多くの隠喩や伏線がはぐらされていたという点では同じだけれども、それ以上に「どこに着眼するか」という点が、多く用意されている映画であったように思う

それは恋かもしれないし、飛行機かもしれない。あるいは、そもそもこの映画の試みかもしれないし、ないしは、サブキャラの存在感かもしれない。あるいは重ねられた歴史かもしれないし、ないしは声優かもしれない。それゆえに、ネット上でも数々の侃々諤々の議論が見受けられるのであろう、と思う

いろいろなとっかかりがあり、見ているうちは、それがなんとなく喉に引っかかったサバの骨のごとく違和感として残るのだけれど、それゆえに、映画の後では、これに関して誰かと話をしたくなる、というような

僕の場合は言葉だった。この映画に使われているいくつかの言葉の意味がとても引っかかり、それが後にも残った。

なぜ、そこでその言葉を使ったのか、ないし、「風立ちぬ、いざ生きめやも」という堀辰雄によって素晴らしい日本語に訳された「Le vent se lève, il faut tenter de vivr」の意味合いであったり(蛇足ながら、ヴァレリー自身(テスト氏)に私が学生時代になじめなかった作家なので、そういう意味では、ヴァレリー自体が、喉に刺さった骨である)

そういう点でこの映画は、良い映画だな、と思った

夏がくると見るDVD

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梅雨が明けたそうで。

つまりは夏がきた、ということだ。夏は梅雨明けに始まり、台風が来るころに終わる。

夏がくると、見るDVDがある

サザンの「Inside Outside U・M・I」というDVDで。↓

サザンオールスターズ - Inside Outside U・M・I [DVD]
ビクターエンタテインメント (2003-08-30)
売り上げランキング: 6,099

サザンの曲と夏の映像が合わさったDVDで。曲は好みがあるからともかくとして映像が良い。

波際でサーフィンに戯れる人々や湘南の風景、ないしは一夏の夢物語的な映像が詰まっている。

その中の1曲「あなただけを~Summer Heartbreak~」は、1995年のドラマ「いつかまた逢える」の主題歌でもあり、あの中学生の頃の夏をどうしても想起させ、ああ、夏がきたねえ、と感慨に耽る

そして、20歳を越えてしまった私はこの映像を少しのお酒とともに飲む。弱いので少しだけ

たとえばシャルトリューズ。薬草系のリキュールで、Wikipediaによると「リキュールの女王」とも呼ばれているのだとか。色合いも緑でどうも夏にふさわしい。

花火や海にはいかない夏があったとしても、この夏を迎える個人的な儀式は、ずっと数年来続いている。もはや、一種の宗教のように。たとえば夏待ち教とでもいうような

ということで今年もきた夏を愛でる夜です

何も起こらない小説「国道沿いのファミレス」

ああ、この本は間違いなく面白いな、と確信を持って手に取る本が年に数冊ある

そのうちの一冊が「国道沿いのファミレス」だった。

この勘はどこから来るのかよくわからない。一つはタイトルの妙味だと思う。タイトルが刺さる本は間違いなく中身も刺さる

過去にタイトル買いをしてヒットした本としては「僕のなかの壊れていない部分(白石一文)」「夜の果てまで(盛田隆二)」「水曜の朝、午前三時(蓮見圭一)」「永遠の1/2(佐藤正午)」などが思い返される。

しかしタイトルだけでなく、出版社、装丁、帯なども加味されて、その勘は動いているような気がしないでもないけれど、いずれにせよ、そういう勘に引かれて、この本を手に取った

結果、久しぶりに面白い小説を読んだ(正確にいえば前回面白いと思った本よりも4冊のピンとこない本を得て当たりを引いた)

とはいえ、これは、好きな人と嫌いな人にわかれるだろうな、と思う。いわゆる「村上春樹的」なものが好きな人が。より詳細にいえば「本多 孝好」や「中村 航」が好きな人には、刺さる本だと思われる

何も取り立てて大きな出来事が起こらない日常。ただし、その描写とメタファーやアナロジーがぐっとくる、といったような

当方、読書をする時は、好きな一文をラインをひいていて(そういう意味でKindleのなぞるUIは、ペンで線をひくよりも少し時間がかかってストレス)

で、今調べると10ページほどにラインが引かれていたのだけど、どの箇所も、その1文だけひっぱると非常に語弊があるような一文ばかりで。

ということで、久しぶりに本の紹介まででした

国道沿いのファミレス (集英社文庫)
畑野 智美
集英社 (2013-05-17)
売り上げランキング: 26,009

初めて日焼け止めを塗った日

今日、初めて日焼け止めを塗った

正確にいえば、海やリゾートにいった時は塗ったことはある。しかし、日常で日焼け止めを塗るのは初めてだ

30を越えると色々気にしないといけないことが増える、と日焼け止めをシャワーで洗い流しながら独りごちる

「年を取ると若い時より考えなければいけないことは減るけれど、しなくてはいけないことは増える」というフレーズを思いついた。シャワーを浴びながら

それが正解かどうかよりも、思考実験としてその仮説を検証する

若いうちは可能性がたくさんある。ゆえに、いろいろなことに悩む。しかし、その選択肢は自由だから、すべき義務は少ない、というロジックを立てれば、上記の仮説は成り立つかもしれない。

具体的にいえば、高校生の僕は日焼けなんて気にしていなかった。自分がシミを考える日がくるなんて露だに考えなかったし、そもそもシミなんて怖くもなかった。太陽が大好きだった

その時の彼にすれば、日焼けをしても無敵の自分がいれば、日焼けを恐れない自分もいて、あるいは、日焼けを考えない自分というポジションを取ることができた

しかし今や、日焼けを気にしないと数年後にはシミを反省することはありありと想像できる。ゆえに、僕は他の自分を想像しない

同時に、その道を歩むという選択肢を選んだ以上、すべきことは明解である

いわば、大江健三郎氏が、「問題が特定できれば、解はでるのです」と看破した如く、課題がきまれば、その問題はすでに役目をほぼ終えている。

人生とは問題や課題を見つけることが非常に重要なのである

仕事やキャリアパスでも同じ話を聞いたことがある。若い内は自分のキャリアパスは無限にある。ただ、年を取るとそのキャリアパスは限定されてくる

たとえば起業家が公務員になるケースは珍しいし、弁護士がプログラマーに転身することはあまりない

で、そうやって人は人生のキャリアパスが狭まっていく。しかし、これは悲しい話ではない。ある点までそれが狭まっていけば、その先は逆に選択肢は増えていく

つまりその自分が限定されたキャリアの中で出来ることは、また別のレイヤーで増えていくのだ

たとえば、弁護士でも企業弁護士か国の弁護士か、あるいは独立かどこかの事務所で戦うか、あるいは民事の中でも専門性はでてくる。

つまり、あるポジションが固まるまでは、見えなかったそのポジションにおける縦の選択肢は、そこに立ち止まることで開けてくるようになる

いわば砂時計をイメージしてみればわかりやすい。最初は底からスタートする。横幅は広い。しかし、中間地点まで成長すると、砂時計のくびれで横幅は狭くなる。しかし、そこを越えれば、また横幅は広くなっていく

そう考えると、日焼け止めを塗る自分も、いつか、日焼け止めを塗らない選択肢を選ぶ時がくるのかしら、と思う。あるいは、それは結局、どの日焼け止めを選ぶか、という無限の悩みの中であがき続けるのかしら、とも思う

なんてしょうもないことをシャワーを浴びながら考えた。シャワーで落ちる日焼け止めは素敵だな、と思いながら

昔住みたいと思っていたような部屋に住んでいることに気づいて

先日、ふと若い頃の記憶を思い出した。漫画に「変(奥浩哉)」の漫画があった。読んでいたのは小学校か中学校の頃だったろうか。そのシーンの1つで、ある登場人物が住んでいる部屋が描写されていた。それは100へ-べーくらいの部屋でベッドと冷蔵庫しか無いような部屋だった。あとバスケットボールも転がっていた様な気がする。「こんな部屋に住んでみたいな」と若かりし僕は思った

それから時は流れること20年弱。部屋の広さはさすがに叶わないけれど、「モノがとても少ない部屋」という願いは実現して(あと部屋の雰囲気とか)。もちろん、部屋を借りる時に、そんな昔の記憶を思い返したわけではないのだけれど、最近、ふとそんなことを思った。

で、それを思い返すに、やはり人の志向性や趣味は、昔からそんなに大きくは変わらないんではないかなーと。他の事例として思い返すに、中学生だか高校生の頃によんでいたホットドッグプレスだかの雑誌があって。そこに載っていた車「マスタングのオープン」に非常に感銘を受けた。「かっこよい!」と。そして、数年後、実際にそれに載っていた私がいた。他にも「いつか経営者になってみたい」「いつか世界を回ってみたい」「いつか本を出してみたい」といった思春期に描いていた青写真は、それなりに実現をしていて

もちろんこれは「思考は実現する(カーネギー)」的な自己啓発的アプローチも可能なのかもしれないけれど、そんな込み入った話ではなくて、もうちょっとシンプルに「趣味の問題」で捉えても良いのではないかと思う

「こうしたいな」という思いは、自分の趣味や志向性から生まれたもので、その趣味(センスといってもいいかもしれない)や志向性は幼いころから大きく変わらないからこそ、将来に、ある選択肢があった時に、「結果的に」若いころに描いていたものと同じものを選択するのではないかと。

もちろん逆のとらえ方として「こういうことをしたい」と信じ、念じ続けているからこそ実現することもあるのだろうけど、僕の場合は「こういう部屋にすみたい、すみたいのだ=!」と血気盛んに思っていたわけではなく、すっかり忘れており、でも気づいたら、住んでいた、というような。

そういう意味で、ふと「ああ、こういうのしたいな、ほしいな」と感じたことは、最近は大切に記憶しておくようにしている。そして、将来「あ、こうしたいと思ってたんだ。実現してるや」と思い返すのが、楽しくて。一種の幸せの積み立て貯金というか(将来の幸せのために記憶を1コマだけ使っておくというか)

そんな小さな幸せを口の中で転がしながら口笛を吹いていきていきたい春の訪れ