Art

最近、周りでアート関係の話が出ることが多い。たとえば、純粋にアートが好きでしょうがない人から、空き時間には絵を描くようなプレイヤー、それを投資対象と考えている人から、CSRとしてのビジネス兼アート業界勃興に携わっている人からアプローチの方法はそれぞれだ。
思い返せば、ここ数年、とみにそのような話を聞く機会が増えてきた。実際、美術館の人気や写真・絵教室などの人気などを鑑みるに、それなりの妥当性があるのではないか。そこで考えたのだが、2通りの考え方がある。
・潜在的にアートに興味がある人は一定数がいる。そして、私が会う人が年齢的に、20代後半から30代前半になる。そして、そのような年代になると、上記の一定数の人はアートへの関心を発露する、ないし、公言するに至るという考え方
あるいは
・ここ数年、そのようなアートに興味がある人が増えてきた
という考え方
そして、どちらかというと後者の方が正しい気がしている。前者としても、ある程度はその傾向があるような気がするが後者の方がインパクトとして大きいような。理由としては、特にない。肌感覚である。
そして、その場合、「なぜ」最近、アートに興味がある人が増えてきたか、と考える。
シンプルな国内の変化を考えるに「閉塞感」「経済の停滞」「将来への不安(少子化などに纏わる問題、婚活の問題等)」などが思い当たる(異論もあるとは思う)。そしてかりに、このような「ネガティブな前提(=社会の変化)」と「アートに興味があること」の相関関係を考えてみる。
そうすると、1つの仮説ができあがる。
これまでGDP一辺倒の社会(いわゆるマテリアルワールド=資本主義社会)の流れできていた昨今。しかし、日本は、それに限界があることが見えてきた。そこで、その経済という指標のアンチテーゼとしてアートの存在が浮かび上がる。
もちろん、アートとビジネスは結びついている。しかし、ロックの源流が社会のアンチテーゼでもあるが同時にそれは経済活動の流れの1つとして取り組まれているように、時に、「指向性」と「現状」の矛盾は両立して存在する。
そして、そのような社会のミクロな変化は、上記のようにマクロの環境要因から推測できると同時に、そのミクロの変化をマクロの変化に還元する推測も可能である。そうした場合、アートが好きな人が増えてきた場合、どうなるか?
1つはアートの市場が確立される。絵や写真などでメシを食える人が増える。それは可能性としてはありうる。では、私の関心どころである国際政治で見た場合はどうか?上記のやっつけ仮説が正しいとすれば「経済が停滞すればアートに興味のある人が増える」ならば、今後、ますます、そのようなアートに関心を持つ人が世界レベルで増える。なぜなら、いけいけどんどんの経済成長は新陳代謝として、先進国から後進国に移るのが、諸行無常の世界の流れだからだ。もちろん、最先端でかけ続ける国もあるけれど、いつしかそのような国には停滞がくる。そしてアートへの自己同一性の投射先ニーズが高まる。ここでのポイントは「経済的に停滞感があるからアートへの関心が高まる、のではなく、『一度この世の春(=経済成長)を経験した国が停滞に向かう』場合に起こるという仮説(=中年の憂鬱現象)」である。
そうすると、世界でアート同士の競争が起こる。そして、それが経済と結びつく。しかし、本質として経済へのアンチテーゼがアートであったが、それが経済に取り込まれ、それが一定数になると両立していた矛盾は崩壊し、いつしか、それへの乖離が始まる。しかしながらも市場は出来ているので、ある程度のアート分野での国際競争が起こり、そして、それは再度、市場への取り組まれる(たとえばブルースの歴史のように)。
だから何?というのはない上に、こんなつまらない話をしてもしょうがないのでアート関連で聞いた興味深い話をいつか。うろ憶えかつ、それが正しいかどうかは未確認なのでご容赦をば。
油絵で塗料が使われる。その塗料は絵の具のように均一価格ではなく、塗料によって値段は大きく異なる。塗料は石などを削ってつくられる場合などがあり、その石の希少性が値段などに反映される。その中で「本当の赤」というようなものは値段が高いとかとか。なんだかロマンチック。
その中で1つ「クラインブルー」という青がある。イブ・クラインという人が編み出した「青色」だ。Wikipediaによると

1957年に、黄金よりも高貴な青「インターナショナル・クライン・ブルー」(International Klein Blue, IKB)と呼ばれる深い青色(右の画像は近似色)の特許を取得し、

とのこと。色にも特許があるというのは、なんだか色々考えさせられる上に「黄金よりも高貴な青」といえば、黄金よりも価値のある胡椒を思い出させて、なんだかロマンを感じざるを得ない。
また、印象派で人気のあるルノワール。そのルノワールの絵は、独特の肌感を表す色合いが有名だが、その色は、真珠を使った塗料が使われているとかいないとか(都市伝説の可能性あり)。
または、アルゼンチンは独特の色合い(カラフル)な家の色で有名だが、それの経緯は、もともと船着き場だったアルゼンチン。その港町では家家があったものの色を塗るペンキがなかった。そこで、船の色を塗ったペンキのあまりで家の色を塗っていった。そして、いつしか、町は船の色を表すようなカラフルな町となっていった、とか。
芸術という不明瞭な(中立的な意味で)市場に、新しい「何か」を見つけ出す人が増えるというのは、アーティストがキャンパスに「何か」を見つけ出すというフラクタルな構造を何か想起させてコリン ウィルソンの「アウトサイダー」における「見えてしまう人」を思い出させた。そして、あのCMのこのフレーズを思い出す。

彼等は人と違った発想をする。
そうでなければ、何もないキャンパスの上に芸術作品は見えて来るだろうか?

斜線

部屋から首都高が見えて。
芝公園だかなんだかの入り口から入ってくる車がいて。でも首都高の車の流れは早くて。スムーズに入れず合流地点で車が一度とまっていた。そして、車の流れが途切れるのを見計らって、入っていった。
アメリカのハイウェイだかフリーウェイを思い出した。アメリカでは、確か、すごい勢いで合流する仕組みだった気がするけどCA独特のものか、あるいは記憶間違いかもしれないけど、入るときに一度とまって入るという記憶はあんまりないような気がする。渋滞していたときは別だけど。たとえば朝のサンタモニカやパサデナだかどこかで一度とまったかもしれないけど、いずれにせよ、アメリカのハイウェイはとてもスピーディだった。それは車線の多さも関係しているのかもしれない。あるいは気質が関係しているのかもしれない。
大きな流れに飛び込むときは、一度じっくり考えて、立ち止まって飛び込むのか、あるいは勢いのまま、ぐんとアクセルを踏んで合流するのか、というか。
高速道路は何かしら哲学に満ちているな、と思った。村上春樹は、「カミソリにも哲学がある」と看破したが、そういうことなのかもしれない。あるいは、伊坂幸太郎は「人はあらゆるものを人生に喩える。川の流れだって」と看破したが、そういうことなのかもしれない。
カープールの話。日本人にはなじみがないけれど、アメリカのハイウェイのシステムで、複数人(2人以上だっけ?)の車両だけが走ることが許されたレーン。渋滞している時はそのレーンを走ると、すいすいと進むことができる。つまり、渋滞を緩和(車は複数人でのって車の数を減らそうぜ)させるための仕組みなんだと理解していた。つまり、大きな流れですいすい生きたいときは1人ではなく、複数人が良いのかもしれない、なんというか。
カーナビの話。車に乗っていて、カーナビの曲がる場所がいまいちわからず戸惑うことがある。三本の道が前にある時にどの道を指しているのかわからない時や、あるいは、角が複数あって曲がるタイミングを見計らうとき。すると、横に乗っている人は本だか音楽再生機を見ているはずなのに、「そこの道」と指摘する。そして、運転手は、戸惑いを解消し、正しい道を進むことができる。「なぜ、前を見てなかったのに、運転手がカーナビで戸惑っていたかわかったの?」という問いには、「運転のリズムが変わったから」と答える。時に、人はリズムで世界の流れを把握する。それがメロディなのか、拍数なのかは知らないけれど。
あるいは、運転している時にクシャミだか、咳き込むだかで、口に手をのばしたときに、ほんの一瞬、ハンドルから運転手の手が離れるときに、そっと助手席から横から手をのばし、そのハンドルを支える人がいるという、一説によると。男であろうと女性であろうと。
ある車においては、ある一定のスピードが出ている方が車体がぶれないという。あるいは、ある程度、車のスピードが出ているときに止まるならば、一気にブレーキを踏まず回数をわけてブレーキを踏む方がいいともいう(ポンピングブレーキだっけ?)。あるいは、エコカーにおいては、動くことでエネルギーを蓄えて、それをさらに動くエネルギーとする。それらを何に喩えるかは自由だとしても、いずれにせよ、見方によっては含蓄深い存在だ。
パスカルが看破した「人間は考える葦」というのは、現代の人間の足である車にも当てはまることなのかもしれない、と思ったり思わなかったり、いや思わないのだけれど、でも、車は何かしら赴き深い
ということには、一票を投じたい。

絵文字

原田さんって絵文字使わないよね

と、しばらく前に言われた。
使わないな、と思った。
理由としては、いくつかあるな、と考える。そもそも携帯のメールはPCで打っているので絵文字がうちにくい(うてないこともないけど)。あと絵文字をうつ時間が苦手だ(ATOKにURLから住所からなんでも単語登録する身としては)。次に絵文字の互換性がよくわからない。PCだとMacとWinなどで機種依存文字があり(たとえば数字に丸かっことかだったけ)、携帯にもそういうものがあるよな、と思い、どれがOKでどれがNGがいまいちよくわかっていなかった。
その話をすると、「これは同じキャリアに対応で、これはどのキャリアでOK」という知識を教えてもらったが、未だに、動く絵文字(なんていうの?デコメ?)のキャリア依存(ないし機種依存)はよくわからない。
しかしながらIT業界に生きる人間として、この絵文字は重要なコミュニケーションツールであり、一度じっくり考えた方が良いような気もしている。何より「言葉」を愛する1人としては考えねばならぬだろう、ということで考えた。
個人的には、ただ絵文字が嫌いなわけではなく。確かにplainな文章よりも、絵文字がついていた方が、暖かみがあるし、情報量さえ増える(最近、この絵文字の付加情報の価値を考える機会も別にあったし)。メッセンジャではよく使うし、2chの顔文字もとかくに便利ではある。太古から存在する(: smile markも愛すべき存在だ(あと、どこが発祥か知らないけど、 >< この顔文字も最近は市民権を得て良いことだ。みん就とかで最初にみかけて、当時は2chで揶揄される絵文字だったけど、それが一般化したのかしら)。あと蛇足だけどiPhoneでは絵文字がものすごく便利だ。使い勝手が多い絵文字が多いのかしら?
だが、携帯の絵文字にはなんだか抵抗があった。さらに深く考えてみるに、上記の理由以外にも携帯の絵文字を使うことの抵抗がある気がしてきた。
思うに、「男性が使ってよい絵文字の妥当ラインというか臨界点」というのがよくわからないからというのもあるかもしれない。
つまり、一般的に、「男性から携帯メール」をもらうことはあっても、「男性が女性に出す携帯メール」は一般的にどのようなものが使われているかは、1男性はなかなか知る機会がない。なぜなら自分は女性ではないからだ。そして、なぜここに性差の問題が出てくるかというと、一般的に「女性は絵文字を使うことの社会的許容度は高く、男性は相対的に低いであろう、と推測され(ミッキーを愛する男性が女性よりは少ないことと同程度に)、また、そもそも男性へのメールの絵文字に気を使うこともないから(理由としては男性がどんな絵文字使おうと一般的には瑣末ごととして処理されるからである。その論拠としては、男性が男性から受け取ったメールを保護する確率が低いことから推測することからの類推。なおさらにその論拠は略)」である。
そのため、「一般的な男性の社会人が女性に対して使う絵文字の許容範囲」を知らないから、という点も考えうる。そのヒアリングをしたところ「この絵文字を使う男性はいけてない(この絵文字を説明したいところだが、それを説明すると弊害もありそうなので略)」「男性ならこれくらいの絵文字を見ることが多い」「これくらいの確率で男性は絵文字を使う」というようなデータを多少集めることができた(サンプル数一桁)。
しかし、そこで気づいたのだが、送る相手の属性によっても、絵文字の量/適切さは変わるのではないか?という点に気づいた。つまり「恋人」「友人<N<恋人」「友人」「先輩」「同僚」などの属性によって、絵文字は変わるのではないか?という仮説に至った。というかわかるだろう、しかし、個人的に思うにその差分は限定的なような気もしている(ソースは自分自身の体験談)。つまり、「絵文字の許容平均値」があって、それの触れ幅は属性によって変わるけれども、その傾向は大きくは変わらない、というような。
では、その触れ幅を考えるにあたり、逆に「女性はどのような絵文字を使うふれ幅」があるのかを考えてみた(というか聞いたり思い出してみた)。まったく使わない人から、過去に話題になった暗号文になったような絵文字の方が分量が多いといったヒエログリフ的文章を書く人まで多用にいることがわかった。また最近は、動く絵文字やテンプレ系メール(なんていうんだっけ?)なども多段に活用され、自分の名前を独自のアニメーションgif的な存在で書いておられる方も存在するわけだ。もはや、ここから鑑みるに、人(女性)によって絵文字の利用頻度/方法は無数にあるという、なんとも参考にならない思いを得た。
男性でも、それなりに使う人も、まったく使わない人もいるようだ。そして、聞くところによると、その許容度も、相手との属性やそもそも受け取る側の主観性によっても大きく変わる。そりゃ当たり前といえば当たり前の結論で、それはそうだが、そんなことで世の中が回っていれば社会学なんて存在しない(人それぞれだよ、で住んでしまう)。
そこで、こういうのは自分で試しながら検証するしかあるまい、と数週間前から、絵文字というものを使おうとしているのだが、やたら難儀だ、これがまた。
まず「相手が使っている絵文字はなんとなく使いにくい(英語で、一度使った名詞は次は違う代名詞で表現することに似ているかもしれない」。次に「この絵文字は女性っぽい(なんかウインクしてるみたいな顔とか)」みたいな謎の先入観がある。そして、「そもそも絵文字を使うようなメールをうつことがあんまりない(業務連絡ばかりだ!5日の17時にどこどこ集合とかのメールに合った絵文字はなんだというのだ。時計か?おんぷか?この指とまれよろしく指か?)。あとそもそも携帯メールをうつことももらうことも多分極端に少ない(世の中の人は携帯メールで何をやりとりしているのか?twitterで過半数が意味のないやり取りという調査があったが携帯メールもそうなのか?)ので練習もあんまり出来ない。
そういうことで、相変わらず絵文字の存在に四苦八苦しているわけだが、これはもう何かしらスタイルを決めるのがよかろう、と思い、文章の末尾に何かしら思いついた固形物系の絵文字を入れるということに落ち着こうとしている(そういえばペンギンがあってイルカやクジラがないのはなぜだ?グリーンピースのロビー活動か?)。おんぷみたいな意味がほとんどないが、しかし当たり障りがなく、先入観を拒否するような絵文字が個人的には好きなのだが(メッセの最後の投稿を意図するような記号としても便利だ)、そういうのをもっと増やすべきだ(梵字とか、サンスクリット文字とか、トンパ文字とか)と思うのだが、いかんせん、そんなことをいったって絵文字は増えない(自作もできるのだろうけど、ここで議論すべきはそんな問題ではない)。スヌーピーの名言でいうならば「配られたカードで勝負するしかないのさ」っていう奴である(そういえばとあるサブカルチャーの影響で花札を最近思い出したのだが、あれってもう少し麻雀やボードゲーム並みに評価されてもいいのかもしれない)。
ということで、引き続き絵文字に関しては調査中である。よろしくお願いします 笙ィ(コトエリで絵文字で変換したら左の文字がでた。winでも見えるのかな。)

ミュシャ

その絵を肉眼で初めて見たのは、MoMA(NY近代美術館)だったろうか。
アバンギャルドな展示の中で、ふと通りを折れるとそこに、その絵が飾られていた。1メートル以上の縦に大きな絵というものが印象的だった。日本画(正確にいうところの水墨画)などは縦に長いけれど、海外で長いものは、そんなに見かけない気がするのだ。
そして、その絵に描かれた1人の女性。もちろん名前も知らないし、想像さえつかないのだけれど(日本語でいうならば、ミュウといった感じの)、その女性の目が、とても凛としていて。それは、すべてを見通すような目、というと平凡に過ぎるけれど、どちらかというと世の中の悪の部分までも見通しながらもそれを寛容(ないし寛太)するような眼差しがそこにはあり、どうも目があってしまった私は、そこに立ち尽くすことになった。
時間にして5分もなかったかもしれない。ただ、「衝撃」というものが強くて、思考回路が少し停止して、右脳だけで、何かを理解しようと試みて。そして、言語化できない不思議なクオリアとでも呼んで差し支えない恍惚感とともに、その絵がすとんと腹におちて。つまりは、昔から知っていたような記憶がねつ造されて私の脳に刻み込まれた。
だから、実はその絵は過去にみていてのかもしれないし、初めてだったのかもしれない。でも、いずれにせよ、私の脳は「ミュシャ」という記憶がつくられ、そして、揺るぎない硬度をもって居座ることになった。アールヌーボとヌーベルバーグさえ混同しそうな頭でも、その曲線美の美しさは説明を必要としない強度で頭を揺さぶった。
「嗚呼、アートの力とはこういふものか」
と嘆きとも感嘆とも判別しがたい思いで絵を視線で追ったことを覚えている。その絵を見ただけで誰の絵かわかる、ということは簡単に見えてそういうものでもないのかもしれない。後期印象派だって、ユニークな人々は数多くいるけれど、誰しも区分できる人というのは、10指で足りるのではないだろうか。ピカソであればゲルニカはわかっても青の時代やフォービズムの作品はピンとこない人はいるだろうし、ゴッホだって糸杉やひまわり等のモチーフは有名でも、ゴッホのリンゴとセザンヌのリンゴの区分なんかわかる人には当たり前でも、そうでない人にとっては似たようなもんじゃなかろうか。ドガとロートレックとルノワールの「踊り子」の違いとかとか(そりゃ比べれば全然違うけど単品で見て、誰の絵?って言われたら)。言い過ぎだったからごめんなさいですが(この辺の感覚値って人によって全然異なるのでたとえが正しいのかまったくわからない)。でもミュシャはやっぱりミュシャで。いや、でもミュシャを特別扱いするのはよろしからぬので、このパラグラフ全部訂正。
いずれにせよ、ミュシャは1人の高校生の心をわしづかみにしたとさ。それだけのお話。
ミュシャの絵はこちら

半分の人生

人生も折り返したってわかれば、なんだかがんばろうって思えるのだけど

と言った人がいた。iPhoneのJazzが少し空気を穏やかにし、缶ビールのヘコミが少し時間の流れに緩急を付けていた。

平均余命から考えれば、あと10年くらいかかるんじゃない

と誰かが言った。
人生の半分か、と私は思った。年を取ると、時間の流れが幾何学的に加速するという話があって。それは「一般論」としてよく口上に語られるものなのだろうけど、当人にとっては、それは個別論でしかなくて。
たとえ皆がそう感じていても、つまるところの時間の早さに少しばかりのため息をついていたとしても、やはりため息をつくのが自分か、その他の誰かでは大きな違いがあって。結局のところ、物語や談話というのは主観性でしか評価できないものなのだろう。
人生の折り返しに関しては村上氏が過去に短編を書いていた。あるいは、過去に「自分の寿命は30までと定義する」という人と議論をしたこともあった。人は誰しも時間と共に生きる。時に時間に抗いながら、あるいは時に流されながら。
しかし、時間にも良い点が一つだけあって。それはまごうことなきの公平性、少し小粋な比喩を使うところの「時間の我々に対する誠実性」とでも言うべきもの。
つまりは、誰しも森羅万象、等しく時間を過ぎる。もちろん体感速度の差異はあれど、あるいは相対性理論から鑑みるところの誤差はあれど、総体の並べて平らにして、くゆぶらせて見るところ、それはどう考えても平等に時間が過ぎていく。
だから、私はつい、コンビニに行くにも走ってしまうのだけれど。でも、人生を折り返したいかどうかという質問を投げかけられたら、「定義による」って逃げてしまうんだろうな、と思うのだ。

文章

世の中には、なんとも文章が上手な人がいて。そういう「素晴らしい文章」をみると、なんとも巡とするほど感動と、ほてりさえ感じてしまいます。
以下、個人的にいい文章をかきはるわねえ、と思うブログとかなわけですが(その中でも個人的に好きな記事にリンク)。
» 2009-06-15 – ぼんやり上手
» 口リコンか否か – しびれくらげ
» 2008-05-11 – 無免許タクシー
» 2008-05-31 – Everything You’ve Ever Dreamed
» モナ – 平民新聞
» パンチラも透けブラもいらない – nuba
» デートに遅刻したときの切り抜け方9パターン – 怒りにも似た祈り(イカノリ)
お知り合いでは、しんたさんとかチリリンとか増田とかetc,etc。
» 浮沈のオーヴァーブッキング  浮 – チャールズ街141番地 by the SYNTAX ERROR
» 処女同士だと思ってた友達がさり気無く経験したよとカミングアウト
こういう文章を読むと「文章ってとてもパワーフルなものなんだなぁ」と唸ってしまうわけです。結論なし。

夏と雨

最近のブログ欠落をカバーするかのごとく3連発目でございます。「虹」「花火」ときたので、なんとなく「雨」。そして夏と雨。
さっこん、雨が多い。梅雨が明けたというのに、まだ雨が多い。誰かが「梅雨に入って明ける」というのはこれいかに?という記事を書いていたけれど、さもありなん。「入って明ける」のは、救助隊の仕事であろう。火事の中に人を助けに入って、そして禁断のドアを明けるのだ。あるいは、オペラ座の怪人だっていいかもしれない。
しかし、梅雨は「入って明ける」である。英語でいうならば in and openであり(直訳的にいえば。あるいはupかもしれないけど)、なんというか、ピンとこない。「in and out(LAとかで良くみかける美味しいハンバーガー屋)」ならまだしも、入って明けるのはなんぞや、という禅問答のような世界がそこには待っている。本来ならば「始まって終わる」だろう。ただ「明ける」ものは、他に「夜」がある。「夜のとばり」が降りて、そして「夜が明ける」。それはそれで何だか情緒的で悪くない。ただ、おそらく「あける」という言葉には、人が「明けた先を渇望している」というニュアンスがあるのだろう。つまり「梅雨」や「夜」というのは、人にとって忌むべき存在で(農家の人にはあれですが)、それが終わるということを、古来、人は「明ける」と表した。天照大神をも髣髴される味わい深い表現であることがわかる。
しかし夏である。
夏が良いというのは「夏だから」という簡潔かつ、何も意味を持たない常套句が時候の挨拶として使える点にあると誰かが言っていた。
個人的に、ゆーみんの歌にあった「台風がいくころは涼しくなる」という言葉が、とても印象に残っていて。つまり、夏の終わりというのは、台風の去来によって表される。あるいは、桑田佳祐は、「麦わら帽子が風に飛ばされて夏が終わる」と表現した。あるいは「一夏のアバンチュール」という死語があるように、人によっては恋が去り、あるいは、一夏の経験とよばれるように、通過儀礼を得ることによって何かしらの澱とpurenessを去らせることになるのかもしれない。
夏は少なくとも「明ける」ものではなく、去って行くものだ。それは台風と一緒に去るのか、あるいは麦わら帽子と一緒に去るのかの違いはあれど、いずれにせよ、夏は、何かと去っていく。
そして、夏が素晴らしいのは、また1年たてば戻ってくるということだ。去ったものだけの空白を残して、そして夏はまた巡り変える。何かしらの輪廻を秘めた季節がいままたそこに訪れる。

花火

時事ネタということで花火。
夏ですね、そうですね。
夏といえば花火ですね。先週末も今週末も花火ですね(伝聞推定)。
思えば最近、花火を見ていないな、と思った。いつぞやか隅田川の花火大会にいって、あの牛歩戦術に辟易した記憶がある。
花火というのは、不発弾が込み込みのような世界だそうだ。友人が、最近、花火の打ち上げをしてきたそうで、そんな話を聞いた(免許関係はクリアしながら)。
最初から、咲くことのできない花火とは、いささか寂しいな、と思った。でも、咲いたとて、咲かないとて、それらの総体が花火なのだから、それはそれで良いのかもしれない、と思った。
つまりは、明治維新を先導したのは一握りの人かもしれないけど、そこの途中で息絶えた人もそのうねりの一つだったように。あるいは、メキシコはメキシコシティから成り立っているわけでもないように。
でも、いずれにせよ花火は花火の良さがあるな、と思う。
究極まで圧縮されたエナジーのビックバン的爆発が何かしら人のDNAを刺激し、それは、ベタな例えでのリビドーとの飽和点と氷結の関係にもいささか似ていて、風情があるだけでなく、人が従来から持っている太鼓のリズムにも似たリズムが花火の音が彩り、太陽にも思える火の光が生肌を容赦なく照らすことによって、夏の、その真夏の蒸気の中で蒸された体温によって猛禽類のような臭気を放つ汗との猥雑な混じり合いが全ての五感を刺激し続け、それでもやむことのない重低音と光と、そして気が狂ったようにあふれかえる人の波の中でもまれる正気が蠱惑的で淫靡なアウラを創り出し、それはいささか、夏だからこそ、そして、雑踏のあふるる川縁だからこそ起こりうる刹那の風情がなんとも言えない。
「僕らはいつか飛び出す瞬間を待っている」
とは誰かの言葉だった。
つまり、花火が「一瞬で咲く」ということに自分が持つ何かを重ね合わせ、人はそれに代償としてのカタルシスを得る。
そして我々はいつか自分のスターマインを待っているのだろう
なんちて。

えっと虹に関してです。ども。
虹です。
こないだ、土曜日かしら。南麻布の方を自転車で走っていたら、虹が出ていた。
あ、虹だ、と思った。
周りの人たちが騒いで、カメラを出していた。携帯カメラだけでなく、ザクティのようなものを出している人もいた。マナティじゃなくて良かったけれど。
そして、みな写真をとっていた。誰かは携帯からメールで写真を送っていたのかもしれない。twitterを見れば「虹だ」という書き込みが溢れ、2chではスレッドもたっていたようだ。
虹か、と思った。
地元では虹をよく見ていた記憶があるけれど、東京では確かに、虹をあまり見ないかもしれない。
でも、と思う。
人はなぜ、虹をみて写真をとるのだろう。その情報を共有するのだろう、と考えた。そんなに珍しいものでもないし、あるいは、それが持つ情報価値はないし、ないし、それをもらった方が返せる回答は限られている。
それがたとえば、ツチノコだったり、あるいはカズノコだったりすると、なかなか話のネタとしては面白いし、もしくは、ウナギとかだったら「地震がくるかもしれないね」みたいな流し方もあるのだろうけれど、虹というのは、なんというか、それ自体が完結した存在でございます。
つまり
「ああ綺麗だね」という感じか
「僕もみた!」というような感想しかできない。
でも、人は虹を共有する。
それは体験の共有か、感想の共有かで話は変わってくるのだろうけれど、ひとつマチガイナイのは、それが「共有のマテリアル」であるという点である。
つまり。
つまりは、人は「虹」という素材を使うことによって、便宜的にそれを共有する。
その情報をもらった人も「虹を送られることに別の意味」を時には付与し、あるいは「虹だね」という同意を得ることで、コミュニケーションの豊穣化を図る。
つまり、人はコミュニケーションを求めている。そして、普段はきっと人々はネタを探しているのだろう。
時に、火事などの野次馬も、それへの好奇心だけでなく、それを体験共有することを求めているのかもしれない「こわいですね」「大丈夫ですかね」と、時に人は、普段ではない日常においての交流が何かしらの潤滑油となる。
だから。
だから、虹はきっと、それ単体で完結しているからこそ交換道具としていいのだろう。
「ほんとだね」といった、ささやかなあなたの一言が虹の持つ価値なのだろう