言葉

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友人の日記で見たCM。

部屋は人生とつながっている

気づかなかったけど、言われてみれば、そういうこともあるかなぁ、とか思って、CMのコピーの力に改めて恐れ入った(さりとて、何かを訴求されはしなかったので、ターゲットが違うのだろう)。
ちょうど、先日、「広告はいいよね」という話になって、人によってそれの良さは違うのだろうけど、個人的には、やはりそのCMの言葉が良いなぁ、と思う次第で。
そんなことを思っているとちょうど先日、沖縄の西表島は「東のガラパゴス」と言われているという話を聞いて。それってば、もはやキャッチコピーで。なにかしらロマンと同時に世界にコネクトするスケーラビリティをもった言葉でとても白眉。
なんてことを書いてると、改めて、自分ってば言葉に惹かれる人間なんだなぁ、と自己認識。
これも先日の話で(この過去の話はとりあえず全部、先日にしておくメソッド)、「三島由紀夫」の言葉の良さの話を聞いて、どちからというと、言葉でいえばやはりベタに芥川龍之介のチョイスの方が好きなのだけれど、マッチョな言葉(質実剛健みたく)、かつ耽美な言葉でいえば、三島になるのかもしれないと思って、読み返さないといけないと思った。多分、一通りは読んだのだけど、その頃は私はストーリーに惹かれる人間だったから、犯人も濡れ場もない小説(あるにはある)にはそこまで傾倒はしなかった若造だったのかもしれない。
言葉としてまたも思い出したのだが、最近、「おお」と思ったことがあって。

「面白きこともなき世を面白く」

は高杉晋作大先生の有名すぎる辞世の句だが、何かの話の流れでそれをよんで。で「その後って何だったかな?」と言うと、

すみなすものは心なりけり

と下の句をとってくれた人がいて、それはそれで大いに驚いた(まぁ、でも歴史好きの人なら当たり前のことかもしれないけれど、これが医者が受けた句とまで注釈つけるのはなかなか妙味かと)。ただ、言葉フェチとしては、そんなところにアドレナリンを分泌するような生き物で。そして、スズメの話になって(すごい話の流れだけど)

燕雀 いずくんぞ

とつぶやくと

鴻鵠の志を知らんや

を拾われたので、さらに感嘆した。さらには三島の「仮面の告白」の冒頭を諳んじられて、悔しいので、私は、草枕をひとり口ずさむのであった。

山道を登りながら、こう考えた。

と。

運とか奇跡とかセレンディピティとか

少し前、はてブ界隈で運の話が話題になっていたような気がする。
大前さんだか、出井さんも「成功するのに大切なのは運だ」というスピーチをしているのをどっかで読んだ。
で、調べたらあった。
運と機会を味方に「1人でも企業を変えられる」–出井氏が贈る起業家へのメッセージ:ニュース – CNET Japan
で、もう1つはこれか。
POLAR BEAR BLOG: 「計画された偶然」という姿勢
つまり、物事を成功させるためには運がかかせないが、その運とは

「計画された偶然」理論では、「運も実力のうち。幸運が訪れたときに逃さないように感度を高めたり、幸運が訪れるような努力を行うことが大切」と説くわけです。

というものに裏付けられる。
まぁ、これを聞くと麻雀とかを思い出す人もいるのでは。
どたんばで無茶苦茶ヒキが強い人がいますけど、そういう人たちってのは、どう考えても「運を引き寄せている」としか思えなくて。
やはり、おりる時は降りているし、場を読んでいるし、なんか、ちゃんと計画された運って気がする。
わたくしめのの考えとしては、科学的に考えて純粋な意味での「運がいい人、悪い人」というのは存在しないような気がする。
なぜなら運というものに価値を与えるのは主観でしかないわけで(つまり「いい」「悪い」)、そんなものは科学的に傾向がうまれようがない。
では、なぜ「運のいい人悪い人」がいるかというと、人間がそうラベリングしているからそう見えるだけである。つまりは、これも前に書いたけど、心理バイアスの問題ですな。
で、加えて、その「いい」「悪い」が「人間の視点から見て偏っていた」という場合だとしても、確かに「運のいい人、悪い人は存在する」という仮説を考えることは可能である(つまり、チリ人とコロンビア人とコスタリカ人の3Cの国には美人が多いという言説を論証するのと同義)。
しかし、これも結局、たまたま可能性の問題として「ここぞ」という時に「良いと判断しうる運」をひっぱってくるタイミングが重なったわけで、そう見えるだけである。
つまり、長期の平均でならせば、その「運の良さ」は局地的な単なる運の偏りでしかありえない。
この辺は行動ファイナンス理論 なども参考になろうか。
で、まぁ、それはそれとして、でも、しかし、そのような運が「偶発的」なものならば、逆にその「偶発性」を準備することは可能ではないか?ということを検討する余地があるのも至極当然。
で、それが冒頭の「計画された偶然性」になるわけだが、この言葉を聞くとセレンディピティを想起する人は少なくないかと。

何かを探している時に、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉である。何かを発見したという「現象」ではなく、何かを発見をする「能力」のことを指す。

具体例として以下のようなものが挙げられている。

# アルバート・ホフマンによるLSDの幻覚作用の発見
# 田中耕一による高分子質量分析法(MALDI法)の発見
# スモーリー、クロトー、カールによるフラーレン(C60)の発見

しかし、こんな高尚なものでなくとも、もっと卑近な例はいくらでもあると「個人的には」考える。
たとえば、「めがねを探している時に、前に失っていたワッペンを見つける」だとか「失恋して映画を見ている時に、その映画から新しいビジネスアイデアを思いつく」だとか。(超適当ですが)。
で、このような偶発性は、まさしく計画できるものである。
つまり「偶然」が起こる可能性は前述のように、なべて均一だとしても、その均一に訪れる運を、うまく活用できるかの素地作りができる、というか。
つまり「誰でも人生で5分間はヒーローになれる」とウォーホールだかチャップリンだかは言ったけど、その5分間を、最大限活用できるするようにするには、個人の裁量にかかっている。
たとえば、「キャンベルスープの缶」を見て、それをアートだと思い新しいポップアートを生み出してしまう人がいる一方で、それは食べ物にしか見えない人がいるというような。
そして先ほどの卑近な例でいえば、「めがねを探しながらサングラス」を見つけるには、サングラスをなくしたという事実を覚えておく必要があり、あるいは「映画を見てビジネスアイデア」を思いつくには、常日頃から、それに関して考えておく必要があるのと一緒で。
で、ここで久しぶりに原田ライブラリより奇跡を引用。

私たちの生き方には二通りしかない。奇跡など全く起こらないかのように生きるか、すべてが奇跡であるかのように生きるかである。

この言葉が重みを持つのは、まさしく、この奇跡を生み出したアインシュタインからの言葉であるからに他ならない。
もっともアインシュタインは、不確定性原理(だったっけ?)という奇跡(偶然)を認めなかったという逸話もあるそうですが、それはご愛嬌。
で、何がいいたいかというと、やはり、森羅万象、我が身に起こる奇跡や偶然が、「たまたま」だとしても、あるいは「計画されたもの」であったとしても、やはりそれは「天からの僥倖だ」と捕らえたほうが人生、ハッピーに生きれるに違いない、とかおもったのだ。

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募集数 5チーム (個人でもチームでも応募できます。)

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眠りと夏と洗濯物と血液型

■はしれはしれ丘の上
今日は久しぶりに朝からはしった。普段は夜なのだが、最近はどうも夜がドタバタしているので朝にシフト。
朝とはいえ6時代、7時代だとまだ涼しい。人も少ない。サザンの夏の歌を聞きながら軽快にはしるのだけれど。
そこでふと思ったのだけれど、「夏」という季節は損をしているんじゃなかろうか。
日本では、端的に言って四季があり、その季節は、12ヶ月の1/4づつ。つまり3ヶ月ごとに切り替わっていく。
旧暦は抜きにして、現状だと3月から春、6月から夏、9月から秋、12月から冬、といったところだろうか。
実際は4月から春なのかも知れないけど、それをすると、冬が1月からになり違和感がある。
ともあれ。しかし、日本には「梅雨」という季節があるわけだ。これは、ご存知の通り、春と夏の間に存在する。公的には認められていない可愛そうな季節。
しかし、そこに梅雨が入る。大体、6月末から7月終わりまで。そう考えると、本来ならば夏のテリトリーである6月がまるまる梅雨に奪われてしまうことになる。
つまりは、夏は他の季節に比べて1ヶ月季節が短いのだ!なんたること。
ついさきほど、この事実を知って愕然としてしまった。つまり夏生まれは自分を褒め称える季節を1ヶ月損をしているということになるのだ。
これは良からぬ。声を大にして叫ばねばならない。
いっそのこと、季節を「春」「梅雨」「夏」「秋」「クリスマス」「冬」などにしてみてはどうか。冬はクリスマスに正月に卒業式にとイベントを独り占めしすぎなので、クリスマスは切り離すほうがよかろう。
またやはり季節は偶数でないと、季節の取り合いをした時に不便がおころう。そのために季節は6つが良いような気がする。
■靴下を干す奴
ベランダにある靴下を干す奴。なんていうのだろう?あれ。パッチンと留めるものが葡萄の房のように連なったもの。
あれの1つがポトリと床に落ちた。まるで南天のようだった。
ただ問題なのは、この洗濯物に欠かせないツールのことを私は26年間も知らずに生きてきたという事実だった。
■血液型
最近まで血液型をこれっぽっちも信用していなかった。
いわゆる「○○型だから、○○な性格だよね」という先入観である。
理由は簡単で、世の中がそんな4つに切れるわけがない(RH-などを入れるともう少しあるけど)。
ただ、勿論、血液型の存在経緯(歴史)もどこぞでききかじったことがあるので、そのような血液型が裏付ける性格の論拠も、明確に否定できるものでもなかった。
さりとて、まるで合コンのように相手に血液型を聞いて一喜一憂するのは、どうもはばかられることだと考えていた。
しかしである。
昨今、この血液型の力が、実は思っている以上に強いのではないかと改めて痛感している次第。
それを認識するには、四半世紀の年数を要したわけだが。
やはりA型の人間は○○だし、B型は○○だ。というようなニュアンスがなんとなくわかってくるようになってきて。
今まで興味がなかったので調べたことがなかったのだが、ボトムアップから考えれば、納得することが多くなってきた。
「A型は○○君と○○さん、○○ちゃんと○○さんだから、A型ってのは、ああいう人たちを言うのね」と帰納法的にA型を理解していくようになったというか。
そうして、ようやく血液型が持つ何かしらの総意。わかりやすく言えばイコンのようなものが読み取れるというようになってきたというか。
特に面白いのは、血液型の4分類だけでなく、親の血液型を組み合わせるとさらにバリエーションが増えるということである。
たとえば、単なるBでも、AOなのか、BOなのかで性格が変わったりする(気がする)。そう考えると、血液型は10種類を超えることになる(ほんと?)。
ということで、最近は血液型がブームで会う人によく聞くのだが、なかなか正解率は高いような気がする。ここ最近10人で7人くらいは一発で当てられた気がする。
というか、今更こんなことを書くのもナンセンスなのだけど、みなさんはたぶん、血液型をより詳しくご存知だとは思いますが。
まぁ、こういうのは自分が体感したいんとピンとこないというお話でした。
■眠りの街
メッセンジャーでオンラインの人の9割が退席中だった。まるで世界が一斉に眠り姫になったのではないかと思ってしまった。

脳内物質をぶっ飛ばせ

ふと雑感。
我々の日々はいくら平穏のように見えようとも、感情の起伏や体調の良し悪し、果ては気持ちの揺れなどをなくすことはできない。
たとえ1ヶ月引きこもって、外部の情報を遮断して、出家のような生活をしたところで、それは外面的な「安定性」を産むに過ぎない。
内面のゆれを抑えることは、ほぼ不可能に近い。なぜなら、外面的な安定が持続することで、それにより内面ではそれが新しい刺激となり、耐性/慣れを生み新しいフェーズへと動き出すからだ。
とはいえ、それをマネージすることを出家や悟り、はたまた解脱と呼ぶのかも知れないけれど、それらはあくまでもマネージするということであって、内面性の安定を生み出すのとは少し違う。
どういうことかというと、いくら我々が安定した日々を送ろうとも、脳内物質は黙っていてくれないのだ。
いわゆるセロトニンやドーパミン、アドレナリンなどは脳内で暴れはっちゃける。それゆえに、いくら仕事が順調でも唐突にダウナーに入ることもあれば、あるいはイキナリテンションがあがることもある。
女性は男性よりも感情の起伏が激しいというが具体的に証明されているのかどうかは知らない。それはホルモンの関係性に因るものが大きいと推測するが、男性にだって月一でのバイオリズムの偏重はあると聞いたことがある(外面的には何の変化がなかったとしても)。
それにホルモン云々だけではなく、「いい空気を吸う」「うまい飯を食う」「十分な睡眠をとる」「身体を動かす」「恋をする」などの外的変化だけでも、内面の動きは大きくなり、そのバラティリティたるや推測不可能。ある程度、過去の事例を参考にして、それをコントロールできたとしても、それは可能性の程度問題であり、他の要因が入れば、そんな定理は簡単に崩れる。
卑近な例でいえば、いくら上手い飯を食おうとも、ぐっすり寝ようとも失恋の後は、マインドをアッパーにもっていくことは難しいように、メンタル面を支配する要因は須らく同じものではない。
それゆえに、脳内物質のコントロールは非常に難しいのではないか、と考える。もっともだからこそ薬やドラッグなどが活用される昨今なのだろうけれども。
そう考えると、我々というものは「哲学云々」「人生の意義云々」という形而上的なもので心の平穏を生み出そうと試みても、ほんの瑣末なことで簡単にそのような平穏は打ち砕かれてしまう。
そうすると、あえて誇張して言うならば、人間は脳内物質に支配されているといっても過言ではないだろう(ある一側面だけをみれば)。
とはいえその脳内物質も、事象の連鎖を紐解けば、外的要因が大きく寄与しているので、広義な面でいえば、その定理は当てはまらないのだけれども。しかし限定的なところで言えば、やはりそれは実体験をもって、それを納得することができるのではないか。
たとえば、いくら仕事が順調でも突然スランプになることがある。あるいは、酒を飲むと辛いことを一時的にでも忘れられることがある。そのように、自分での理解できない要因により精神が左右されたり、逆にある任意のツールを使えば精神を左右することができるというのは、まさに限定的な意味での脳内物質の力が絶大であるということの証左ではなかろうか。
とはいえ、この話も堂々巡りになる。結局、その脳内物質をコントロールする要因は外的とその他の要因に分かれるために、これを切り分けて考える必要がある。その為、不確定要素を持った発作的に起こる脳内物質の乱れ。それは病気と言われることもあれば、人間のアンステイブルな心理状況の要因、つまり「不確定要素」を持った変容においては(切り分け後)においては、やはり人間は脳内物質に支配されているといえる余地がある。
しかし、である。
so what、とわたくしは言いたいのである。たかがなんミルグラム(という単位で良いのかしら?)のやろうどもに精神を乱されてたまるか、というか。
そんなわけのわからなぬものに精神を支配されてたまるもんですか、と。とはいえ、こう考えると、心身二元論となっていつの時代の寝言だ、になってしまうわけだけれども、そりゃ密接に関係してようが、あるいは健全な肉体に健全なる精神がやどろうが、んなもん知るかと。
ロジックは勿論破綻しているのだけれど精神論的に。
まとまりがつかなくなった。まぁ、言うならば、ダウナーは認めん(自分に対して自分として)というか。
もごもご

メッセンジャーのどうでも良いTips2つ

どうでも良いメッセンジャーのTips2つ。友達とメッセしていて、その方が知らない情報だったので。
いっぱんてきに知られている情報だったらごめんなさい。
■相手の最終ログイン情報を知る
相手が最後にいつログインしたかを知ることができます。ただし、これは自分がオンライン時に拾った情報かな。
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↑こんな感じに、最後に相手としゃべった時間も知れます。
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メッセンジャーPlus!を使っていると、「メンバーの情報」というメニューがでるので、そこから確認できます。
■相手が自動で退席中か、本当に退席中かを知る
ステータスの「退席中」が、自動か手動かを知る。自動だと「自動中」とステータスに表示されます。手動だと表示されません。
これはMSN メッセンジャーのバージョンに因るのかしら?不明。
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↑ 自動
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↑ 手動
それだけでした。

らんららん

余りにも天気が良いので思わず今日2個目のエントリ。
どうでもいいけど、さっき気付いたが、もうすぐ72時間外に出ていない記録が樹立されようとしている。完全な引きこもりだなぁ。
お陰様で大分GetなThingsがDoneされたけど。うーん気分も上乗仏教。
ということで、何かしら3連休、作業(仕事と呼ばれるもの)以外でしたことをまとめてみた。
絶望的にナンセンスだけど天気が良いのが悪い。
■食事
・カレーを5回食べた
・冷凍のコロッケパンみたいなのを3回食べた
・アイスクリームを5個くらい食べた
・コーヒーを7杯くらい飲んだ
・グレープフルーツジュースを2リットル飲んだ
・エビスを100ミリリットルほど
・ヴィタメールというお菓子
■見たこと
・サザンの夏のDVDを見て一人テンションが上がっていた
・ニコニコ動画でイチローのランニングホームランを見た
・映画「RENT」を30分くらいみた(レズの人のコンサートまで)
■PC関連
・デフラグ
・外付けHDDの整理
・バックアップサービスの更新
・iPodの更新
・デスクトップ/マイドキュメントの整理
・業務以外ののびのびになっていたサイト製作をいくつか着手(Pukiwiki、Wordpress、MTなど)
■読んだもの
・ブログを2,000記事くらい目を通した(FreshReaderで溜まってたエントリ数がそれくらいだった。流し読みも含む。てか、本当にこんなにも目を通したのかなぁ)
・辻ひとなりのフランス料理の本と「目下の恋人」、白川道の「終着駅」、「Pukiwkiなんちゃら」を読んだ
・郵便物いくつか(ゴミ含む)
■書いたこと
・ブログを50記事くらい書いた(ソーシャルメディア関連が大半)
・手紙・カードを4通くらい書いた。おとん含む
・メールを50通くらい書いた(作業含んでしまうが)
・カード関連の書類
■喋ったこと
・メッセンジャーでの対話10人弱ほど
・電話7人、おとん含む(履歴で確認)
■寝たこと
・昼ねを含んで4回くらい寝た。そのうち2回悪夢みた。
■日常
・洗濯を3回まわした。うっかり黒いものと分けるのを忘れて、Tシャツに白い糸が一杯ついた。
・風呂に1回、シャワー2回入った。湯船は2週間ぶり。入浴剤素晴しい
・トイレ回数不明(アンカウンタブル)
・寝ぼけて、コーヒーをこぼしてふいた
・郵便局のフリーダイヤルにIP電話からかけられず怒る(いつも)。
そんなこんなで天気の良い月曜日。
洗濯物が気持ちよいなぁ。
ああ幸せ。

ご機嫌なお天気ですねぇ

いやー、昨日までの続いていた鬱屈とした天気が嘘のよう。
ゴキゲンですなぁ。
これが台風一過というものでしょうか。
ただ、ここから「台風が過ぎ去った後は、天候に恵まれる」という定理を導き出すのは、「昨日も今日も雨だったから、明日も雨である」という帰納法と同じくらい詭弁で。
単に1つの各論から総論を導き出してはいけない。
ここから導き出せる唯一の定理は、天気がいいと人間はゴキゲンと感じることがある、というくらいである。しかも、それがエクセプションではないということを否定できる要素はない厄介な話ではあるが。
もっとも、台風が過ぎ去った後は、天候に恵まれる「こともあるという」テーゼを導き出す出すこともあるが、それは「天候に恵まれる」という可能性がアトランダムな以上、「台風が過ぎ去った後」という条件設定は、何を置いても成立してしまうわけで(たとえば「核が落ちた後は」でも「ベルリンの壁が崩れた後には」でも成立してしまう)、そう考えると、「世の中には天候に恵まれることもある」という定理にしかならず、それはもはや定理としては何の意味をもたない。
つまり、いつか引用した「東京タワーからカンジュースのプルタブを落とすと、人は死ぬ」という定理と同じ問題になってしまう。
もっとも、「天気がいいと人間はゴキゲンと感じることがある」という言葉さえも、「天気がいい」と「ゴキゲン」が定義されていないので、なんにも使えない定理である。
さらに言うと、「天気がいい」と「ゴキゲン(気分がいい)」というのは、ある「良い」という主観に基づいた感情であるゆえに、それは、「相対的に定義」されるものである。
つまり、ここでの「いい」というのは「感情の触れ幅のアベレージが平均以上である」ということであり、この平均というのは、「悪い」「普通」ということからも導き出される数値である以上、そもそも「いい」というものは主観の粋を出ない。
たとえば、雨しか降らない土地においては「降雨量が少ない」ということが「天気がいい」と言うことだって可能なのだ。
ということで、とりあえず、こういう下らないエントリーを書いてしまうほど、今日は天気が良くて私はゴキゲンだ、ということくらいしか私はわからない。

本って奴は。

雨の時は本に限る。
ということで本の話。このブログではしょっちゅう出しているネタなので恐縮ですが。
この台風で本を読んだというよりも、まぁ、定期的に本は読んでいて。
そして私の傾向として、「何かを考える時ほど本を読む」という傾向があります。それは、思うに自分の中ではある程度、答えがでている悩みがあり、それを本を読むことによって決断に促してくれる効用があるからのように思います。
基本はノンフィクションが実は好きだったりしますが、同程度、フィクションも好きなわけで。
そして、そういう悩んでいる時に読むのは、実はどちらでも効用は同じという経験則があります。
というのも、「実際にあったから」というだけで、ある事象の重みは変わらないケースがあります(変わるケースもある)。
それが変わる、変わらないを決める要素は、単純に1つだけ。自分のおかれた状況。しいてあげるならば、その時の主観になります。
それゆえに、悩んでいる時においては、大抵の場合、「決断を促進する、ないしヒントを得る」だけですから、それは実話であろうと、なかろうと関係ないのです。
わかりやすく言うと、たとえ小説であろうとも、そこに出てくるワンフレーズが、自分にとっての「もやもやしていたこと」をクリアーにさせてくれるトリガーであれば、それは小説であろうとなかろうと関係のない話になるわけです。
具体的な例でいうと、たとえば「結婚するかしないか」を悩んでいて、そして、完全に答えがでない悩ましい状況だとする。
その時に「他の人はこの時にこうしたから結婚した/しなかった」とい「う話は、ケーススタディをやる分には有効ですが、それは自分の考えを膨らますという効用とは位相を事にします。
そうではなく、たとえば、カンナカレーニナを読むことによって、そこにあった1行が、自分で思いもよらかった「結婚への見かた」を提示してくれることもあるわけです。
そして、それによって、その悩みを決断する補助線が1つ生まれることになる。
つまりはそういうことです。
で、まぁ、とはいえ、バイオリズムの問題で、ノンフィクション、フィクションを読みたい波は交互に襲ってきたりします。
最近はフィクションの波が来ていてむさぼり読んでいました。しかしもう「いいと思える本」しか、読む気力がなくなってきたのも事実です。
昔は、面白くなくても最後まで読み通す根性がありました。しかし、本を読む年齢を重ねるにつれ、その本が面白いかどうかの判断基準も明確になってしまい(良かれ悪しかれ)、同時に、時間的制約というものが大きくのしかかるようになりました。
ちょうどこないだのちょっとしたパーティでお会いした方がおっしゃっていた言葉が印象的です。

もう、私はいい本しか読みたくないんです。

と。それはクリアーな事実で。
さりとて、知らない本に手を出さない、というのとは違う。もっとプラグマティックで、1ページ読んでピンとこないと読めない、ということになります。
ともあれ、しかし、最近読んだ本たちはヒットばかりでした(もっともその背後には10ページくらいで終了となった屍たちが同じ数だけありますが)
まずは、伊坂幸太郎の「チルドレン」。
名言を2つほどピックアップするならば

あいつは常に何かを主張している

陣内が口にするたびに「絶対」の価値が落ちていく。

などでしょうか。友人などのブログでもよく見かけている本なので、お読みになった方も多いかと思われる一冊です。
もはや主観としては巨匠の域に達する伊坂氏。今回もお得意の物語リンクをふんだんに駆使し、やられた感を醸成してくれます。
そして本多さんの「真夜中の五分前」。
これは、個人的に「ノルウェイ」の匂いを多分にかぎとってしまったわけですが、それもまぁ、やむなしでしょう。
個人的に好きなフレーズ。
主人公が悩みを抱えていて、久しぶりに友人に電話をした。しかも深夜。
すると友人が「神戸から東京まで」いまから行くという。

バカいうなよ、と僕はいった。
「明日、会社だろうが」
「だからどうした」と友人はいった。

この「だからどうした」がすきで。控えめにいっても、たまらなく好きで。
このフレーズは目新しいものではなく、他の書籍でも何度か見かけたことがあるようなきがするのだけど。
だから、どうした?
いいよね。これ。全てを超越したような概念。馬にのってる感じがする。
英語だと、so whatでいいのかなぁ。まぁ、いいのだろう。いろんなシーンで使える名フレーズです。
恋愛だったら「私結婚しているのよ」「だからどうした」
仕事だったら「僕2回も失敗しちゃった」「だからどうした」
人生だったら「借金2億あるよ」「だからどうした」
うーん、すがすがしい。
そして最後のご紹介は藤原 伊織さんの「シリウスの道」。
ミステリー好きなら、誰もがはまる藤原さん。著作は少ないけれど、どれも素晴しい味わい(こないだのヒゲの話だけは個人的にイマイチだった)。
いくつか言葉を。

このややこしいご時世ではたぶん問題を抱えていない人間の方が絶滅種に近いのだ。

「自己満足かもしれない」
「満足に自己満足以外の満足があるんですか?」

ふむ。
なんだかかっこいい人たちばかりを読んだ気がする。
これらの本の詳細は、こっちに読書メモ書いているのでよろしければどうぞ。
読んだ本
そして、最後に、藤原さんの本より。

質問の答えは質問自体のどっかに隠れているんだとだれかが言っていたよ。

これは、まさにソクラテスの時代からこそ愛されている絶対の真理。大江健三郎は「問題が設定できたならば、答えはもう出ている」と言ったけれど。
対話によって人は新しい高みへと到達することができるわけで。
そして、最初の自分の独り言。「本と対話し、自分の問題を解決する」が実証されるわけである。

「世の中に、絶対、と断言できることが何一つないなんて、生きている意味ないだろう。」

朝が好きだ

僕は典型的な朝型人間で。
夜が遅いのはとても苦手だけど、早起きは好きだ。
最近は、その傾向に拍車がかかり、大体3時~6時には起きている。
朝起きたときの静けさが好きだ。
夜中とはまた違った静かさ。
現代における夜中とは引き伸ばされた夜というだけであり、そこにはなんのウシもミツもドキもない。
しかし、朝は違う。
現代における朝とは禁忌の対象であり、起きているのはニュースキャスターと新聞配達の人くらいしかいない。
ブログでもSNSでも格段に更新がおち、街が眠りについているのが実感できる。
メッセンジャーでさえ、常時オンラインになっているメンバーの半分くらいしか見つけることができない。
しかも、たいてい「退席中」というおまけつきだ。
その疎外感。
周りに誰も話しかけるものがいない。電話する相手もいないという環境。
それは何かしら、物事への注力を促進してくれる。
苦いコーヒーも、かすかにかかるどこかの音楽も、そして、新聞の匂いも全てが朝ゆえに素晴しい。
ああ、朝がすきだなぁ。