投稿者「admin」のアーカイブ

絵文字

原田さんって絵文字使わないよね

と、しばらく前に言われた。
使わないな、と思った。
理由としては、いくつかあるな、と考える。そもそも携帯のメールはPCで打っているので絵文字がうちにくい(うてないこともないけど)。あと絵文字をうつ時間が苦手だ(ATOKにURLから住所からなんでも単語登録する身としては)。次に絵文字の互換性がよくわからない。PCだとMacとWinなどで機種依存文字があり(たとえば数字に丸かっことかだったけ)、携帯にもそういうものがあるよな、と思い、どれがOKでどれがNGがいまいちよくわかっていなかった。
その話をすると、「これは同じキャリアに対応で、これはどのキャリアでOK」という知識を教えてもらったが、未だに、動く絵文字(なんていうの?デコメ?)のキャリア依存(ないし機種依存)はよくわからない。
しかしながらIT業界に生きる人間として、この絵文字は重要なコミュニケーションツールであり、一度じっくり考えた方が良いような気もしている。何より「言葉」を愛する1人としては考えねばならぬだろう、ということで考えた。
個人的には、ただ絵文字が嫌いなわけではなく。確かにplainな文章よりも、絵文字がついていた方が、暖かみがあるし、情報量さえ増える(最近、この絵文字の付加情報の価値を考える機会も別にあったし)。メッセンジャではよく使うし、2chの顔文字もとかくに便利ではある。太古から存在する(: smile markも愛すべき存在だ(あと、どこが発祥か知らないけど、 >< この顔文字も最近は市民権を得て良いことだ。みん就とかで最初にみかけて、当時は2chで揶揄される絵文字だったけど、それが一般化したのかしら)。あと蛇足だけどiPhoneでは絵文字がものすごく便利だ。使い勝手が多い絵文字が多いのかしら?
だが、携帯の絵文字にはなんだか抵抗があった。さらに深く考えてみるに、上記の理由以外にも携帯の絵文字を使うことの抵抗がある気がしてきた。
思うに、「男性が使ってよい絵文字の妥当ラインというか臨界点」というのがよくわからないからというのもあるかもしれない。
つまり、一般的に、「男性から携帯メール」をもらうことはあっても、「男性が女性に出す携帯メール」は一般的にどのようなものが使われているかは、1男性はなかなか知る機会がない。なぜなら自分は女性ではないからだ。そして、なぜここに性差の問題が出てくるかというと、一般的に「女性は絵文字を使うことの社会的許容度は高く、男性は相対的に低いであろう、と推測され(ミッキーを愛する男性が女性よりは少ないことと同程度に)、また、そもそも男性へのメールの絵文字に気を使うこともないから(理由としては男性がどんな絵文字使おうと一般的には瑣末ごととして処理されるからである。その論拠としては、男性が男性から受け取ったメールを保護する確率が低いことから推測することからの類推。なおさらにその論拠は略)」である。
そのため、「一般的な男性の社会人が女性に対して使う絵文字の許容範囲」を知らないから、という点も考えうる。そのヒアリングをしたところ「この絵文字を使う男性はいけてない(この絵文字を説明したいところだが、それを説明すると弊害もありそうなので略)」「男性ならこれくらいの絵文字を見ることが多い」「これくらいの確率で男性は絵文字を使う」というようなデータを多少集めることができた(サンプル数一桁)。
しかし、そこで気づいたのだが、送る相手の属性によっても、絵文字の量/適切さは変わるのではないか?という点に気づいた。つまり「恋人」「友人<N<恋人」「友人」「先輩」「同僚」などの属性によって、絵文字は変わるのではないか?という仮説に至った。というかわかるだろう、しかし、個人的に思うにその差分は限定的なような気もしている(ソースは自分自身の体験談)。つまり、「絵文字の許容平均値」があって、それの触れ幅は属性によって変わるけれども、その傾向は大きくは変わらない、というような。
では、その触れ幅を考えるにあたり、逆に「女性はどのような絵文字を使うふれ幅」があるのかを考えてみた(というか聞いたり思い出してみた)。まったく使わない人から、過去に話題になった暗号文になったような絵文字の方が分量が多いといったヒエログリフ的文章を書く人まで多用にいることがわかった。また最近は、動く絵文字やテンプレ系メール(なんていうんだっけ?)なども多段に活用され、自分の名前を独自のアニメーションgif的な存在で書いておられる方も存在するわけだ。もはや、ここから鑑みるに、人(女性)によって絵文字の利用頻度/方法は無数にあるという、なんとも参考にならない思いを得た。
男性でも、それなりに使う人も、まったく使わない人もいるようだ。そして、聞くところによると、その許容度も、相手との属性やそもそも受け取る側の主観性によっても大きく変わる。そりゃ当たり前といえば当たり前の結論で、それはそうだが、そんなことで世の中が回っていれば社会学なんて存在しない(人それぞれだよ、で住んでしまう)。
そこで、こういうのは自分で試しながら検証するしかあるまい、と数週間前から、絵文字というものを使おうとしているのだが、やたら難儀だ、これがまた。
まず「相手が使っている絵文字はなんとなく使いにくい(英語で、一度使った名詞は次は違う代名詞で表現することに似ているかもしれない」。次に「この絵文字は女性っぽい(なんかウインクしてるみたいな顔とか)」みたいな謎の先入観がある。そして、「そもそも絵文字を使うようなメールをうつことがあんまりない(業務連絡ばかりだ!5日の17時にどこどこ集合とかのメールに合った絵文字はなんだというのだ。時計か?おんぷか?この指とまれよろしく指か?)。あとそもそも携帯メールをうつことももらうことも多分極端に少ない(世の中の人は携帯メールで何をやりとりしているのか?twitterで過半数が意味のないやり取りという調査があったが携帯メールもそうなのか?)ので練習もあんまり出来ない。
そういうことで、相変わらず絵文字の存在に四苦八苦しているわけだが、これはもう何かしらスタイルを決めるのがよかろう、と思い、文章の末尾に何かしら思いついた固形物系の絵文字を入れるということに落ち着こうとしている(そういえばペンギンがあってイルカやクジラがないのはなぜだ?グリーンピースのロビー活動か?)。おんぷみたいな意味がほとんどないが、しかし当たり障りがなく、先入観を拒否するような絵文字が個人的には好きなのだが(メッセの最後の投稿を意図するような記号としても便利だ)、そういうのをもっと増やすべきだ(梵字とか、サンスクリット文字とか、トンパ文字とか)と思うのだが、いかんせん、そんなことをいったって絵文字は増えない(自作もできるのだろうけど、ここで議論すべきはそんな問題ではない)。スヌーピーの名言でいうならば「配られたカードで勝負するしかないのさ」っていう奴である(そういえばとあるサブカルチャーの影響で花札を最近思い出したのだが、あれってもう少し麻雀やボードゲーム並みに評価されてもいいのかもしれない)。
ということで、引き続き絵文字に関しては調査中である。よろしくお願いします 笙ィ(コトエリで絵文字で変換したら左の文字がでた。winでも見えるのかな。)

ミュシャ

その絵を肉眼で初めて見たのは、MoMA(NY近代美術館)だったろうか。
アバンギャルドな展示の中で、ふと通りを折れるとそこに、その絵が飾られていた。1メートル以上の縦に大きな絵というものが印象的だった。日本画(正確にいうところの水墨画)などは縦に長いけれど、海外で長いものは、そんなに見かけない気がするのだ。
そして、その絵に描かれた1人の女性。もちろん名前も知らないし、想像さえつかないのだけれど(日本語でいうならば、ミュウといった感じの)、その女性の目が、とても凛としていて。それは、すべてを見通すような目、というと平凡に過ぎるけれど、どちらかというと世の中の悪の部分までも見通しながらもそれを寛容(ないし寛太)するような眼差しがそこにはあり、どうも目があってしまった私は、そこに立ち尽くすことになった。
時間にして5分もなかったかもしれない。ただ、「衝撃」というものが強くて、思考回路が少し停止して、右脳だけで、何かを理解しようと試みて。そして、言語化できない不思議なクオリアとでも呼んで差し支えない恍惚感とともに、その絵がすとんと腹におちて。つまりは、昔から知っていたような記憶がねつ造されて私の脳に刻み込まれた。
だから、実はその絵は過去にみていてのかもしれないし、初めてだったのかもしれない。でも、いずれにせよ、私の脳は「ミュシャ」という記憶がつくられ、そして、揺るぎない硬度をもって居座ることになった。アールヌーボとヌーベルバーグさえ混同しそうな頭でも、その曲線美の美しさは説明を必要としない強度で頭を揺さぶった。
「嗚呼、アートの力とはこういふものか」
と嘆きとも感嘆とも判別しがたい思いで絵を視線で追ったことを覚えている。その絵を見ただけで誰の絵かわかる、ということは簡単に見えてそういうものでもないのかもしれない。後期印象派だって、ユニークな人々は数多くいるけれど、誰しも区分できる人というのは、10指で足りるのではないだろうか。ピカソであればゲルニカはわかっても青の時代やフォービズムの作品はピンとこない人はいるだろうし、ゴッホだって糸杉やひまわり等のモチーフは有名でも、ゴッホのリンゴとセザンヌのリンゴの区分なんかわかる人には当たり前でも、そうでない人にとっては似たようなもんじゃなかろうか。ドガとロートレックとルノワールの「踊り子」の違いとかとか(そりゃ比べれば全然違うけど単品で見て、誰の絵?って言われたら)。言い過ぎだったからごめんなさいですが(この辺の感覚値って人によって全然異なるのでたとえが正しいのかまったくわからない)。でもミュシャはやっぱりミュシャで。いや、でもミュシャを特別扱いするのはよろしからぬので、このパラグラフ全部訂正。
いずれにせよ、ミュシャは1人の高校生の心をわしづかみにしたとさ。それだけのお話。
ミュシャの絵はこちら

半分の人生

人生も折り返したってわかれば、なんだかがんばろうって思えるのだけど

と言った人がいた。iPhoneのJazzが少し空気を穏やかにし、缶ビールのヘコミが少し時間の流れに緩急を付けていた。

平均余命から考えれば、あと10年くらいかかるんじゃない

と誰かが言った。
人生の半分か、と私は思った。年を取ると、時間の流れが幾何学的に加速するという話があって。それは「一般論」としてよく口上に語られるものなのだろうけど、当人にとっては、それは個別論でしかなくて。
たとえ皆がそう感じていても、つまるところの時間の早さに少しばかりのため息をついていたとしても、やはりため息をつくのが自分か、その他の誰かでは大きな違いがあって。結局のところ、物語や談話というのは主観性でしか評価できないものなのだろう。
人生の折り返しに関しては村上氏が過去に短編を書いていた。あるいは、過去に「自分の寿命は30までと定義する」という人と議論をしたこともあった。人は誰しも時間と共に生きる。時に時間に抗いながら、あるいは時に流されながら。
しかし、時間にも良い点が一つだけあって。それはまごうことなきの公平性、少し小粋な比喩を使うところの「時間の我々に対する誠実性」とでも言うべきもの。
つまりは、誰しも森羅万象、等しく時間を過ぎる。もちろん体感速度の差異はあれど、あるいは相対性理論から鑑みるところの誤差はあれど、総体の並べて平らにして、くゆぶらせて見るところ、それはどう考えても平等に時間が過ぎていく。
だから、私はつい、コンビニに行くにも走ってしまうのだけれど。でも、人生を折り返したいかどうかという質問を投げかけられたら、「定義による」って逃げてしまうんだろうな、と思うのだ。

文章

世の中には、なんとも文章が上手な人がいて。そういう「素晴らしい文章」をみると、なんとも巡とするほど感動と、ほてりさえ感じてしまいます。
以下、個人的にいい文章をかきはるわねえ、と思うブログとかなわけですが(その中でも個人的に好きな記事にリンク)。
» 2009-06-15 – ぼんやり上手
» 口リコンか否か – しびれくらげ
» 2008-05-11 – 無免許タクシー
» 2008-05-31 – Everything You’ve Ever Dreamed
» モナ – 平民新聞
» パンチラも透けブラもいらない – nuba
» デートに遅刻したときの切り抜け方9パターン – 怒りにも似た祈り(イカノリ)
お知り合いでは、しんたさんとかチリリンとか増田とかetc,etc。
» 浮沈のオーヴァーブッキング  浮 – チャールズ街141番地 by the SYNTAX ERROR
» 処女同士だと思ってた友達がさり気無く経験したよとカミングアウト
こういう文章を読むと「文章ってとてもパワーフルなものなんだなぁ」と唸ってしまうわけです。結論なし。

夏と雨

最近のブログ欠落をカバーするかのごとく3連発目でございます。「虹」「花火」ときたので、なんとなく「雨」。そして夏と雨。
さっこん、雨が多い。梅雨が明けたというのに、まだ雨が多い。誰かが「梅雨に入って明ける」というのはこれいかに?という記事を書いていたけれど、さもありなん。「入って明ける」のは、救助隊の仕事であろう。火事の中に人を助けに入って、そして禁断のドアを明けるのだ。あるいは、オペラ座の怪人だっていいかもしれない。
しかし、梅雨は「入って明ける」である。英語でいうならば in and openであり(直訳的にいえば。あるいはupかもしれないけど)、なんというか、ピンとこない。「in and out(LAとかで良くみかける美味しいハンバーガー屋)」ならまだしも、入って明けるのはなんぞや、という禅問答のような世界がそこには待っている。本来ならば「始まって終わる」だろう。ただ「明ける」ものは、他に「夜」がある。「夜のとばり」が降りて、そして「夜が明ける」。それはそれで何だか情緒的で悪くない。ただ、おそらく「あける」という言葉には、人が「明けた先を渇望している」というニュアンスがあるのだろう。つまり「梅雨」や「夜」というのは、人にとって忌むべき存在で(農家の人にはあれですが)、それが終わるということを、古来、人は「明ける」と表した。天照大神をも髣髴される味わい深い表現であることがわかる。
しかし夏である。
夏が良いというのは「夏だから」という簡潔かつ、何も意味を持たない常套句が時候の挨拶として使える点にあると誰かが言っていた。
個人的に、ゆーみんの歌にあった「台風がいくころは涼しくなる」という言葉が、とても印象に残っていて。つまり、夏の終わりというのは、台風の去来によって表される。あるいは、桑田佳祐は、「麦わら帽子が風に飛ばされて夏が終わる」と表現した。あるいは「一夏のアバンチュール」という死語があるように、人によっては恋が去り、あるいは、一夏の経験とよばれるように、通過儀礼を得ることによって何かしらの澱とpurenessを去らせることになるのかもしれない。
夏は少なくとも「明ける」ものではなく、去って行くものだ。それは台風と一緒に去るのか、あるいは麦わら帽子と一緒に去るのかの違いはあれど、いずれにせよ、夏は、何かと去っていく。
そして、夏が素晴らしいのは、また1年たてば戻ってくるということだ。去ったものだけの空白を残して、そして夏はまた巡り変える。何かしらの輪廻を秘めた季節がいままたそこに訪れる。

花火

時事ネタということで花火。
夏ですね、そうですね。
夏といえば花火ですね。先週末も今週末も花火ですね(伝聞推定)。
思えば最近、花火を見ていないな、と思った。いつぞやか隅田川の花火大会にいって、あの牛歩戦術に辟易した記憶がある。
花火というのは、不発弾が込み込みのような世界だそうだ。友人が、最近、花火の打ち上げをしてきたそうで、そんな話を聞いた(免許関係はクリアしながら)。
最初から、咲くことのできない花火とは、いささか寂しいな、と思った。でも、咲いたとて、咲かないとて、それらの総体が花火なのだから、それはそれで良いのかもしれない、と思った。
つまりは、明治維新を先導したのは一握りの人かもしれないけど、そこの途中で息絶えた人もそのうねりの一つだったように。あるいは、メキシコはメキシコシティから成り立っているわけでもないように。
でも、いずれにせよ花火は花火の良さがあるな、と思う。
究極まで圧縮されたエナジーのビックバン的爆発が何かしら人のDNAを刺激し、それは、ベタな例えでのリビドーとの飽和点と氷結の関係にもいささか似ていて、風情があるだけでなく、人が従来から持っている太鼓のリズムにも似たリズムが花火の音が彩り、太陽にも思える火の光が生肌を容赦なく照らすことによって、夏の、その真夏の蒸気の中で蒸された体温によって猛禽類のような臭気を放つ汗との猥雑な混じり合いが全ての五感を刺激し続け、それでもやむことのない重低音と光と、そして気が狂ったようにあふれかえる人の波の中でもまれる正気が蠱惑的で淫靡なアウラを創り出し、それはいささか、夏だからこそ、そして、雑踏のあふるる川縁だからこそ起こりうる刹那の風情がなんとも言えない。
「僕らはいつか飛び出す瞬間を待っている」
とは誰かの言葉だった。
つまり、花火が「一瞬で咲く」ということに自分が持つ何かを重ね合わせ、人はそれに代償としてのカタルシスを得る。
そして我々はいつか自分のスターマインを待っているのだろう
なんちて。

えっと虹に関してです。ども。
虹です。
こないだ、土曜日かしら。南麻布の方を自転車で走っていたら、虹が出ていた。
あ、虹だ、と思った。
周りの人たちが騒いで、カメラを出していた。携帯カメラだけでなく、ザクティのようなものを出している人もいた。マナティじゃなくて良かったけれど。
そして、みな写真をとっていた。誰かは携帯からメールで写真を送っていたのかもしれない。twitterを見れば「虹だ」という書き込みが溢れ、2chではスレッドもたっていたようだ。
虹か、と思った。
地元では虹をよく見ていた記憶があるけれど、東京では確かに、虹をあまり見ないかもしれない。
でも、と思う。
人はなぜ、虹をみて写真をとるのだろう。その情報を共有するのだろう、と考えた。そんなに珍しいものでもないし、あるいは、それが持つ情報価値はないし、ないし、それをもらった方が返せる回答は限られている。
それがたとえば、ツチノコだったり、あるいはカズノコだったりすると、なかなか話のネタとしては面白いし、もしくは、ウナギとかだったら「地震がくるかもしれないね」みたいな流し方もあるのだろうけれど、虹というのは、なんというか、それ自体が完結した存在でございます。
つまり
「ああ綺麗だね」という感じか
「僕もみた!」というような感想しかできない。
でも、人は虹を共有する。
それは体験の共有か、感想の共有かで話は変わってくるのだろうけれど、ひとつマチガイナイのは、それが「共有のマテリアル」であるという点である。
つまり。
つまりは、人は「虹」という素材を使うことによって、便宜的にそれを共有する。
その情報をもらった人も「虹を送られることに別の意味」を時には付与し、あるいは「虹だね」という同意を得ることで、コミュニケーションの豊穣化を図る。
つまり、人はコミュニケーションを求めている。そして、普段はきっと人々はネタを探しているのだろう。
時に、火事などの野次馬も、それへの好奇心だけでなく、それを体験共有することを求めているのかもしれない「こわいですね」「大丈夫ですかね」と、時に人は、普段ではない日常においての交流が何かしらの潤滑油となる。
だから。
だから、虹はきっと、それ単体で完結しているからこそ交換道具としていいのだろう。
「ほんとだね」といった、ささやかなあなたの一言が虹の持つ価値なのだろう

1Q84(基本ネタバレなし)

ブログのコメントでで村上春樹の1Q84に関するリクエストを頂いたので、それについて。僭越ながら。

1Q84 BOOK 1
1Q84 BOOK 1

posted with amazlet at 09.07.12
村上 春樹
新潮社
売り上げランキング: 8
おすすめ度の平均: 4.0

4 わかる、わからない、わからない、わかる、、、
5 わかりやすいしおもしろい
3 トカトントン
3 面白いが好きになれない。もっと説明すべきでは?
4 いい作品。でもカタルシス1点減点

いやはや、ここ10日以内にも4人くらいと1Q84の話が出た記憶があり、やはり、まだある種の書籍は「話題の共通のマテリアル」としての価値を持っているんだなぁ、と改めて感じる。
そういう意味では、ドラゴンクエストの最新作やiPhoneなども、ある種のクラスターにおいては、十分の共通のマテリアル性があるのだろう。ニッチかもしれないし、あるいは、かなり限定された条件下においてかもしれないけれど。
さて、感想として、ネタバレをするかしないかで、書ける内容が非常に限定されるのだけれど、敢えてネタバレしない形で、あたり障りのない範囲で、うまく書いてみようと思う。ただ、全く事前情報知りたくない人はご注意(その箇所は※以後危険と記載しておきます)。書き終えてから見直しましたが、一応、未読の方でも問題ない構成にしたつもり。
結論から言えば、面白かった。それは、「村上春樹らしさが存分に出ている」という点において、という意味だけど。つまり、神の子やカフカあたりからの系譜とは少し異なった本流に少し回帰したという点では面白かったのではなかろうか。ただ、それではこの本が「ピンボール」や「ノルウェイ」のように、引っ越し先にも持って行きたい一冊かというと、結構悩むかもしれない。それこそポールオースターのムーンパレス(リヴァイアサンは永久書庫確定済み)か伊坂幸太郎の「死神(砂漠は永久書庫確定済み)」と同程度の良さだったように思う。むしろ、「走るときについて・・・」の方が再読可能性は高いような木はするけれど、それは私がマラソン好きだからだろう。
あ、あと他の人の話やWeb上の話でも出ているけど、これに続編があるとかないとか(ある方の可能性の方が高そうではあるけれど)。「1q84 続編 – Google 検索」などを見ると、さもありなん、とは思うけれど、個人的には、これはこれで完結していてもいいんじゃないのかなぁ、と思う。ただ、続きがあってもそれはそれで良いけど、なくてもまぁ、悪くないのではないか、と。理由としては、「続編<新刊」という指向性があるからというだけ。
ただ、残念ながら昔のように「熱狂」はできなかったのも事実である。ただ、それは物語の本質とは関係なく、私が年をとった(という表現で表すところの社会性だとか環境の変化)からであろうと思う。愛と幻想のファシズムのように翌日、何も手が着かなくなるということはないし「夜の果てまで」のように、読了後、誰かに電話をしたいという衝動に駆られることはないし、「ぼくは勉強ができない」のように翌日、学校への歩む速度が変わることもない。でも、それはそれでそういうものだ、と思うしかない種類のもので、きっとそれは1Q84は何も悪くない。
さて、やっと本題。
まず、小説をメタ分析してしまう1人としては、「過去の宗教関係者へのインタビューがこんな形で物語りになるのね」という意識だった。いや、彼が過去にオウム周りで取材をしている時に「これが血肉となった。時間はかかるが、いつか小説に云々」という話を大分前(7、8年近く前?)にしていたので「おお、こいう形でよみがえるのね」と参考になった。というのも、ブログを書いていて思うのだけれどこんな話を考える。たとえば、一緒の出来事を共有した人がいる。その人がブログでそれを書くとする。他の人もそれを書くする。自分がさらに書くとする。そうすると、当然ながら物語は3つ登場する。テーマは一緒だけれど、主観が異なれば、まったく違った文脈がそこに表れる。
それは勉強会などではある程度どこかに収斂するけれど、出来事やイベント/旅行といったかなり独自性(ないし、個人の指向性)が反映されるアクティビティにおいては、それらの見方はまったく異なる。そういう意味で、物語の再現性(正確にいうと、リメイク兼言語化)は、興味深いと思うのだ。他の小説家でもたとえば911事件を人それぞれに描いていたり、あるいは村上氏自身も神戸大震災をテーマに異なった物語をいくつも紡ぐように、人の立場が変われば、同じ出来事はまったく違う意味を持つ。以前、友人とお酒を飲んだ時に、「私が感じであろう視点で書く」という離れ業をしておられたことがあって、つまりは、相手は原田がどう感じたか?という点を推測して、同時にそこに自分を内包しながら再構成するという離れ業をしておられた。それは「立脚する視点に自分を含有するが、その立脚する主体も自分(つまり、相手の視点にたつ場合、相手の視点は自分の所作がどうであるか?という点の分析となるが、その分析対象が自分であるという点では、自分がどう思ったか?という点が含有されている)、という不確定性定理(先日の講演で久しぶりに聞いた)にも似た興味深い行為となるが、それはまた別のお話。さらに蛇足で言えば、最近読んだ「イニシエーション・ラブ (文春文庫)」の視点のズレを活用したトリックはそれで面白かったけど、かなり関係のない話。
いずれにせよ、そのような「出来事の文章化」は過去にも書いた「日常を非日常化」する行為でもある。つまり自分にとっては、「ありきたりの陳腐な日常」であっても、それを言語化し、そして、リメイクすれば、それは「非日常」として生まれ変わる。それはある種の儀式のようにも見えるし、ある種の精神安定効用でもある可能性だってある。
そのようなことを1q84を読みながら最初に感じた。あと、そのようなテクニックで言えば、「最初に暗示を提示して物語をすすめる」というテクニックも、わかりやすくて参考となった。つまり、違う例で言えば、最初に「僕は死んだ」といって始まる「ほたるの墓」のように、あるいは、タイタニックの「船に投げるネックレス」から始まる物語と同じように、最初に出したテーマに沿って伏線を回収しながら物語をすすめていくという流れは、(構造主義的観点から言えばベタかもしれないけれど)、やはり吸引力があるよな、と思う。
あとはサブカルチャーの使い方も素敵だった(蛇足続きだけど、ノルウェイで出てきたキュウリに海苔を巻いて醤油を付けて食べるという食べ物には感銘を受けて、学生時代、よく食べてた)。もう一つは、小説の作り方として「今のリアルの現実を少しずらした世界」の価値というものを改めて感じた一作だった。というのも、もしあなたが小説を書こうとする場合、どのようなものを書くだろうか?おそらく、自分の過去の延長や、あるいは、自分が夢見た世界あたりが多くなるのではなかろうか(推測なので違うかもしれない)。ただ、もう一つの虚構の作り方としては「現実でない世界をいかに創るか?」ということが重要であるようにも思う。というのも、上記の「日常を非日常化する」という点とも対となるのだが、「非日常を日常とする世界」がそこには生まれるからである。たとえば「魔法が使える世界(ハリーポッター)」「かかしがしゃべる世界(オーデュポンの祈り)」「人の心が読める(家族八景)」など、少しずれた世界(現実にはあり得ない設定)を書き出すことが、小説の新しい世界観を生み、それが小説としての礎となりうるからだ。そういう点では、この世界観は非常に参考になるものだった。
さて、本題に入ったつもりが、これっぽっちも本題に入ってなかったので、改めて本題に再突入する。
(※以後一応注意)
ポイントとしては、月である。この小説を彩る道具の一つだ。この月に関して書く。無鉄砲に書く。
先日、七夕だった。とあるお店(一応注釈:変なところではない)の人が「満月の七夕って19年に一回って知ってました?」と言った。へえ、と思った。なぜ「へえ」と思ったかというと、「何気ない七夕なのに19年に一度」という設定が付与されるだけで、とても価値のあるような日に思えるからだ。まぁ、これは今のマーケティングでは当たり前だけど、それでも、ふと知り合いの口から聞くと、何だか、その七夕の日がとても高尚のようなものに思える(とはいえ、何もしなかったけど、それはそれで別のお話)。
というのも、そのついその少し前の日、あまりにもくたびれて深夜前、過去の上司(近所にいると想定)に「お酒!」とメールをすると「珍しい。満月だからか」的に返事が返ってきて(他意はないと思われる)、「おお、月というのは、そういう力があるのかしら」と思った。どうでもいい補足情報だけど、文脈の説明をすると、実際、私はお酒が苦手なので自分から唐突にお酒を飲みに行こうということは、かなり稀。確かに、満月の日は犯罪が増えると聞くし、物語でも、狼男の話もご存じの通り。月は、何かしら人を左右するものなんだなぁ、と感じておった。
さすれば、ちょうど、その前後の日に「ムーンパレス」の話を聞いて、おお、月だ、と思った。説明しておくとムーンパレスは、ポールオースター巨匠を代表する(と原田が考える)一冊で、青春小説。このムーンパレスという名称はマンハッタンにある中華料理を指していて、直接、月の話はあまり出なかった気がするけれど、冒頭では、初めて人間が月に立ったというエピソードが重ねられており、やはり月の話が散らされて「何か」のモチーフとなっていた。
まず一回、月の話を置く。
次に、この物語の中で、「いつかどこかでその人と、ばったり町角で出会うかもしれない」という人がいた。つまり、過去に会ったことのある人がいて、その人はいまどこで何をしているかもわからない。調べようと思えば調べられたとしても、探さない。いわゆる「偶然の邂逅」を望んでいる。
いい話だ、と思った。
どこがいいかというと、「神様とダンス」している感じが良い感じだ。ここで言う神様というのは、「存在しないけれど、存在すると人が共同幻想を持つことが重要な意味を持つあがめ奉られる対象」である。
もしかすると会うかもしれない。会わないかもしれない。それがどうなるかは神様のさじ加減一つ。ただ、自分からアクションを起こす必要はない。失敗して傷つくこともない。ただ、会ったら自分に何かが起こるだろう、と心境を置く。つまりは、「世界が変わるかもしれない」というトリガーを日常に紛れさせておく。それによって日々が彩られるかもしれないし、あるいは、「いつかどこかで」物語が始まるのを待つことができるだろう。
個人的にも、便宜的には、偶発性に意味づけを付与することがあり、それは現代の処世術として非常に有効だ(だからこそ、スピリチュアルや宗教は常に存在する)。そして、その偶発性を事前に設定することは、上記の前提として、同時に有効である。
そこで考えた。
「自分がいつか再会したい」と思う人はいるだろうか、と。
もちろん、いるのはいるけれど、連絡先がわかる人だったり、あるいは、会うことがあるだろう、とわかっている人がメインだ。いまやSNSやGoogle先生を使えば、大抵のことは調べられる。
ただ、「いまその人がどこで何をしているか」を知らなくて「友人やツールなどを使ってもたどれない人」というのは、かなり少ない気がする。あるいは旅行先で出会った人などは、その範疇に入るかもしれない。いまでこそメールアドレスの交換はできるけれど、それでも旅先でメールアドレスを交換するのは、そうそうたやすくない。NYに留学している時に出会った友人の何人かは、もはや一生コンタクトができないだろう。そして名前を思いだそうにも、ファーストネームしか憶えていなかったり。そういう人と、いつか街角で再会するかも、と考えるのは、なかなか楽しい。
いつかどこかの街角で、というような。
というこの偶発性の物語。これが月の存在と絡まり、「偶発性を偶発性ではなくする物語」がそこに生まれている。そもそも、小説というものは恣意性があるだけでなく、「偶然が起こらなかった時の出来事は物語化されないのだから、物語化されている物語は全て偶発性が必然に起こる」というテーゼも内包され、そして、その偶発性が、「しかるべき設定」で説得力を持つことが重要となり、その点で、これは月と偶発性が綺麗に絡まり合った物語だな、と感じた。
そして、何より、この二つのテーマを出したのは、この二つが自分の世界とも絡み合っていたからだった。小説というものを娯楽とみるか、なにかの指針とみるかでその意味づけは異なるけれど、後者となった場合、この物語は「私にとってどのような価値があったか?」という基準で図られなければならない。そのような点で、この二つは非常に有意義な価値を持つことになる。
そして、何より、この本をこのようにブログのコンテンツ化できる、という点でも、この本は読む価値がある一冊だといえる。

借り

多くの人に借りを作りながら生きているなぁ、と思った。というのも、先日、「借りはすぐ返さないこと」という話を聞いたからだ。
たとえば、先輩に食事をごちそうになる。礼は早くが良いと思い、帰り次第、菓子折でも送ってしまう。翌日にそれが届く。もらった方は、「そんなに借りを早く返したいのか」と思ってしまう。借りは時に時間をおいた方がいい。
そんな話を聞いた。
そういうこともあるかもしれない。人生は貸し借りで出来ている、という話を聞く。または、「人に借りを作ることで、新しい関係性を作る」というコミュニケーション手法も聞く。たとえば、名刺交換をした人がいる。その人に「○○さんご存じですか。紹介して頂けませんか」「○○について教えて頂けませんか」と伺う。応えてくれると借りができる。そうすれば、借りを返す口実が生まれる。食事でもいいし、何か仕事でもいいだろう。そうして、本来ならば繋がらなかった点と点が線となる。そのような話だ。
ある人が過去に言っていた言葉を思い出す。もう3年以上も前だろうか。
その人と久しぶりに六本木で食事をした。話の流れとして説明するならば私にとっての異性。肉を食って、お酒を飲んで、終電の時間は過ぎた。そして先方はタクシーで、私は歩いて帰ろうとする。六本木まで出向いてもらったのはこちらだったから、タクシー代を出そうとする。そこでその人はこういう。「借りは作らないから」と。
なるほど、そういう考え方もある、と思った。
そのように男女の関係も貸し借りという概念はあるのかもしれない。私は異性になったことはないからわからない。ただ、誰かからか聞いたが、夜の世界では、食事3回が何かしら1回のバーター取引となっているというような。まぁ、それは貸し借りの概念というよりも、「3回も食事いっているわけだから」という名目的な意味合いが強い貸し借りかもしれないけれど。
貸し借りで言えば、ピエールブルデュー先生の社会資本の話を思い出す。私が歪曲して記憶している可能性もあるけれど、彼にとって、ある種の「優れた」人というのは、社会に借りを負っている。彼は自分が優れているから優れていただけに限らず、親や近所、地域、友人、教育などといった社会からの恩恵を受けて彼がいる。そのため、彼はしかるべき形で社会に責務を返さなければいけない、といったような。端的にいえば、ノブリスオブリージュに近いのかもしれない。
あるいは、名作「リアリティバイツ」を思い出す。
その映画の中でイーサンホークは、本屋でバイトをしている。しかし、合間に本屋の商品であるチョコバーを食べていた。それを、店主が見つけて彼を首にする。そこで、主人公のウィノナライダーは彼に「なんでそんなことをしたのか?」と問う。そこでイーサンホークはこう応える。

「チョコバーは俺に貸しがある」と。

真意はわからないけれど、そういうこともあるのかもしれない(なお上記のシーンは映画では1ショットで表示されていた気がします)。
そういえば、僕は誰かに傘を借りたままだ。傘の季節がもうすぐ終わるというのに。