これもなぜかリストに書かれていた。
これって僕が書いたのかしら?あるいは誰かに言われたのかしら。誰かに言われるにはいささかヘビーすぎる言葉で、そうそう忘れることはないので自分で書いたのかもしれない。引用かもしれない。
少なくとも1年以上前に書いたものだ。
さて「人生に期待しすぎなんじゃない?」という命題はなかなか興味深いお題である。
さて諸君。諸氏は人生に期待しているだろうか。あるいは夢見る頃は過ぎてしまったろうか。
何か困った時、人生は絶妙な按配で、絶妙の采配を下す。信じられないような「奇跡」とでも呼ぶべき僥倖により救われたり、結局何も起こらず寧ろ泣きっ面にクマンバチの状態か。いずれせによ、つまりは確率の問題の領域を出ることはない話。
ともあれ、しかしそれと人生に期待することとは別の事象として存在する。人生で何が起ころうと、あるいは何も起こらないとしても、それはあなたがどう考えるかとは別の次元の話なのだ。
人生は期待すべき価値のある対象か、という命題も派生して興味深い話である。人生が陳腐でちっぽけならば、期待すべき対象ではないけれど、そもそも人生が雄大で広大で壮大だったとしても、そもそも人の期待なんて何かを期待するものを持たない動詞なのかもしれない。いずれせによ、これは検討するプロセスは興味深いとはいえ、結果が面白いものにはならない。期待すべき対象であろうとなかろうと人は生きていかねばならぬのだ。結果によって行動が変わることない命題は答えを出すべきじゃない。そんな人生短くない。
さて話を戻すと「人生に期待しすぎなのか?」。ここで興味ぶかいのは「しすぎ」という言葉である。つまり、節度の保たれた期待ならば、それはそれで期待しすぎとはならない。臨界点を超えてこそ、やっとその期待は成り金となれる。これを検討するには別のアプローチから考える。
「したいことをして生きられるのが幸せだ」という言説を最近、いろいろなところで目にして。これはある種の期待である。それが幻想かも知れない可能性は認めない。そもそも、実現可能性を検討しないままにそれを受け入れることも期待である。
結論としては人生はそんなに甘くない、というのが共通見解だろう。誰がなんといおうと人生は甘くない。これは自明の理でありギリシア時代から自然界三大前提の1つである。疑ってはいけない。さりとて「人生が甘くない=したいことをして生きる」是非はまた別だから話はややこしい。個人的には最近、これに懐疑的で、人生とはしたいことをして生きるほどもったいないものはないという気がしている。人生とは、やはり「すべきことする」の方がとてもしっくりくるのだ。それはしたいことではなかったとしてもすべきことであればすべきである。そういう心持が強い。もっともこれは主観であり、なんのファクトでもない。
ただそのスタンスで見れば、人生に期待することはない。なぜなら、期待しようとも期待をしなくても、結果が変わらないからだ。すべきことをする以上、人生が優しかろうと厳しかろうと、そんなの所与条件としてとっぱらっちまえ、となるわけである。
ふむ。つまりこれは主観をベースにした人生に期待の無効化とでも言おうか。それにより落胆のリスクヘッジというかモーターサイクルダイアリーズというか。
完全に個人のメモ書きになってしまった。
原田さん、お久しぶりでございます。
>人生に期待しすぎなんじゃない?
なかなかイイ言葉ですね。
気に入ってしまいました。
「何か面白いことないかなあ」という友人へのアンサーとして採用させていただきまっす(‘◇’)>
どもども!ご無沙汰しております。
どこからの言葉がわからないんですが、なかなかの名言です!せちがらい世の中を楽しくできるように頑張ります!
ありがとうございますー!