先日、パン屋で店員さんが、おつりを間違えた。
子供の頃、「店で店員さんが、おつりを間違うことなんてない」と思っていた。
それはまるでビッグベンの時計のように正確なものだと思っていた。
でも年を取るにつれ、そういうことは「よくある」ということが分かった。子供の頃は全てが大人であった「働く人」は「そうでない」ということも分かったし、自分が八百屋でバイトをして間違うこともあった。
パン屋でも、花屋でも、おつりを間違えられることはあるんだろう、と思う。
「世界って正確ではないのだ」と気づいた。
それは言えば当たり前だけれど、自分が信じていた前提が崩壊するようなインパクトがあった。
「電車が遅れる」「契約書の日付を間違う」「約束のアポを忘れる」「書類をもっていき忘れる」「メールの宛先をBCCとCCを間違ってしまう」などなど。
世の中は、数多くの間違いが多く発生している、と気づく。
しかし、同時に、その「社会の設計」のすばらしさに気づく。つまり、「ある程度のミスに関しては、コアに影響を与えないような生態系」ができあがっているのだ。
たとえば、あなたが明日、送付予定の手紙を投函し忘れたとしても、社会は殆ど何も変わらずに回り続ける。
これを社会生態学やガイア理論的なものに想像をふくらませるものは可能だが、手に負えないので辞める。
ただ、この「間違いを前提にしたシステム」というものは、非常に興味深いもので。
「世の中にミスはないならば、じゃあ、ミスが起こっても大丈夫なシステムにすればいいじゃん」という意識転換のあらわれなのだ。
では、世の中に世界のプログラミングをした人がいると仮定するならば、なぜこのような「ミス」を発生する個体を設計したか?という問題に突き当たる。
それの答えは明確で「不確実性」に対する処理の高さが環境適応にもっとも適しているからである。つまり「確実性」のものだけだと、進化は限定的になる(このあたりは雌雄同体におけるクローンの進化限定的な話とかになるかしら)。
その不確実性のあらわれがプラスであらわれれば「イノベーション」となるし、マイナスであらわれれば「ミス」となる。
で、このマイナスのミスが発生した場合の対応は、プログラミングでいうところの例外処理、に当たる。
携わった方には釈迦説法になるが、この例外処理というのは想像する以上に厄介で。つまり、あるサービスがある。その上に「ユーザがありとあらゆることを行ってもシステムが変わらず動く」という設計にするには、「ユーザのありとあらゆる行動」を事前に予測しなければならない。
たとえば数字を入れる箇所に「ひらがな」を入れるかもしれないし、「名前を入れる」欄に1億文字を入力するかもしれない。もちろんこれらのイージーな「例外」は、対応パッケージ的なものがあるわけだが、それでも、人間の行動のあらゆるパターンを想定するというのは、想像以上に厄介だ。
それに関して、人間はたとえば「忘却」というのも例外処理の1つになるのかもしれない。
仮に、あなたに恋人がいたとする。その恋人が何か病気が事故で他界してしまった。もし、あなたに「忘却」という処理機能が備わっていなければ、あなたは耐えきれないかもしれないし、他の人との恋愛はもうしないかもしれない。ただ、面白いのはミスも失敗も人間が定義するものであって、客観的なものではない、という点にあるのだけれど。
他に、上場企業のIR資料にも「事業リスク」はたんまり織り込まれていて、「天災」だけに限らず「テロ」「景気変動」「人的ミス」などあらゆる「予想しないもの」が記載されている。
途中だけど時間の都合上、すっとばして結論にいくと、世界において「失敗は折り込み済み」ならば、この例外処理が肝なんだろうね、と思う次第。
ぼくはいつか生放送でとんでもないことや発言をしでかすだろう。そこんとこに気づいてぼくの組織はぼくを早いうちに手当てしたほうがいいんだろうな。ちなみにやってほしいことや発言内容は募集中だよ。
16の頃、世界や宇宙を全て把握し統括できている有能な人はいるのだろうかと怖かったのを思い出しました。「今日も空は青く雲は白い」というのが自分の中で安心する呪文でした。そんな子も「マトリックス」を観て妙に安心した幼き日でしたな。
>しょーりさん
御無沙汰しております!
岡留さんと対決して欲しいです!(謎
コメントありがとうございますっ。
>yさん
印象に残る呪文ですね。
うちの親は「山よりでかい獅子はでん(出ない)」とよく言ってました。
ありがとうございます!