小説を映画にした場合、多くのシーンが削られる。映画の2時間でいれれる物語は、小説のボリュームよりもどうしても少なくなるケースが多い。
情報量も詰め込みすぎてはいけない。ゆえにセリフなども厳選する必要に迫られる。
そういう点で、映画は本よりも情報量は少なくなってしまう傾向にある、と考えていた(それが良い、悪いではなく)。もちろん映像としての情報量は多いが、シーンの切り取り方の幅として。
しかし、最近、その考え方が変わった。
映画は、あらゆるカットやセリフに意味がある。そう考えると、実は映画のト書に出ていない情報が映像の裏にはたくさん込められている。たとえば、あるシーンではカメラの視点が、登場人物の心境を表す、といったような。
映像や映画の人からすれば「何を当たり前のことを」という話だとは理解しているものの、そして、頭では理解しているものの、体感として理解できていなかった。
そして、もちろん小説でも同じようなことはある。あらゆる文章には、意味がある。小学校の国語の教科書で習ったような「1行1行に込められた思い」というものだ。たとえば、夏目漱石のあらゆる文章は何かのメタファーと解釈したりするような。
ただ、小説よりも映画の方がセリフ、セリフのトーン、セリフの速さ、カメラ割、色、BGM、背景など情報量が多いため、その多重構造の張り方が多様になる。
先日、バッファロー66を改めて見ている時に、そんなことを思った。意味のないようなシーンが多いこの映画だけど、見れば見るほど、そこに意味を付与できるような物語となっている(本当の意図は不明)。たまたま恩師とバーの人からバッファロー66の話を聞いて、20年ちかくぶりにHULUで見ている。
最近では、シンゴジラが、まさに最たるもので、音楽やテロップのフォント、背景の音声を含めてありとあらゆる仕掛けが張り巡らされている。
あとはタランティーノのパルプフィクションもそのような多重構造が張り巡らされた映画だ。たとえば、ユマ・サーマンの「ケチャップ」というオチがあるジョークの後で、ある役者がケチャップのように殺される。
そう考えると、映画は1シーン1シーンを全力で解釈していく必要があり、パワーが求められる作品なんだと改めて思う。そして、そういう点では、映画は2回見るのが正しい見方なんではないかと思ったり。