名作といわれるだけあって、良い一冊でした。
ナチス収容所の実体験をもとにした一冊。あまりにも過酷な状況のため、人は生きることの意味を問うことになる。
>言語を絶する感動」と評され、人間の偉大と悲惨をあますところなく描いた本書は、日本をはじめ世界的なロングセラーとして600万を超える読者に読みつがれ、現在にいたっている。原著の初版は1947年、日本語版の初版は1956年。その後著者は、1977年に新たに手を加えた改訂版を出版した
人は、この世にもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ
愛は 生身 の人間の存在とはほとんど関係なく、愛する妻の精神的な存在、つまり(哲学者のいう)「 本質」に深くかかわっている、ということを。愛する妻の「 現存」、わたしとともにあること、肉体が存在すること、生きてあることは、まったく問題の外なのだ。愛する妻がまだ生きているのか、あるいはもう生きてはいないのか、まるでわからなかった。
愛する人を思うだけで人は幸せになれるという。そして、その人が生きているかどうかは関係ない、と。
被収容者の内面が深まると、たまに芸術や自然に接することが強烈な経験となった。この経験は、世界やしんそこ恐怖すべき状況を忘れさせてあまりあるほど圧倒的だった。 とうてい信じられない光景だろうが、わたしたちは、アウシュヴィッツからバイエルン地方にある収容所に向かう護送車の鉄格子の隙間から、頂が 今まさに夕焼け の茜色 に照り映えているザルツブルクの山並みを見上げて、顔を輝かせ、うっとりとしていた
また、それは時には自然かもしれない。何かの話で、人は辛い状況になると夕日の美しさに涙をするというエピソードをどっかで読んだ記憶が。
ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ。
有名な一節。自分たちが生きることに期待するのではなく、私たちがなにが期待されているか。これは言い換えると以下のような、苦しみも含めたあらゆる出来事に憤ったり、避けるのではなく、それをどう受け止めるかが試されているという話と理解した。
人間は苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。だれもその人の身代りになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引きうけることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。
苦しみさえも、それも生きる価値の1つに置き換える。ヨガの教えとかにも近い。