上海ベイビーをやっ

上海ベイビーをやっと読了した。
読み始めてから1年もかかってしまった。
詰まらなかった、だとか
分量が多い、とかではない。
ひとつは、読むのにあまりにもパワーがいる小説だったこと。
もう一つはゆっくり読みたかったから、時間がかかった。
筆者は、衛 慧という。
weihui、なんと奇麗な字面、そして音。
上海では、この衛 慧の別の作品を翻訳している方と
お会いする機会があった。
あれは何というホテルだったろうか。
そこから連れて行ってもらった食事亭は、非常に味のあるものだった。
民家の中にテーブルをおいただけのようなところで。
実際、夜中になると、テーブルがどかされ、そこに布団が引かれる。
トイレは公共のトイレを使う。
でも、食事の味は絶品で、炒飯がとても美味だったのを覚えている。
そして麻婆豆腐と。
さて上海ベイビー。
この小説は、村上春樹におけるフィッツジェラルドのような意義が
私にはあるように感じた。
村上は、グレートギャッツビーを評してこう言った。

いつ読んでも、どのページを読んでも無駄な一行がどこにもない。
気が向いた時にぱらっとページを捲って、目に入った行をゆっくり読むんです

というようなことを(記憶なので曖昧)。
つまり、いわば、最初から最後まで時系列で読む必要はない。
ぱらり、とめくって、そのページを読むだけでも楽しむことが出来る。
世界には、そういう小説は数多くない。
そして、どのページにも一行は珠玉の一行が含まれている小説なんて
尚更ない。
多分言葉の美しさに惹かれたのかも知れない。
例えば。

創作こそが私を唾棄すべき凡人たちから分け隔てうるものなのだから、私をボヘミアの薔薇の灰燼のなかから蘇らせるものなのだから

ボヘミアの薔薇の灰燼ってば、そんな言葉、よく出てきたねぇ、とか。
あと、非常に山田詠美と印象を似ているように思った。
例えばこのようなところ。

冷たい態度にはそれなりの態度で応じなければ不公平だ。
私はそうやって自分を守る

山田さんのどっかの小説でも同じフレーズがあっても何もおかしくない。
詠美好きな誰々さんとかは、きっとこの小説気に入るだろうなぁ、とか思ったり。
あと個人的には、この辺の一文では、ジャンフィリップトゥーサンを思い出した。
そのままだけど。

彼にとってお風呂はすべての面倒を解決するために真っ先に行くべき場所であり、
浴槽は母親の子宮のように暖かく安全で幸せな場所だった。
清らかな水で身心を洗えば自分が夜の塵粉から離れ、
うるさいロックミュージックからも離れ
やくざやチンピラやごろつきからも離れ
自分を痛めつけるいろんな問題や苦痛から離れることができるのだ
ともあれ、それで、上海の事を色々思い出した。
思い出していると携帯が鳴り出した。
そこで、さらに、上海で携帯電話を無くしたことも思い出した。
そう考えると、上海の一ヶ月は携帯電話なしで過ごしていたのだ。
無論、海外旅行行く人のたいていはそうかも知れないけれど。
でも、やっぱり日本にいて、携帯がない生活というのは
なかなかイメージしにくい。
携帯がなければ、友人の日々のコミュニケーション云々は
PCメールや手紙やメッセンジャーで代替できても
待ち合わせや、仕事の段取りなどは大きく支障をきたすだろう、と。
それに携帯を持っていて鳴らないならばならないなりに
携帯の効用がある。
それは、世界は須らく予定通りに回っているということを知れるからだ。
誰かが事故にあったわけでもなし、
あるいはあの予定がスケジュールされるわけでもなし、
または、親が他界したわけでもない。
携帯がならないことで、我々は、世界が平穏だということを知ることが出来る。
その点においても携帯の効用は大きい。
でも。
でも上海ではその携帯さえもWorkしなかった。
親は僕に連絡を取ることは出来なかっただろう。
そして、唯一外界との連絡網は、すぐに切れる大学寮のPCだけだった。
陸の孤島というには、あまりにも人民広場から近い大学だったけれど、
それでも、今、思い返せば携帯のない生活は
やはり悪くなかったように思う。
上海ブギウギっ

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