エレベーター内での会話の音量のように

タイトルは、自分のメモから拾ってきた。
例のごとく、何かからの引用なのか、あるいは思いつきなのかどちらかは分からない。
ただ、なかなか良い表現である、と自己満悦した。問題は、この修飾がかかる後の文である。

エレベータ内での会話の音量のように、「私たちはささやき続けた」。

とかだと、ありきたりでつまらない上に、「音量のように」がかかっていない。
どのような言葉が後に続けば、coolかしらねえ。

エレベータ内での会話の音量のように、途切れ途切れのケニアの国道。

とかどうだろう。
でも、これだと、前の「エレベータ内での会話の音量」が持つ淫靡さというのが全く活きていない。
このシチュエーションというのは「従来、エレベーターでの話は他の人に聞こえるからあまりマナー的にも好ましくない」のに、それにも関わらずしゃべってしまう。
なおさら、そこでしゃべるほどの時間をエレベーターに乗っている。ないし、それだけの時間さえも我慢できずにしゃべってしまう、というシチュエーションなわけだから、そこには「しゃべっている対象」との親密性、ないし、緊迫性があるわけで、それを受けなければいけないわけである。
そう考えると

エレベータ内での会話の音量のように、ひっそりと残る夏の焼け跡。

とかだとどうかしら。へんに寄りすぎて少し気持ち悪い気もする。
しかも、「音量のように」がかかるわけだから「ひそひそ」とか「こそこそ」などの聴覚の擬音語の方が良い気もする。

エレベータ内での会話の音量のように、微かに聞こえるジングルの音。

これくらいなら、音で受けてのジングルだけど、「ジングルの音」自体が比喩となるので、まぁ良いのかもしれない。季語も入るし(正確な季語かどうかしらんけど)。

ペットボトルで水を飲む

先日、打ち合わせで表参道を歩いていた。
すると、表参道の交差点を少し代々木よりに入ったところの石に座っている人がいた。外国の方だった。1リッターのペットボトルの水を直接、飲んでいた。
ワイルド、と思った。
確か、Evianだったと思う。手にはオニギリを持っていた。旅行なのかしら?と思ったけれど、わからない。
リッターのペットボトルの水を街中で飲む人はあまり見かけないな、と思った。だから、なぜかとても印象に残っていて。
別段、それが悪いわけではまったくなく(直接くちをつけてリッターの水を飲むことにマナー云々はあるとしても)、あるいは外国人だからそういうことをするのだ、という先入観があるわけでもなく。ただ、インパクトがあった。
なぜ、ペットボトルなんだろう?と考えた
自分の記憶として、街中でペットボトルの何かを飲んだのはスーダンのハルツーム近辺と、サハラ砂漠を越える時にモロッコのダグラからモーリタニアのヌアクショットへ移動前後あたりが強く印象に残っている。むしろ、某国では、歩きながら頭にペットボトルの水をぶっかけていた記憶さえある。
それらは、熱いためにそうしていたのだ、と考える。しかし日本は熱くない。
そうすると、喉がものすごい乾く人だから、か、あるいはペットボトルの方が量効率が良いから、などが考えられる。他にも、その水で街中の観葉植物に水をあげるからとか、それはいざとなったら枕にしてiPhoneの行列に並べるからとかも可能性としてはありうるが、かなり限定的だろう。
理由はわからない。
その人は女性だった。男性だったらワイルドで済む問題だろう。しかし、女性はあまり「ワイルド」の形容詞で呼ばれることは少ない(相対的に)。そう考えると、その飲み方は、一般的には、控える傾向にあるものだ。しかし、彼女はそんな社会通念を吹き飛ばすがごとく、グビグビと水を飲むわけである。角度的には、70度くらいの角度だろうか。そのような勢いで水を咽喉に垂直吸飲されていたわけで、なんというか、勇ましかった。
ペットボトルの水を、街中でグビグビのむというのは、何かしら蠱惑的な気がした。
それはたとえば他人に貸した歯ブラシがどこに置かれるかの問題やシュシュの存在意義とその可能性に纏わる課題にも相似した要素を含んでいるような気がした。
まったくメッセージ性もオチもないのだけど、何となく最近、記憶に残ったペットボトルでした。

会話

image.jpg

「最近、面白いことあった?」

というような会話のオープナーがある。つまりトピック提案というか。他にも「最近どう?」とか「元気」といったオープンクエッションだ。
ただ、これはアジェンダ(議題)設定とは異なる。
ここでは、相手が出す「アジェンダ」をベースに話を構成しようという質問だからだ。つまり、自分からアジェンダを出さずに、相手に委ねるというやり方である。
この場合、相手は「聞かれたから答えるよ」という形になるが、その人の答えた回答がアジェンダになるために、回答する方がテーマの主導権を握るけれど、その構造を創るのは質問した人で、大きな構造では、その人が主導権を握る(ポール)。回答する人には「ネタになる回答をしなきゃ」という負荷がかかるが、その分を差し引くと、まぁ、フェアな会話構造である。
認知科学に興味がある1人として、このような会話の構成要素に興味がある。言語には文法があるように、会話にもある種の「フレーム」があるような気もしているし、どこかではそういう研究もあったはずだ。たとえば、英語のSVCのように中身はともあれ「主語」「動詞」云々のような枠は存在していて、会話もそのような枠に類型化できることがある、気がする。
たとえば、会話は、基本的に「質問」「回答」から成り立つ場合がある。もっとも、

昨日ね、こういうことがあったんだ

といって自分からアジェンダを設定して、さらに自分で話をするという型もある。相手の興味が分からない場合や、自分のネタに自信がある場合、あるいは相手があまり話をしない場合はこの型になりがちだ。いわば「提案」「主張」型である。
あるいは、

最近みたトトロという映画面白かったよ。好きなジブリ作品なに?

みたいな「主張」「質問」の型もあるだろう。これは、文脈をある程度つくって(場をつくって)相手にボールを渡すので、相手に優しいバファリン型トークである。一番、相手への負荷は少ないかもしれない。
この辺りは、多分、人の個性によって、どのような会話を好むかは全く異なるのだろう、と思う。たとえば、「提案」「主張」型しかしない人はいるし(質問を全くしない人)、逆に「質問」しかしない人もいる。基本はmixになると思うが、傾向はあるだろう。あるいは、相手との関係性によって変わる。たとえば10年寄り添った夫婦なら、「報告」型になるし、初めて会う異性だったら探り探りの「質問」が多くなるかもしれない。
会話をしている時に、たまにこのような構図を描きながら会話をする。つまり、このトピックの源流はどこか、相手の会話の好む類型はどれか、あるいは、会話の比率はどうか。
この比率というのも意外にくせ者で、人は「相手ばかり話をしている」と、抵抗感を感じるし、逆に「質問ばかり」されていても、抵抗感を感じる。逆に「相手がずっとしゃべる」というケースの場合、こちらはほとんど意見や提案を述べなくても、「相手はその会話を楽しかった」と感じるケースがあり、不思議な心理学が働く。ただこの場合も「意見」を述べるのではなく、「相手の会話に添え木」をして、会話をふくらませるために「質問」や「応答」「同意」などが必要となってくるため、この場合も複数の分岐が存在しそうだけれども。
また、「議論」を好む人もいて、その人はとりあえず相手の提案に反論を示す。それは敵意を表すのではなく、会話の醸成のために、敢えて反論を持ち出すというやり方である。この場合、単なる同意よりも話が盛り上がることが多く(盛り上がる=多様性を生む)、便利なのだけれど、ただ、落としどころが難しい(敢えて反論した側が折れるのが適切だとダレカガ言っていた)。
あと、これはどこかで読んだのだが「質問」をする人は、その「質問の回答」を重視するよりも「質問返し」に本質がある場合がある。つまり「自分が聞いて欲しいことを相手にまず聞く」という人もいる。これは、うっかりすると回答ばかりで話が流れてしまいややこしいことになりがちなので、相手の質問の本意を推測する必要ありマスあるよと誰かがいっていた。
会話が上手な人は往々にして質問が上手なような気がしていて。しかも、その質問のテーマ設定が絶妙である。特に多数の場の時はその質問の回答でのコミュニケーションがしばらくは醸成されるわけで、そのテーマが失敗すると大変なことになる。そういう点で「誰しも回答」ができて「誰しも楽しめて」さらに「その回答が参考になる」という質問は非常に難しい気がする。大学時代に某諸先輩方の判例として、たとえば「自分が異性に対してこだわる身体のパーツは?」とか、最近された質問として「一番もらって嬉しかったプレゼントは?」とか。
あと質問1つとっても「HOW」「What」「Which」などの類型があり、一番インパクトのある質問は「Why」である。ビジネスだと、これをベースとした質問になるが、日常会話では「Why」は使いどころが難しい言葉でもある。というのも、相手がこの回答として適切なものを持っている場合、会話の深さを増すことができるが「なんとなく」「わからないけど」という場合、相手はスムーズな回答が出来ず、お手つき1回をもらった気分になる。あと、この「HOW」を「When」に見せかけるという質問もあり、たとえば「○○の夢はなぜ諦めたんですか?」というディープな質問をこのように聞くと相手はなかなか回答しにくいが「その○○の夢を諦めたのはいつ?」という形だと、まだ回答はしやすい。そして、そのいつというのが、Whyの回答の補助線となる(その時に何があったか?ということになる)。あと、手垢にまみれた古典的な質問として「私/僕のどこが好きなの?」という命題があるが、これは「Which」に見せかけたトリックな質問だと誰かが言っていた。これの応用として、小説としては陳腐すぎる命題としての「私と仕事どちらが大切なの?」という2000年利用されている質問も同じ構図である。これは質問に見せかけた「意思表明」
であり、しかも回答は「Which」ではなく「Because」で受けないといけないという複雑なトラップであると先生が言っていた。ないし「Yes/No」でも可だそうで。でも場合によってはそれを一周させて「Which」で受ける方が適切という友人談もあり、もはやデリダもびっくりの脱構築の再構成の世界になってくる。あと映画や小説の小粋な会話として「質問」に対して「接続詞」で回答するというテクニックがある。「あるいは」とか。その辺になってくると、もはや会話というか台詞の世界である。それでは良き問いを。
※写真になぜかハートはいってますが、意図なし(ポラツール使ったら入ってた)

ITとコンテンツ業界のイベント「BRIDGE2009」

勝屋さんDr.本荘さんが以下のイベントを開催されます。
» BRIDGE2009
セッションもそうそうなる面子かと存じ上げます。私も参加予定。学生さんたちも強くWelcomeだそうですよー。
ご興味ある方はこちらからどうぞ!詳細は以下!

イベントフォースで詳細を見る

Hung in there!

がんばって、という言葉がある。
一般的にその言葉は、人を応援するために利用されるが、鬱病の人には投げてはいけない言葉だとも言われる。あるいは、がんばってる人に対しては一種のややこしい言葉になるので(いわば、役者に役者っぽいねっていうような)、なかなか使いどころの難しい言葉である。
しかしながら非常に便利な言葉ゆえに、別れ際の言葉などに愛用されることも多く、また、「がんばろうね」的な、共同戦線アプローチ兼、同調表明による親密性確認用語ならば、なお便利な言葉として活用される。
そして、この「がんばれ」って英語で何というの?という話はたまに耳にする。高校生の頃はたしか先生が「Cheer up! 」と言っていたような気もするけど、最近はもっと違う表現があるんじゃないかとふと思った。
それが「Hung in there!」である。
もともとはボクシング用語らしく、いわゆる「クリンチして耐えろ!」のような用法から利用されたらしい。以下参照。
» Hang in there | 日常生活スポーツ英語 by HIROSHI IKEZAWA / 生沢 浩 | 英語とお仕事 | 週刊STオンライン ― 英字新聞社ジャパンタイムズの英語学習サイト
つまり「耐えろ、ふんばれ」的な意味となる。おぼろげな記憶ではあるドラマ、ガキんちょがシークレットサービスに追われている時に、父親(リンカーン)に電話する。そこで監獄中の父親が子供に対してこの言葉を使っていたような記憶がある。
これは、「応援する」といった語義の「Cheer up」という言葉とは、視点が大きくずれた言葉になるけど、なんというか、この「Hung in There」の方が使い勝手は良さそうな言葉である。というのも「がんばれ!」という言葉は、がんばってる人には使えない言葉だが、この言葉はがんばってる人にこそ使うべき言葉だからである。
あとイメージ的にも「Hung」は、ひっかける/つるすなどの意味から想像するに、「Hung in」は、ロッククライミングで厄介なホールドにムーブする時のようなシーンを想起させ、ミッションインポッシブル2のオープニングのようなハードコアな匂いがする。Cheer upはなんかチアガールが足を振り上げているシーンを想像し、それはそれで悪くないのだが、まぁTPO。
古賀さんのブログで「がんばれ」の言葉の危険性に触れられているのを読んでふと。
» 鬱病による自殺が減りますように。 (長文) – 愛の日記 @ ボストン

肉食草食

土曜の夜にtsutayaにいった。コーヒーを買いに。けやき坂の下のいつものtsutaya。
ふらっと2階のカウンターやテーブルを見てみると、人が詰まって座っていた。構成を見てみると、女性が1人か、男女のカップルだった。だいたい女性1人が5人くらい、カップルが7組くらいだったろうか。
ポーカーや花札ならぱっとしない組み合わせだけど、麻雀ならまぁ悪くないかも、といった程度の。不思議なことに男性が1人で座っているのは見かけなかった。うーむ、映画のタイトルだとsinglesってのがありそうだ、と思いながら、歌のタイトルとしては野暮ったいな、と思う。時に、英単語は映画性を持つものか、音楽性を持つものにわかれるに違いない。
ともあれ、そりゃそこにいらっしゃる女性。資格の勉強に忙しいのかもしれないし、あるいは、夜中から男性と六本木で落ち合うのかもしれないし、あるいは、今日はたまたま1人でいたい気分なのかもしれないけれど、なんだか、普通に社会の構図を考えて機会損失がいろいろ起こっているのではないかと、余計なお世話を考えた。1人の男性は部屋でこもっているのかもしれない。いずれにせよ、そのtsutayaでは、1人女性比率が高く、アンバランスな性差環境を作り出していた。
それを見て、ふと思い出す。最近、恋愛だか婚活だかの業界の話で、「肉食/草食」といった人を区分するボーダーがあり、もはや一般用語として使われるようになっている。
いつかの先日も「原田君は、肉食?草食?」と聞かれ言葉に窮した憶えがある。1つは、あまり自分がどちらに属するかを考えたことはなかったし、もう1つは、ここで何と答えるのかが適切なのかがわからなかったからだ(ちなみに回答は近くにいた人が代弁してくれたので事なきを得た)。
そして思い返してみるに、周りの女性では、恋人がいない人が昔に比べて多いような気がするということに気づいた。これは相対的な話で、学生時代は、もう少し「恋人いる」という女性が多かった気がする。これは、「妙齢」と呼ばれるセンシティブでアンタッチャブルな領域の話ゆえの現象か、あるいはこの景況感によるものか、あるいは、メディアが言うように「草食系男子が増えて来た」的な現象に寄るものかわからないけれど、いずれにせよそういう傾向があるような気がする。ただ、もう1つの説としては、「恋人はいない」と当人の自白のみの話なので、実際のところはいる可能性があるわけで、そういう意味では、年齢を経るとともに「いる」という公言することのメリット・デメリットの観点から「いない」という人が増えているだけの可能性もあるけれど、詳しくは調査していないのでわからない。
ただ、さらに思い返してみるに、男性も恋人がいるケースはあまり聞かないな、という気もする。ただ、よく考えると、それは単純に「恋人がいるか?」と聞いてないから、しらないだけなのかもしれない。あるいは結婚という古来から議論されている仏教的禁忌的な契約関係に従事している人は、「恋人」という関係性よりも、もっと別の言葉で表現される何かの関係性に属しているから、恋人という話はあまり聞かないのかもしれない。ただ、周りにいる男性は往々にして上記の区分でいわれるところの「肉食」も肉食、なんというかむしろマンイーターという表現の方が適切な人の方が多い気がしていて、そう考えるとメディアが言う「男性が草食だから、恋愛する人たちが少ないのだ」的な言説は当てはまらないような気もしている。ただ女性の言うところにいうと確かに「肉食男子がいい」という声も少なからず聞くので、本来ならば、そこではしかるべくしてマッチングは発生しているはずだが、それでもこのギャップがあるのは、何によるものか。もしかすると彼らはtoo much肉食すぎるゆえに、彼らはそのような区分を超越してしまっているのかもしれない。ふむ。あるいは肉食という概念と恋愛という概念のベン図は必ずしも被っていないのかもしれない。アーメン

Art

最近、周りでアート関係の話が出ることが多い。たとえば、純粋にアートが好きでしょうがない人から、空き時間には絵を描くようなプレイヤー、それを投資対象と考えている人から、CSRとしてのビジネス兼アート業界勃興に携わっている人からアプローチの方法はそれぞれだ。
思い返せば、ここ数年、とみにそのような話を聞く機会が増えてきた。実際、美術館の人気や写真・絵教室などの人気などを鑑みるに、それなりの妥当性があるのではないか。そこで考えたのだが、2通りの考え方がある。
・潜在的にアートに興味がある人は一定数がいる。そして、私が会う人が年齢的に、20代後半から30代前半になる。そして、そのような年代になると、上記の一定数の人はアートへの関心を発露する、ないし、公言するに至るという考え方
あるいは
・ここ数年、そのようなアートに興味がある人が増えてきた
という考え方
そして、どちらかというと後者の方が正しい気がしている。前者としても、ある程度はその傾向があるような気がするが後者の方がインパクトとして大きいような。理由としては、特にない。肌感覚である。
そして、その場合、「なぜ」最近、アートに興味がある人が増えてきたか、と考える。
シンプルな国内の変化を考えるに「閉塞感」「経済の停滞」「将来への不安(少子化などに纏わる問題、婚活の問題等)」などが思い当たる(異論もあるとは思う)。そしてかりに、このような「ネガティブな前提(=社会の変化)」と「アートに興味があること」の相関関係を考えてみる。
そうすると、1つの仮説ができあがる。
これまでGDP一辺倒の社会(いわゆるマテリアルワールド=資本主義社会)の流れできていた昨今。しかし、日本は、それに限界があることが見えてきた。そこで、その経済という指標のアンチテーゼとしてアートの存在が浮かび上がる。
もちろん、アートとビジネスは結びついている。しかし、ロックの源流が社会のアンチテーゼでもあるが同時にそれは経済活動の流れの1つとして取り組まれているように、時に、「指向性」と「現状」の矛盾は両立して存在する。
そして、そのような社会のミクロな変化は、上記のようにマクロの環境要因から推測できると同時に、そのミクロの変化をマクロの変化に還元する推測も可能である。そうした場合、アートが好きな人が増えてきた場合、どうなるか?
1つはアートの市場が確立される。絵や写真などでメシを食える人が増える。それは可能性としてはありうる。では、私の関心どころである国際政治で見た場合はどうか?上記のやっつけ仮説が正しいとすれば「経済が停滞すればアートに興味のある人が増える」ならば、今後、ますます、そのようなアートに関心を持つ人が世界レベルで増える。なぜなら、いけいけどんどんの経済成長は新陳代謝として、先進国から後進国に移るのが、諸行無常の世界の流れだからだ。もちろん、最先端でかけ続ける国もあるけれど、いつしかそのような国には停滞がくる。そしてアートへの自己同一性の投射先ニーズが高まる。ここでのポイントは「経済的に停滞感があるからアートへの関心が高まる、のではなく、『一度この世の春(=経済成長)を経験した国が停滞に向かう』場合に起こるという仮説(=中年の憂鬱現象)」である。
そうすると、世界でアート同士の競争が起こる。そして、それが経済と結びつく。しかし、本質として経済へのアンチテーゼがアートであったが、それが経済に取り込まれ、それが一定数になると両立していた矛盾は崩壊し、いつしか、それへの乖離が始まる。しかしながらも市場は出来ているので、ある程度のアート分野での国際競争が起こり、そして、それは再度、市場への取り組まれる(たとえばブルースの歴史のように)。
だから何?というのはない上に、こんなつまらない話をしてもしょうがないのでアート関連で聞いた興味深い話をいつか。うろ憶えかつ、それが正しいかどうかは未確認なのでご容赦をば。
油絵で塗料が使われる。その塗料は絵の具のように均一価格ではなく、塗料によって値段は大きく異なる。塗料は石などを削ってつくられる場合などがあり、その石の希少性が値段などに反映される。その中で「本当の赤」というようなものは値段が高いとかとか。なんだかロマンチック。
その中で1つ「クラインブルー」という青がある。イブ・クラインという人が編み出した「青色」だ。Wikipediaによると

1957年に、黄金よりも高貴な青「インターナショナル・クライン・ブルー」(International Klein Blue, IKB)と呼ばれる深い青色(右の画像は近似色)の特許を取得し、

とのこと。色にも特許があるというのは、なんだか色々考えさせられる上に「黄金よりも高貴な青」といえば、黄金よりも価値のある胡椒を思い出させて、なんだかロマンを感じざるを得ない。
また、印象派で人気のあるルノワール。そのルノワールの絵は、独特の肌感を表す色合いが有名だが、その色は、真珠を使った塗料が使われているとかいないとか(都市伝説の可能性あり)。
または、アルゼンチンは独特の色合い(カラフル)な家の色で有名だが、それの経緯は、もともと船着き場だったアルゼンチン。その港町では家家があったものの色を塗るペンキがなかった。そこで、船の色を塗ったペンキのあまりで家の色を塗っていった。そして、いつしか、町は船の色を表すようなカラフルな町となっていった、とか。
芸術という不明瞭な(中立的な意味で)市場に、新しい「何か」を見つけ出す人が増えるというのは、アーティストがキャンパスに「何か」を見つけ出すというフラクタルな構造を何か想起させてコリン ウィルソンの「アウトサイダー」における「見えてしまう人」を思い出させた。そして、あのCMのこのフレーズを思い出す。

彼等は人と違った発想をする。
そうでなければ、何もないキャンパスの上に芸術作品は見えて来るだろうか?

斜線

部屋から首都高が見えて。
芝公園だかなんだかの入り口から入ってくる車がいて。でも首都高の車の流れは早くて。スムーズに入れず合流地点で車が一度とまっていた。そして、車の流れが途切れるのを見計らって、入っていった。
アメリカのハイウェイだかフリーウェイを思い出した。アメリカでは、確か、すごい勢いで合流する仕組みだった気がするけどCA独特のものか、あるいは記憶間違いかもしれないけど、入るときに一度とまって入るという記憶はあんまりないような気がする。渋滞していたときは別だけど。たとえば朝のサンタモニカやパサデナだかどこかで一度とまったかもしれないけど、いずれにせよ、アメリカのハイウェイはとてもスピーディだった。それは車線の多さも関係しているのかもしれない。あるいは気質が関係しているのかもしれない。
大きな流れに飛び込むときは、一度じっくり考えて、立ち止まって飛び込むのか、あるいは勢いのまま、ぐんとアクセルを踏んで合流するのか、というか。
高速道路は何かしら哲学に満ちているな、と思った。村上春樹は、「カミソリにも哲学がある」と看破したが、そういうことなのかもしれない。あるいは、伊坂幸太郎は「人はあらゆるものを人生に喩える。川の流れだって」と看破したが、そういうことなのかもしれない。
カープールの話。日本人にはなじみがないけれど、アメリカのハイウェイのシステムで、複数人(2人以上だっけ?)の車両だけが走ることが許されたレーン。渋滞している時はそのレーンを走ると、すいすいと進むことができる。つまり、渋滞を緩和(車は複数人でのって車の数を減らそうぜ)させるための仕組みなんだと理解していた。つまり、大きな流れですいすい生きたいときは1人ではなく、複数人が良いのかもしれない、なんというか。
カーナビの話。車に乗っていて、カーナビの曲がる場所がいまいちわからず戸惑うことがある。三本の道が前にある時にどの道を指しているのかわからない時や、あるいは、角が複数あって曲がるタイミングを見計らうとき。すると、横に乗っている人は本だか音楽再生機を見ているはずなのに、「そこの道」と指摘する。そして、運転手は、戸惑いを解消し、正しい道を進むことができる。「なぜ、前を見てなかったのに、運転手がカーナビで戸惑っていたかわかったの?」という問いには、「運転のリズムが変わったから」と答える。時に、人はリズムで世界の流れを把握する。それがメロディなのか、拍数なのかは知らないけれど。
あるいは、運転している時にクシャミだか、咳き込むだかで、口に手をのばしたときに、ほんの一瞬、ハンドルから運転手の手が離れるときに、そっと助手席から横から手をのばし、そのハンドルを支える人がいるという、一説によると。男であろうと女性であろうと。
ある車においては、ある一定のスピードが出ている方が車体がぶれないという。あるいは、ある程度、車のスピードが出ているときに止まるならば、一気にブレーキを踏まず回数をわけてブレーキを踏む方がいいともいう(ポンピングブレーキだっけ?)。あるいは、エコカーにおいては、動くことでエネルギーを蓄えて、それをさらに動くエネルギーとする。それらを何に喩えるかは自由だとしても、いずれにせよ、見方によっては含蓄深い存在だ。
パスカルが看破した「人間は考える葦」というのは、現代の人間の足である車にも当てはまることなのかもしれない、と思ったり思わなかったり、いや思わないのだけれど、でも、車は何かしら赴き深い
ということには、一票を投じたい。

絵文字

原田さんって絵文字使わないよね

と、しばらく前に言われた。
使わないな、と思った。
理由としては、いくつかあるな、と考える。そもそも携帯のメールはPCで打っているので絵文字がうちにくい(うてないこともないけど)。あと絵文字をうつ時間が苦手だ(ATOKにURLから住所からなんでも単語登録する身としては)。次に絵文字の互換性がよくわからない。PCだとMacとWinなどで機種依存文字があり(たとえば数字に丸かっことかだったけ)、携帯にもそういうものがあるよな、と思い、どれがOKでどれがNGがいまいちよくわかっていなかった。
その話をすると、「これは同じキャリアに対応で、これはどのキャリアでOK」という知識を教えてもらったが、未だに、動く絵文字(なんていうの?デコメ?)のキャリア依存(ないし機種依存)はよくわからない。
しかしながらIT業界に生きる人間として、この絵文字は重要なコミュニケーションツールであり、一度じっくり考えた方が良いような気もしている。何より「言葉」を愛する1人としては考えねばならぬだろう、ということで考えた。
個人的には、ただ絵文字が嫌いなわけではなく。確かにplainな文章よりも、絵文字がついていた方が、暖かみがあるし、情報量さえ増える(最近、この絵文字の付加情報の価値を考える機会も別にあったし)。メッセンジャではよく使うし、2chの顔文字もとかくに便利ではある。太古から存在する(: smile markも愛すべき存在だ(あと、どこが発祥か知らないけど、 >< この顔文字も最近は市民権を得て良いことだ。みん就とかで最初にみかけて、当時は2chで揶揄される絵文字だったけど、それが一般化したのかしら)。あと蛇足だけどiPhoneでは絵文字がものすごく便利だ。使い勝手が多い絵文字が多いのかしら?
だが、携帯の絵文字にはなんだか抵抗があった。さらに深く考えてみるに、上記の理由以外にも携帯の絵文字を使うことの抵抗がある気がしてきた。
思うに、「男性が使ってよい絵文字の妥当ラインというか臨界点」というのがよくわからないからというのもあるかもしれない。
つまり、一般的に、「男性から携帯メール」をもらうことはあっても、「男性が女性に出す携帯メール」は一般的にどのようなものが使われているかは、1男性はなかなか知る機会がない。なぜなら自分は女性ではないからだ。そして、なぜここに性差の問題が出てくるかというと、一般的に「女性は絵文字を使うことの社会的許容度は高く、男性は相対的に低いであろう、と推測され(ミッキーを愛する男性が女性よりは少ないことと同程度に)、また、そもそも男性へのメールの絵文字に気を使うこともないから(理由としては男性がどんな絵文字使おうと一般的には瑣末ごととして処理されるからである。その論拠としては、男性が男性から受け取ったメールを保護する確率が低いことから推測することからの類推。なおさらにその論拠は略)」である。
そのため、「一般的な男性の社会人が女性に対して使う絵文字の許容範囲」を知らないから、という点も考えうる。そのヒアリングをしたところ「この絵文字を使う男性はいけてない(この絵文字を説明したいところだが、それを説明すると弊害もありそうなので略)」「男性ならこれくらいの絵文字を見ることが多い」「これくらいの確率で男性は絵文字を使う」というようなデータを多少集めることができた(サンプル数一桁)。
しかし、そこで気づいたのだが、送る相手の属性によっても、絵文字の量/適切さは変わるのではないか?という点に気づいた。つまり「恋人」「友人<N<恋人」「友人」「先輩」「同僚」などの属性によって、絵文字は変わるのではないか?という仮説に至った。というかわかるだろう、しかし、個人的に思うにその差分は限定的なような気もしている(ソースは自分自身の体験談)。つまり、「絵文字の許容平均値」があって、それの触れ幅は属性によって変わるけれども、その傾向は大きくは変わらない、というような。
では、その触れ幅を考えるにあたり、逆に「女性はどのような絵文字を使うふれ幅」があるのかを考えてみた(というか聞いたり思い出してみた)。まったく使わない人から、過去に話題になった暗号文になったような絵文字の方が分量が多いといったヒエログリフ的文章を書く人まで多用にいることがわかった。また最近は、動く絵文字やテンプレ系メール(なんていうんだっけ?)なども多段に活用され、自分の名前を独自のアニメーションgif的な存在で書いておられる方も存在するわけだ。もはや、ここから鑑みるに、人(女性)によって絵文字の利用頻度/方法は無数にあるという、なんとも参考にならない思いを得た。
男性でも、それなりに使う人も、まったく使わない人もいるようだ。そして、聞くところによると、その許容度も、相手との属性やそもそも受け取る側の主観性によっても大きく変わる。そりゃ当たり前といえば当たり前の結論で、それはそうだが、そんなことで世の中が回っていれば社会学なんて存在しない(人それぞれだよ、で住んでしまう)。
そこで、こういうのは自分で試しながら検証するしかあるまい、と数週間前から、絵文字というものを使おうとしているのだが、やたら難儀だ、これがまた。
まず「相手が使っている絵文字はなんとなく使いにくい(英語で、一度使った名詞は次は違う代名詞で表現することに似ているかもしれない」。次に「この絵文字は女性っぽい(なんかウインクしてるみたいな顔とか)」みたいな謎の先入観がある。そして、「そもそも絵文字を使うようなメールをうつことがあんまりない(業務連絡ばかりだ!5日の17時にどこどこ集合とかのメールに合った絵文字はなんだというのだ。時計か?おんぷか?この指とまれよろしく指か?)。あとそもそも携帯メールをうつことももらうことも多分極端に少ない(世の中の人は携帯メールで何をやりとりしているのか?twitterで過半数が意味のないやり取りという調査があったが携帯メールもそうなのか?)ので練習もあんまり出来ない。
そういうことで、相変わらず絵文字の存在に四苦八苦しているわけだが、これはもう何かしらスタイルを決めるのがよかろう、と思い、文章の末尾に何かしら思いついた固形物系の絵文字を入れるということに落ち着こうとしている(そういえばペンギンがあってイルカやクジラがないのはなぜだ?グリーンピースのロビー活動か?)。おんぷみたいな意味がほとんどないが、しかし当たり障りがなく、先入観を拒否するような絵文字が個人的には好きなのだが(メッセの最後の投稿を意図するような記号としても便利だ)、そういうのをもっと増やすべきだ(梵字とか、サンスクリット文字とか、トンパ文字とか)と思うのだが、いかんせん、そんなことをいったって絵文字は増えない(自作もできるのだろうけど、ここで議論すべきはそんな問題ではない)。スヌーピーの名言でいうならば「配られたカードで勝負するしかないのさ」っていう奴である(そういえばとあるサブカルチャーの影響で花札を最近思い出したのだが、あれってもう少し麻雀やボードゲーム並みに評価されてもいいのかもしれない)。
ということで、引き続き絵文字に関しては調査中である。よろしくお願いします 笙ィ(コトエリで絵文字で変換したら左の文字がでた。winでも見えるのかな。)